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翔鶴 (空母)
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<div class="thumb tright"> {| class="wikitable" style="margin: 0em; width: 300px; background:#ffffff" |colspan="2" style="margin-left:auto; margin-right:auto;"|[[Image:Aircraft carrier shokaku h73066.jpg|竣工直後の1941年8月23日に横須賀にて撮影|300px]] |- !colspan="2" style="background: #f0f0f0"|艦歴 |- |計画||[[1937年]]([[マル3計画]]) |- |起工||1937年[[12月12日]] |- |進水||[[1939年]][[6月1日]] |- |竣工||[[1941年]][[8月8日]] |- |沈没||[[1944年]][[6月19日]] |- |位置||{{coord|11|40|N|137|40|E|name=沈没地点}} |- |除籍||[[1945年]][[8月31日]] |- !colspan="2" style="background: #f0f0f0"|性能諸元 |- |[[排水量]]||基準:25,675[[トン数|t]]<br />公試:29,800t<br/>満載:32,105t |- |全長||257.5m |- |水線幅||26.0m |- |平均吃水||8.87m(公試状態) |- |飛行甲板||長さ:242.2m × 幅:29.0m |- |主缶||ロ号艦本式専焼缶8基 |- |主機||艦本式タービン4基4軸 160,000hp |- |速力||34.2[[ノット|kt]](34.0ktの資料もある) |- |航続距離||18ノットで9,700海里 |- |乗員||士官、兵員1,660名 |- |兵装<br />(新造時)||[[四〇口径八九式十二糎七高角砲|40口径12.7cm連装高角砲]]8基<br />[[九六式二十五粍高角機銃|25mm3連装機銃]]12基 |- |搭載機||常用72機、補用12機<br/>1941年12月常用機<br />[[零式艦上戦闘機]]:18機<br />[[九九式艦上爆撃機]]27機<br />[[九七式艦上攻撃機]]:27機 |- |着艦識別文字|| シ |- |} </div> '''翔鶴'''(しょうかく/しゃうかく)は、旧[[大日本帝国海軍|日本海軍]]の[[航空母艦|航空母艦(空母)]]。 == 概要 == '''軍艦 翔鶴'''は[[翔鶴型航空母艦]]の1番艦である。[[大和型戦艦]]「[[大和 (戦艦)|大和]]」と共にマル3計画にて建造され、ほぼ同時期に竣工。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[エセックス級航空母艦|エセックス級]]や[[イギリス]]の[[イラストリアス級航空母艦|イラストリアス級]]と同様、[[ワシントン海軍軍縮条約]]終了後に設計建造されたため、必要かつ十分な装備を持つ大型空母として完成した。[[第五航空戦隊]]として翔鶴型空母2番艦「[[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]]」との作戦行動時には、決まって本艦が損害を受けることが多かった<ref>[[#続・海軍くろしお]]178頁</ref>。日本海軍機動部隊の主力艦として活躍し、[[1944年]](昭和19年)[[6月]]の[[マリアナ沖海戦]]で米潜水艦の雷撃により沈没した。 == 構造 == 日本海軍の軍艦としては、初めて球状艦首([[バルバス・バウ]])を採用し最大速力34kt の高速性を得た。機関出力は16万馬力で、大和型戦艦をも上回る。防御能力についても、機関部や弾薬庫などの艦主要部は[[巡洋艦]]の砲撃に十分耐えられるよう装甲が施され、炸薬量450kg の魚雷にも耐えうる水雷防御が施されるなど充実した性能を持つ。しかし、英空母や次級の[[大鳳 (空母)|大鳳型航空母艦]]のように飛行甲板の装甲は有しておらず、500kg爆弾が命中すると航空機の運用ができなくなる。{{要出典範囲|また、[[ダメージコントロール]]分野に関しても同時期の米英空母に見劣りする面があり|date=2011年8月}}、[[ミッドウェー海戦]]での4空母損失の教訓から、可燃物の撤去や可燃性の塗料などを使用しないなどの運用上の工夫でカバーされていた。 <gallery widths="200px" heights="180px"> File:Shokaku pre-launch.jpg|進水前の翔鶴艦首 Image:Shokaku launch.jpg|進水時の翔鶴 Image:Japanese aircraft carrier shokaku 1941.jpg|新造時の翔鶴 </gallery> 基本的には「瑞鶴」と同様であるが、「翔鶴」は計画時には艦橋を左舷中央に配置する予定であった。左舷中央配置は空母「[[赤城 (空母)|赤城]]」、「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」で採用されたが用兵側から不具合が指摘されている。「飛龍」の場合は、建造開始後に「赤城」での左舷中央配置艦橋の問題が判明した。しかし「飛龍」の建造が進んでいたため、左舷中央配置艦橋のまま配置された。だが「翔鶴」はこの問題が浮上したのが設計段階であったため、右舷前方配置艦橋への設計変更が可能であった。 ==戦歴== 軍艦「翔鶴」は[[1937年]](昭和12年)に発表された第三次艦船補充計画(通称[[マル3計画]])によって、[[大和型戦艦]]や[[陽炎型駆逐艦]]と共に計画され、同年12月12日に[[横須賀工廠]]にて建造が始まった。同計画1号艦が戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」、2号艦が「[[武蔵 (戦艦)|武蔵]]」、3号艦が「翔鶴」、4号艦が「瑞鶴」、5号艦が[[水上機母艦]] 「[[日進 (水上機母艦)|日進]]」である。[[1939年]](昭和14年)[[5月16日]]、「'''翔鶴(シャウカク)'''」と命名<ref>[[#5月(昭和14年達完)]]p.11『達第七十號 横須賀海軍工廠ニ於テ建造中ノ航空母艦一隻ニ左ノ通命名セラル 昭和十四年五月十六日 海軍大臣米内光政/航空母艦 翔鶴(シヤウカク)』</ref>。同年[[6月1日]]、[[伏見宮博恭王]]立会いの元で進水<ref>[[#海軍美談]]46頁</ref>、記念絵葉書と硝子製翔鶴艦型文鎮が配られている<ref>[[#海軍美談]]48頁</ref>。[[1941年]](昭和16年)[[8月8日]]竣工。[[横須賀鎮守府]]籍<ref>[[#艦艇特務艦艇籍一覧表]]p.1</ref>。 ===真珠湾攻撃=== [[Image:Carrier shokaku.jpg|thumb|250px|真珠湾攻撃へ向かう翔鶴[[艦載機]]]] 竣工後は直ちに[[連合艦隊]]に所属し、姉妹艦「瑞鶴」と共に[[第五航空戦隊]]を編成し、[[第一航空艦隊|第一航空艦隊(南雲機動部隊)]]に所属して[[真珠湾攻撃]]に参加した。 [[艦上攻撃機]]隊48機が[[宇佐海軍航空隊#沿革|宇佐基地]]、[[艦上爆撃機]]隊54機が[[大分空港#旧大分空港|大分基地]]、[[艦上戦闘機]]隊36機は、[[佐世保海軍航空隊#戦後の佐世保飛行場|佐世保基地]])を基地として<ref>面白いほどよくわかる太平洋戦争 [[日本文芸社]] p.37</ref>、離発着訓練や[[錦江湾]]、[[志布志湾]]、[[佐伯湾]]での訓練を行い、11月16日[[佐世保基地]]にいた「加賀」以外の[[第一航空艦隊|第一航空艦隊(南雲機動部隊)]]空母5隻は佐伯湾にて艦載機部隊を各陸上基地から離陸させて着艦収容した。 その時の佐伯湾には[[ハワイ作戦]]に参加するほとんどの24隻の艦船が集まっており、翌17日午後に[[山本五十六]][[連合艦隊司令長官]]の視察を受けた。各艦船は機動部隊としての行動をごまかすため、11月18日時間をずらしてバラバラに佐伯湾を離れ、第五航空戦隊は[[豊後水道]]を他艦とは逆に北上して[[別府湾]]で停止した。 そして日付が19日になった午前0時に再び動き出して、艦隊が最終集結する[[千島列島]]の[[択捉島]][[単冠湾]]を目指し、艦隊集結予定日通り11月22日に単冠湾へ入る。各艦打ち合わせと兵器整備の後、11月26日南雲機動部隊は単冠湾を出港し艦列を連ね、一路[[ハワイ]][[真珠湾]]へと向かった。 {{Main|真珠湾攻撃}} ;翔鶴からの真珠湾攻撃参加機 :;第一次攻撃隊 ::[[九九式艦上爆撃機|99艦爆]]26機=指揮官:飛行隊長[[高橋赫一]][[少佐]]、[[零式艦上戦闘機|零戦]]5機=指揮官:分隊長[[兼子正]][[大尉]] :;第二次攻撃隊 ::[[九七式艦上攻撃機|97艦攻]]27機=指揮官:分隊長[[市原辰雄]]大尉 しかし真珠湾攻撃作戦から帰投すると、1942年1月1日付で「翔鶴」搭載の常用機定数は「瑞鶴」ともども[[艦上戦闘機]]、[[艦上爆撃機]]、[[艦上攻撃機]]各18機に削減されて「[[蒼龍 (空母)|蒼龍]]」「[[飛龍 (空母)|飛龍]]」と同じとなり、投射重量は3分の2となった。1月5日、日本を出撃して1月17日にトラック泊地に進出、1月20日には[[ラバウル]]を空襲するなど、南方方面で活動した<ref>[[#続・海軍くろしお]]182頁</ref>。1月29日、トラック島を出港して2月3日、[[横須賀]]に到着した<ref>[[#続・海軍くろしお]]183頁</ref>。 ===セイロン沖海戦=== 3月7日、横須賀を出撃して[[セレベス島]]へ向かう途中、米軍機動部隊出現の急報により日本東方海面に進出したが会敵せず、3月16日、横須賀に戻った<ref>[[#続・海軍くろしお]]184頁</ref>。翌日出港、3月24日にセレベス島スターリング湾に到着、南雲機動部隊に合流した<ref>[[#続・海軍くろしお]]185頁</ref>。3月27日、スターリング湾を出港してインド洋に進出し、4月5日には[[セイロン島]]コロンボ港を空襲している。 {{Main|セイロン沖海戦}} 南雲機動部隊のインド洋進出に伴って生起した[[セイロン沖海戦]]では、「翔鶴」を含む日本艦隊は空母「[[ハーミーズ (空母・初代)|ハーミーズ]]」、[[重巡洋艦]]「[[コーンウォール (重巡洋艦)|コーンウォール]]」、「[[ドーセットシャー (重巡洋艦)|ドーセットシャー]]」などを撃沈した。だが索敵網の薄さから英軍東洋艦隊主隊を発見できず、大戦果を収める機会を逃がしている。 ===珊瑚海海戦=== 5月実行予定であったポートモレスビー攻略作戦には当初インド洋作戦に参加していなかった加賀のみが投入される予定であったが、第四艦隊からの空母増加要求を受けて加賀の代わりに第五航空戦隊が投入されることとなった<ref>戦史叢書 南東方面海軍作戦1、165、167ページ</ref>。これにより、インド洋から帰投途中であった4月12日に南洋部隊編入が発令された<ref>戦史叢書 南東方面海軍作戦1、167ページ</ref>。それを受けて第五航空戦隊は4月14日にシンガポール沖で他の空母と別れ、駆逐艦3隻とともに[[台湾]]の馬公に向かった<ref>戦史叢書 南東方面海軍作戦1、187ページ</ref>。馬公には4月18日に到着したが、この日[[ドーリットル空襲]]があったため補給後翌日第27駆逐隊とともに出港して北上した<ref>戦史叢書 南東方面海軍作戦1、187-188ページ</ref>。だが、同日中に元の部署への復帰命令があったためトラックへと向かい、4月25日に到着した<ref name="sosho 188">戦史叢書 南東方面海軍作戦1、188ページ</ref>。そして第五航空戦隊や第五戦隊などでMO機動部隊が編成された<ref name="sosho 188"/>。5月1日、MO機動部隊はトラックを出撃し南下した<ref>戦史叢書 南東方面海軍作戦1、228ページ</ref>。作戦開始時点での翔鶴の搭載機は艦戦17機、艦爆21機、艦攻16機であった<ref>戦史叢書 南東方面海軍作戦1、189ページ</ref>。<!-- セイロン沖海戦に勝利した南雲機動部隊は日本への帰路についたが、南シナ海で「翔鶴」と「瑞鶴」の第五航空戦隊のみポートモスレビー攻略作戦支援のため、南洋部隊編入を命じられる<ref>[[#海軍美談]]75頁</ref>。4月16日に本隊と分離して4月18日、[[台湾]]馬公で燃料・食料を補給、4月25日にトラック島に到着した<ref>[[#海軍美談]]75頁、[[#続・海軍くろしお]]186頁</ref>。5月1日、トラック泊地を出港して南下、珊瑚海に侵入する<ref>[[#第7駆逐隊詳報]]p.2</ref>。-->日本軍の作戦を暗号解読で察知した米軍は、[[フランク・J・フレッチャー]]少将が指揮する第17任務部隊(レキシントン、ヨークタウン)を迎撃に向かわせた。 {{Main|珊瑚海海戦}} 5月7日、翔鶴索敵機は米油槽艦「[[ネオショー (給油艦)|ネオショー]]」を米空母と誤認して報告、日本軍攻撃隊は「ネオショー」と「シムス」を撃沈したが、この間に軽空母「[[祥鳳 (空母)|祥鳳]]」が米軍機の攻撃で沈んだ<ref>[[#第7駆逐隊詳報]]p.3</ref>。翔鶴索敵機の偵察員は補欠予備員で、正規偵察員は腹痛のため出撃できなかったという<ref>[[#続・海軍くろしお]]187頁</ref>。