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{{基礎情報 中国君主 |名 =二世皇帝 嬴胡亥 |代数 =第2代 |呼称 =皇帝 |画像 = |説明 = |王朝 =秦 |在位期間 =[[紀元前210年|前210年]]8月 - [[紀元前207年|前207年]]8月 |都城 =咸陽 |諱 =嬴胡亥 |諡号 =二世皇帝 |廟号 = |生年 =[[紀元前230年|前230年]]?、[[紀元前221年|前221年]]? |没年 =[[紀元前207年|前207年]]8月 |父 =[[始皇帝]] |母 = |皇后 = |陵墓 =秦二世陵 |年号 = |注釈 = }} '''胡亥'''(こがい)は、[[秦|秦朝]]の第2代皇帝。帝号は'''二世皇帝'''。現代中国語では'''秦二世'''とも称される。[[姓]]は'''嬴'''(えい)。[[始皇帝]]の末子。 == 生涯 == 父帝が行幸中に崩御すると、[[丞相]]の[[李斯]]と、かつての胡亥の傅役で始皇帝の側近の[[趙高]]に擁立されて即位する。しかしこの即位には疑問を有する者が少なからず存在し、二世皇帝は即位前後から趙高の勧めに従って長兄の[[扶蘇]]を自殺に追い込み、[[公子高]]ら兄弟を含む皇族や重臣を粛清した。さらに始皇帝陵や[[阿房宮]]、[[万里の長城]]の建築を推進し、[[匈奴]]の侵攻に備えるべく大規模な徴兵を行なったことで人心の離反を招いた。 [[紀元前209年]]、[[陳勝・呉広の乱]]が発生する。これは半年余りで鎮圧したものの、二世皇帝はさらなる土木事業や奢侈な宮廷生活を追求したことから、人心は一段と乖離するが、二世皇帝に諫言した李斯は趙高の讒言により処刑された。この頃から[[楚]]の[[項梁]]を中心とした反秦勢力が強大化、秦軍では反乱鎮圧に対応不可能な状態となっていたが、自らは後宮にこもり、政務を趙高に委任していた二世皇帝には秦朝の現状が報告されることなく、趙高が反乱に関する情報を操作していた。この時期に、趙高が故意に鹿を馬であると二世皇帝に献上した、いわゆる「[[馬鹿]]」の故事となる出来事があった。 [[紀元前207年]]になると、秦軍は各地で反乱軍に敗退、中でも[[劉邦]]の軍は都城である[[咸陽市|咸陽]]の近郊まで進軍してきた。ようやく状況の悪化を知った二世皇帝は趙高の責任を追及し、粛清を恐れた趙高は一族を率いて[[クーデター]]を起こした。その結果、二世皇帝は捕らえられ、24歳(あるいは15歳)で自殺させられた。 胡亥が即位するに当たって、始皇帝が長子の[[扶蘇]]を後継者とする遺詔を残したが、趙高と李斯により遺詔が改竄されたため胡亥が即位した、と『[[史記]]』は記録している。[[西嶋定生]]は「このような偽勅の陰謀があったとしても、それはもともと史料として残る性質のものではない。事実として確認できるのは末子胡亥の即位と、長子扶蘇および将軍蒙恬が勅書を受けて死罪となったということだけであって、偽勅がなされたかどうかということは証明しがたいことである。末子の即位と長子の非業の死という異常の事態と、二世皇帝時代における秦帝国の急速な凋落とが、後世巷間に、このような偽勅の陰謀というフィクションをつくりあげたのではあるまいか」と述べている<REF>中国の歴史シリーズ『秦漢帝国』(文庫版 ISBN 4-06-159273-4)</REF>。 == 脚注 == {{reflist}} {{秦の君主|前210年 - 前207年|第2代|皇帝}} {{DEFAULTSORT:こかい}} [[Category:秦の皇帝]] [[Category:紀元前3世紀生]] [[Category:紀元前207年没]] [[Category:自殺した人物]]
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