[[原忠一]]少将は薄暮攻撃隊(翔鶴:艦爆6、艦攻6、瑞鶴:艦爆6、艦攻9)を出撃させたが、米軍戦闘機に襲撃されて大損害を受けた<ref>[[#第7駆逐隊詳報]]p.3、[[#続・海軍くろしお]]187-188頁</ref>。高橋翔鶴艦爆隊隊長は、爆弾を捨てて帰投中に艦載機を収容中の米空母に着艦しかけるなど、5月7日は「翔鶴」にとって不運の日となった<ref>[[#続・海軍くろしお]]189頁</ref>。 5月8日の海戦では、翔鶴索敵機(機長:[[菅野兼蔵]]飛行兵曹長、操縦:[[後藤継男]]、電信員:[[岸田清次郎]])が燃料切れを覚悟で日本軍攻撃隊を誘導し、死後二階級特進・金鵄勲章を授与されている<ref>[[#続・海軍くろしお]]190-191頁</ref>。日本軍は空母「[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]」を撃沈、「[[ヨークタウン (CV-5)|ヨークタウン]]」大破という戦果をあげた。しかし第17任務部隊も撃破される前に攻撃隊を発進させており、米軍攻撃隊はスコールに隠れた「瑞鶴」を見逃し、「翔鶴」に殺到した<ref>[[#続・海軍くろしお]]198頁</ref>。雷撃機が投下した魚雷は全て回避したものの、午前9時40分、計3発の爆弾が命中<ref>[[#第7駆逐隊詳報]]p.4、[[#続・海軍くろしお]]226頁</ref>。最初の1発は、艦首前甲板左舷に命中して両舷主錨を吹き飛ばし、前部エレベーターは陥没して停止、飛行甲板前部も損傷、さらに前甲板右舷下方の航空用ガソリン庫に引火し、大火災が発生した<ref>[[#海軍美談]]110頁、[[#続・海軍くろしお]]198-199頁</ref>。2発目は後部短艇甲板に命中し、短艇が火災を起こした<ref>[[#海軍美談]]111頁、[[#続・海軍くろしお]]199-200頁</ref>。3発目は、艦橋後方の信号マスト付近に命中、艦橋勤務兵や付近の機銃要員に多数の死傷者が出た<ref>[[#海軍美談]]112-113頁、[[#続・海軍くろしお]]200-201頁</ref>。炎上して黒煙に包まれた「翔鶴」を見た「瑞鶴」見張員が「翔鶴沈没!」と報告したほどだったが<ref>[[#海軍美談]]114頁、[[#続・海軍くろしお]]202頁</ref>、機関は無事だったため、「翔鶴」は駆逐艦「[[夕暮 (初春型駆逐艦)|夕暮]]」と共に戦場を離脱した<ref>[[#第7駆逐隊詳報]]p.35</ref>。「瑞鶴」の護衛にあたった駆逐艦「[[潮 (吹雪型駆逐艦)|潮]]」(第七駆逐隊司令艦)の士官は<ref>[[#第7駆逐隊詳報]]pp.31</ref>、損傷した「翔鶴」が40ノット以上を発揮していたと述べている<ref>[[#第七駆逐隊]]249頁</ref>。「夕暮」は「潮」に『翔鶴ハ何処ヘ向ヒシヤ、翔鶴ニ着イテ行ク必要ナキヤ』と発信した<ref>[[#第7駆逐隊詳報]]pp.32</ref>。 5月17日、戦死者107名、負傷者128名を出して「翔鶴」は呉に戻った<ref>[[#海軍美談]]115頁、[[#続・海軍くろしお]]210頁</ref>。母港は横須賀だが、ドックが満杯だった為に呉に回航されたのである<ref>[[#海軍美談]]118頁</ref>。同艦の被害を検分した[[山本五十六]]連合艦隊司令長官は[[福地周夫]]翔鶴運用長を戦艦「[[大和 (戦艦)|大和]]」に呼び、空母被弾時の戦訓について講話を行わせた<ref>[[#海軍美談]]120頁、[[#続・海軍くろしお]]207頁</ref>。福地は搭載飛行機が格納庫内になかったことが消火成功の最大要因と説明したが、結果として南雲機動部隊司令部は「翔鶴」の戦訓を生かさなかった<ref>[[#続・海軍くろしお]]207-208頁</ref>。また、{{要出典範囲|飛行甲板の損傷の修理に際して素人の工兵が熟練工を監督するという体制で作業が行われた(しかも兵隊の態度が悪かった)ため、能率が上がらなかったという事情もあった。ちなみに同様に珊瑚海海戦で損傷した米空母ヨークタウンは大工の指導の下工兵が作業を行うという体制で短期間に修理を完了している。|date=2011年4月}}。さらに呉到着時は日曜日であり、錨を失っていた「翔鶴」は小用港沖の浮標に繋がれて暫く待機することになった<ref>[[#海軍美談]]119頁</ref>。 <gallery widths="200px" heights="180px"> Image:Shokaku attacked in Coral sea.jpg|損傷しながらも[[レキシントン (CV-2)|レキシントン]]機の爆撃を回避する翔鶴。 Image:Shokaku Coral Sea battle damage 1.jpg|被弾状況 </gallery> ===南太平洋海戦=== ミッドウェー海戦で主力空母4隻([[赤城 (空母)|赤城]]、[[加賀 (空母)|加賀]]、[[飛龍 (空母)|飛龍]]、[[蒼龍 (空母)|蒼龍]])が沈没すると、「翔鶴」は「瑞鶴」とともに航空艦隊の中核となった。それに伴い、ミッドウェー海戦の戦訓から、搭載機の編制も艦戦27、艦爆27、艦攻18に改められ、レーダーの設置、防火対策の徹底・消火ポンプの増設、艦の前後に三連装機銃の増設等の改装を行っている<ref>[[#続・海軍くろしお]]214頁</ref>。修理を終えた「翔鶴」は[[第三艦隊 (日本海軍)|第三艦隊]][[第一航空戦隊]]旗艦となり、[[南雲忠一]]中将、[[草鹿龍之介]]参謀長、[[有馬正文]]翔鶴艦長が着任した。有馬は福地に「翔鶴が沈む時は総員退艦の号令はかけない。全員が運命を共にする覚悟で戦え」と訓示している<ref>[[#続・海軍くろしお]]213頁</ref>。 8月7日、米軍は[[ガダルカナル島]]と[[フロリダ諸島]]に来襲、[[第一次ソロモン海戦]]が勃発した。8月14日、「翔鶴」は第三艦隊を率いて日本を出撃、ソロモン諸島へ向かう<ref>[[#続・海軍くろしお]]215頁</ref>。8月24日の[[第二次ソロモン海戦]]では、[[SBD (航空機)|SBDドーントレス急降下爆撃機]]2機に奇襲され、爆弾命中こそなかったが、飛行甲板上の[[零式艦上戦闘機]]と整備兵6名が転落・行方不明となった<ref>[[#続・海軍くろしお]]217頁</ref>。戦闘では空母「エンタープライズ」を大破させたが、艦載機29機を失い、帰途途中で[[ブカ島]]に零戦15機を派遣している。9月4日、5機を失って10機に減少した零戦隊が「翔鶴」に帰艦した<ref>[[#続・海軍くろしお]]217-218頁</ref>。翌日、南雲機動部隊はトラックに到着した。9月10日、補給を終えた「翔鶴」以下日本軍機動部隊は出撃してソロモン海域の警戒にあたる。米軍は空母「ワスプ」が日本軍潜水艦の雷撃で撃沈されるなど積極的な行動を起こせず、大きな戦闘が起きないまま「翔鶴」は9月23日にトラック島に戻った<ref>[[#海軍美談]]138頁、[[#続・海軍くろしお]]218頁</ref>。 {{Main|南太平洋海戦}} 「翔鶴」がソロモン海域で活動する間にも[[ガダルカナル島]]の日本軍は劣勢に陥り、日本軍は10月25日を予定して陸海軍の総攻撃実施を決定する。10月11日、「翔鶴」はトラック島を出撃し、ソロモン海域に進出した<ref>[[#続・海軍くろしお]]219頁</ref>。10月26日午前6時50分、翔鶴索敵機が米軍機動部隊を発見、[[村田重治]]少佐率いる[[九七式艦上攻撃機]]20、[[高橋定]]大尉率いる[[九九式艦上爆撃機]]21、零戦8機の第一次攻撃隊が発進する<ref>[[#海軍美談]]149頁、[[#続・海軍くろしお]]220頁</ref>。続いて第二次攻撃隊の発進が開始されたが、「瑞鶴」の艦攻発進が遅れたため、「翔鶴」艦爆隊([[関衛]]少佐、九九艦爆19・零戦5)は瑞鶴隊を待たずに米軍機動部隊へ向かった<ref>[[#海軍美談]]150頁、[[#続・海軍くろしお]]221頁</ref>。「翔鶴」は「瑞鶴」と20kmも離れたため、[[珊瑚海海戦]]に続いて米軍機の集中攻撃を受けることになる<ref>[[#続・海軍くろしお]]225頁</ref>。爆弾4発(飛行甲板後部左舷3発、右舷後部に1発)が命中、高角砲弾の一部誘爆はあったが致命傷にはならず、「翔鶴」の機関は健在だった<ref>[[#海軍美談]]167-168頁、[[#続・海軍くろしお]]228頁</ref>。「翔鶴」が攻撃を受けていたころ、日本軍攻撃隊も米軍機動部隊を空襲し、 [[第二航空戦隊]]空母「[[隼鷹 (空母)|隼鷹]]」や[[第二艦隊 (日本海軍)|第二艦隊]]と共同で空母「ホーネット」を撃沈、空母「エンタープライズ」大破という戦果をあげている。その一方、村田少佐を含む艦攻10機、高橋少佐を含む艦爆22機、零戦12機を失った<ref>[[#海軍美談]]152-153頁</ref>。午後5時、南雲司令部は駆逐艦「[[嵐 (駆逐艦)|嵐]]」([[有賀幸作]]大佐:第四駆逐隊司令艦)に移乗して「翔鶴」を離れた<ref>[[#続・海軍くろしお]]231頁</ref>。なお、有馬艦長は大破した「翔鶴」で逃走する米軍機動部隊を追撃することを主張したが、普段語気を荒げることのない[[草鹿龍之介]]参謀長に「飛行甲板の大破した空母で戦えるのか」と一喝されている<ref>[[#草鹿回想]]176頁</ref>。 戦死者144名を出して大破した「翔鶴」は10月28日トラックに帰港した。日本に帰還後[[横須賀]]で修理を行うが、この間、[[東条英機]]首相が視察に訪れている<ref>[[#海軍美談]]172頁</ref>。日本海軍は、真珠湾攻撃・珊瑚海海戦・南太平洋海戦における「翔鶴」の奮戦に対し3回の感状を授与した<ref>[[#続・海軍くろしお]]213頁</ref>。また二度の大海戦における「翔鶴」と「瑞鶴」の被害の差から、「瑞鶴」は幸運艦と呼ばれた<ref>[[#続・海軍くろしお]]229頁</ref>。 <gallery widths="200px" heights="180px"> Image:Fig of japanese aircraft carrier Shokaku in 1942.gif|南太平洋海戦時の翔鶴。 ファイル:SantaCruzShokaku.jpg|甲板上の艦載機(1942年10月26日) Image:Shokaku Santa Cruz damage 2.jpg|損害状況。 </gallery> === 1943年航空戦 === {{節stub}} 南太平洋海戦後、第三艦隊の司令長官は南雲中将から[[小沢治三郎]]中将に代わり、消耗した翔鶴航空隊も定数を満たした。だが[[い号作戦]]をはじめとした1943年の航空戦で母艦航空隊が転用されてしまい、「翔鶴」と「瑞鶴」が米艦隊と直接交戦することはなかった。 === 沈没 === 日本の敗色が濃くなった1944年3月1日、日本海軍は[[第一機動艦隊]]を編成し、「翔鶴」は旗艦となった<ref>[[#第1機動部隊日誌]]p.3</ref>。3月10日、飛行甲板に装甲を施した新鋭空母「[[大鳳 (空母)|大鳳]]」が[[第一航空戦隊]]に編入、4月15日に旗艦任務は「大鳳」に移った<ref>[[#第1機動部隊日誌]]p.4</ref>。 {{Main|マリアナ沖海戦}} 6月、米軍の[[サイパン島]]襲来に伴い、日米両軍の間で[[マリアナ沖海戦]]が生起、「翔鶴」も参加する。「翔鶴」の航空戦力は、[[零式艦上戦闘機]]34、[[天山 (航空機)|天山艦上攻撃機]]12(3機は偵察機)、[[彗星 (航空機)|彗星艦上爆撃機]]18、[[彗星 (航空機)#二式艦上偵察機|二式艦上偵察機]]10、[[九九式艦上爆撃機]]3、計77機だったという<ref>[[#あ号作戦翔鶴詳報]]p.3</ref>。6月19日11時20分、飛行機発進中に米[[ガトー級潜水艦]]「カヴァラ」(''USS Cavalla, SS-244'')が発射した魚雷4本が右舷に命中する<ref>[[#あ号作戦詳報(1)]]p.30</ref>。魚雷によって3軸運転となり速力が低下した。また左舷への注水作業によって傾斜の復旧作業が実施されたが、注水のしすぎによって、逆に左舷に傾斜してしまう。また前部に命中した魚雷によって艦首が著しく沈下した。その後、魚雷被弾時に気化した航空燃料が艦内に充満し、それに引火し大火災を起こす。14時1分、沈没。1,272名の乗組員が戦死した<ref>[[#国見 軍医]]156頁</ref>。艦長を含む脱出者は[[軽巡洋艦]]「[[矢矧 (軽巡洋艦)|矢矧]]」や駆逐艦「[[秋月 (駆逐艦)|秋月]]」に救助された<ref>[[#国見 軍医]]174頁</ref>。艦歴は2年10ヶ月であった<ref>[[#続・海軍くろしお]]236頁</ref>。 翔鶴の喪失により、日本の空母戦力は、機動部隊として艦隊運用できる隻数、搭載機、乗員の確保が困難となり、事実上、空母機動部隊として作戦運用できる能力を失った。 == 艦歴 == *1937年[[12月12日]] [[横須賀海軍工廠]]にて起工。 *[[1939年]](昭和14年)[[6月1日]] 進水 *[[1941年]](昭和16年)[[8月8日]] 就役。[[8月25日]]、第五航空戦隊に編入。 **[[11月26日]] [[単冠湾]]出撃。[[12月8日]][[真珠湾攻撃]]参加。 *[[1942年]](昭和17年)[[1月17日]] [[ラバウル]]攻略戦で[[トラック諸島]]出撃、同[[1月20日|20日]]ラバウル、同[[1月21日|21日]][[ラエ]]攻撃。 **[[3月26日]][[セイロン沖海戦]]参加。翌[[4月5日]][[コロンボ]]攻撃。同[[4月9日|9日]][[トリンコマリー]]攻撃。 **[[5月7日]][[珊瑚海海戦]]参加。[[5月9日]]世界最初の空母対空母の戦闘を行う。損傷した後、翌[[6月17日]]より[[呉港|呉]]にて修理を行う。 **[[8月24日]] [[第二次ソロモン海戦]]参加。 **[[10月26日]] [[南太平洋海戦]]に参加。 *[[1944年]](昭和19年)[[6月19日]] [[マリアナ沖海戦]]で、米[[潜水艦]]「[[カヴァラ (潜水艦)|カヴァラ]]」の攻撃により沈没。 *[[1945年]](昭和20年)[[8月20日]] 除籍 ==瑞鶴との違い== 「翔鶴」と「瑞鶴」は識別が困難(搭乗員でさえ着艦を間違えた)であるが、艦橋直後のメインマストの中途に拡声器(スピーカー)を備えているのが瑞鶴である。但し、真珠湾攻撃時には双方ともメインマストの中途にスピーカーを備えており、昭和17年末には瑞鶴がこのスピーカーを艦橋左壁に移設しているため、艦橋直後のメインマストのスピーカーの有無を両艦の識別点にできるのは、ごく短期間のことである。尚、飛行甲板前部上に対空識別記号として,カタカナで、「翔鶴」は“シ”、「瑞鶴」は“ス”と記載されていた。 「翔鶴」の武勲を仰ぎ、[[海上自衛隊]][[舞鶴基地]]では、[[舞鶴市|舞鶴]]と羽ばたく鶴(翔鶴)を掛け合わせて舞鶴翔鶴太鼓を結成し、広報活動に従事している。 ==歴代艦長== === [[艤装]]員長 === *澄川道男 [[大佐]]:1940年5月20日 - *[[城島高次]] 大佐:1940年10月15日 - === 艦長 === * 城島高次 大佐:1941年4月17日 - * [[有馬正文]] 大佐:1942年5月25日 - * [[岡田為次]] 大佐:1943年2月16日 - * [[松原博]] 大佐:1943年11月17日 - == 同型艦 == * [[瑞鶴 (空母)|瑞鶴]] == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|2}} == 参考文献 == * [http://www.jacar.go.jp/index.html アジア歴史資料センター(公式)](防衛省防衛研究所) **Ref.{{Cite book|和書|author=C12070105000|title=5月(昭和14年達完)|ref=5月(昭和14年達完)}} **Ref.{{Cite book|和書|author=C08011233600|title=艦艇特務艦艇籍一覧表|ref=艦艇特務艦艇籍一覧表}} **Ref.C08030770300「昭和16年12月8日 布哇空中攻撃隊 戦闘詳報」 **Ref.C08030770600「昭和17年1月20日 ラボウル空中攻撃隊 戦闘詳報(戦闘詳報 第03)」 **Ref.C08030770900「昭和17年1月21日 特別空襲隊 「サラモア」空中攻撃隊 戦闘詳報(戦闘詳報 第04)」 **Ref.C08030771200「昭和17年1月21日 特別空襲隊 「マダン」空中攻撃隊 戦闘詳報(戦闘詳報 第04)」 **Ref.C08051577100「昭和16年12月~昭和18年11月 翔鶴飛行機隊戦闘行動調書(1)」 **Ref.C08051577200「昭和16年12月~昭和18年11月 翔鶴飛行機隊戦闘行動調書(2)」 **Ref.C08051577300「昭和16年12月~昭和18年11月 翔鶴飛行機隊戦闘行動調書(3)」 **Ref.{{Cite book|和書|author=C08030728400|title=昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(1)|ref=MO機動部隊詳報(1)}} **Ref.{{Cite book|和書|author=C08030728500|title=昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(2)|ref=MO機動部隊詳報(2)}} **Ref.{{Cite book|和書|author=C08030728600|title=昭和17年5月1日~昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(3)|ref=MO機動部隊詳報(3)}} **Ref.{{Cite book|和書|author=C08030727700|title=昭和17年5月8日 第7駆逐隊戦闘詳報.珊瑚海海戦|ref=第7駆逐隊詳報}} **Ref.{{Cite book|和書|author=C08030036200|title=昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌|ref=第1機動部隊日誌}} **Ref.{{Cite book|和書|author=C08030711900|title=昭和19年6月15日~昭和19年6月20日 あ号作戦 軍艦翔鶴(除1部飛行隊)戦闘詳報|ref=あ号作戦翔鶴詳報}} **Ref.{{Cite book|和書|author=C08030039800|title=昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(1)|ref=あ号作戦詳報(1)}} **Ref.{{Cite book|和書|author=C08030039900|title=昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(2)|ref=あ号作戦詳報(2)}} **Ref.{{Cite book|和書|author=C08030040000|title=昭和17年6月1日~昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(3)|ref=あ号作戦詳報(3)}} *防衛庁防衛研修所戦史室編、『戦史叢書 南東方面海軍作戦1 ガ島奪回作戦開始まで』、朝雲新聞社、1971年 *{{Cite book|和書|author=草鹿龍之介|authorlink=草鹿龍之介|year=1979|title=連合艦隊参謀長の回想|publisher=光和堂|isbn=4-87538-039-9|ref=草鹿回想}} *{{Cite book|和書|author=[[福地周夫]]|year=1982|title=続・海軍くろしお物語|publisher=光人社|isbn=4-7698-0179-3|ref=続・海軍くろしお}}<br/>福地(海軍少佐)は翔鶴運用長。1941年8月20日着任、1942年11月「[[陸奥 (戦艦)|陸奥]]」に転勤。 *{{Cite book|和書|author=[[福地周夫]]|year=1985|title=海軍美談よもやま物語|publisher=光人社|isbn=4-4698-0287-0|ref=海軍美談}} *{{Cite book|和書|author=[[国見寿彦]]著|coauthors=[[河原崎勇]]監修|year=1992|title=海軍軍医の太平洋戦争 {{small|防空駆逐艦秋月}}|publisher=近代文藝社|isbn=4-7733-1675-6|ref=国見 軍医}} * 歴史群像 太平洋戦史シリーズVol.13『翔鶴型空母』学習研究社、1996年 ISBN 4-05-601426-4 *{{Cite book|和書|author=[[牧島貞一]]|year=2001|title=炎の海 {{small|報道カメラマン空母と共に}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=4-7698-2328-2|ref=炎の海}} <br />牧島は日映カメラマン。空母「翔鶴」に乗艦し、南太平洋海戦に参加する。 *{{Cite book|和書|author=橋本廣|authorlink=橋本廣|year=2001|title=機動部隊の栄光 {{small|艦隊司令部信号員の太平洋海戦記}}|publisher=光人社|isbn=4-7698-1028-8|ref=橋本信号員}}<br/>橋本は南雲司令部の一員(信号兵)として「翔鶴」艦橋勤務。 *{{Cite book|和書|author=[[大高勇治]]|coauthors=|year=2010|title=第七駆逐隊海戦記 {{small|生粋の駆逐艦乗りたちの戦い}}|publisher=光人社NF文庫|isbn=978-4-7698-2646-0|ref=第七駆逐隊}} == 関連項目 == {{Commonscat|Shōkaku (ship, 1941)}} * [[大日本帝国海軍艦艇一覧]] == 外部リンク == * [http://ww2db.com/ship_spec.php?ship_id=A23 WW2DB: 翔鶴] {{日本の航空母艦}} {{DEFAULTSORT:しようかく}} [[category:日本の航空母艦]] [[Category:1941年竣工船]] {{warship-stub}}
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