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織田信高
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{{otheruses|織田信長の七男|江戸時代の旗本|織田信高 (旗本)}} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 織田 信高 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[安土桃山時代]] | 生誕 = [[天正]]4年([[1576年]]) | 死没 = [[慶長]]7年[[12月12日 (旧暦)|12月12日]]([[1603年]][[1月23日]]) | 改名 = 小洞(幼名)、信高 | 別名 = 藤十郎(通称)、羽柴藤十郎 | 戒名 = 松雲院性厳心公 | 墓所 = [[総見院 (京都市)|大徳寺塔頭総見院]] | 官位 = [[従五位|従五位下]][[衛門府|左衛門佐]] | 幕府 = | 主君 = [[豊臣秀吉]] → [[豊臣秀頼|秀頼]] | 氏族 = [[織田氏]] | 父母 = 父:[[織田信長]]、母:[[興雲院]]? | 兄弟 = [[織田信忠|信忠]]、[[織田信雄|信雄]]、[[織田信孝|信孝]]、[[羽柴秀勝]]、[[織田勝長|勝長]]、[[織田信秀 (侍従)|信秀]]、<br/>'''信高'''、[[織田信吉|信吉]]、[[織田信貞|信貞]]、[[織田信好|信好]]、[[織田長次 (長兵衛尉)|長次]]、[[織田信正|信正]] | 妻 = 正室:[[佐々成政]]の娘・'''[[光秀院]]''' | 子 = '''[[織田高重|高重]]'''}} '''織田 信高'''(おだ のぶたか)は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]。[[織田信長]]の七男。母は[[高畑源十郎]]の娘・お鍋の方([[興雲院]])とされるが、異説もある([[#生母について|後述]])。妻は[[佐々成政]]の娘・光秀院。[[官位]]は[[従五位|従五位下]][[左衛門佐]]。幼名は小洞(こぼら/ごぼう)、通称は藤十郎。 == 生涯 == === 本能寺の変 === [[1576年]](天正4年)、信長の七男として生まれる。 [[1582年]](天正10年)の[[武田攻め]]の際には兄[[織田信忠|信忠]]の命によって[[美濃国]][[垂井町|垂井]]に配され、凱旋する信忠に一献進上したとの記録が残る。同年[[本能寺の変]]における信長死後は、[[氏家行広]]に預けられて養育を受けた。その後、[[1585年]](天正13年)、兄[[織田信秀 (侍従)|織田信秀]]が羽柴姓を与えられた時、その仲介で[[豊臣秀吉]]に仕え、[[1591年]](天正19年)には[[近江国]][[神崎郡 (滋賀県)|神崎郡]]山上内に1060石を領する黄母衣衆に列する。[[羽柴氏|羽柴姓]]を許されて'''羽柴藤十郎'''と称した。[[1595年]](文禄4年)、[[愛知郡 (滋賀県)|愛知郡]]にて[[粟野秀用]]の旧領1000石を加増されて2060石を領した。 === 生母について === 一般的には信長とお鍋の方の長子とされるが、裏付ける証拠としては、小倉氏の旧領山上に所領を与えられたことなど少ない。 お鍋の方が近江の実家に隠棲した際に伴ったのは同母弟の[[織田信吉]]で、お鍋の方の夫[[小倉実房]]の愛知郡の所領も信吉に与えられており、お鍋の方と信高の繋がりは史料からは確認できない。また、信吉よりも出生が後でありながら織田家中においては席次が上にきており、お鍋の方とは別の上位の側室が生母の可能性も示唆される。この側室については存在を含め一切不明であるが、後に信高が[[西美濃三人衆]]の[[氏家直元]]の次子である[[氏家行広]]に預けられていること、直元長男の[[氏家直昌]]が[[織田信孝]]と秀吉の戦いに際して信孝についた折、行広と共に信高も宇都宮で蟄居していることから、氏家氏か氏家氏ゆかりの西美濃の有力国人の娘である可能性が高い(蟄居するということは、縁者として連座したと解釈できる)。信高自身の正室の生家である[[佐々氏]]も[[尾張国|尾張]]北西部の[[春日井郡]]であり、西美濃とはそれほど離れていない。 当時は佐々成政の没落前(ことによると、信孝の切腹前)でもあることから、信高生母の一族と本領が近い佐々氏が秀吉との対抗上地縁があり、生母の身分も高い信高と縁組して織田家の[[外戚]]となろうとしたと考えると自然であろう。 このほか、幼名との繋がりから織田信秀(大洞)と同腹との推測もあるが、信秀の生母は稲葉氏との推測が現在有力であり、また信秀生母は秀吉の側室となったと言われ、この説が正しいとすると信秀は秀吉の一族として羽柴姓を許されたほか[[侍従]]、2~5万石級の[[大名]]に昇進しているのに対して信高は羽柴姓を許されているのみで官位は従五位下左衛門佐、所領も2000石どまりであることの説明がつかないことから、同腹である可能性は低いと考えられる。信孝、成政と縁故が深い[[側室]]の子とすると、[[豊臣政権]]時代の冷遇、江戸開幕後に[[高家 (江戸時代)|高家]]に取り立てられ厚遇されたことの説明がつく(佐々成政は秀吉の覇権確立期にはさらさら峠越えなど、家康に接近する姿勢を取っていた)。大洞、小洞ともに、美濃の地名であることから、それぞれの生母の出身に由来したとも考えられる。 === 関ヶ原の戦い === 『[[寛政重修諸家譜]]』によれば、[[関ヶ原の戦い]]では弟[[織田信貞|信貞]]と共に東軍を支持したものの、本戦には間に合わず、凱旋後の[[徳川家康]]に拝謁したという。しかし、『関原軍記大成』などでは、弟[[織田信吉|信吉]]・信貞らとともに西軍に属して戦後赦免されたとする。おそらくは後者が正しく、弟信吉と同様に西軍に属したために失領したと思料される。もっとも、本戦に参加したとする記録はない。 [[1603年]](慶長7年)12月12日、死去。[[享年]]28。墓地は、京都の[[大徳寺]][[総見院 (京都市)|総見院]]にある。 == 子孫 == [[1616年]](元和2年)1月、嫡男[[織田高重|高重]]は幕臣として召し出されて[[近江国|近江]]・[[安房国|安房]]に2000石を与えられた。高重の孫[[織田信門|信門]]は[[高家 (江戸時代)|高家]]となり、以後、同家は[[明治維新]]までまで[[高家]]旗本として存続した。 尚、[[フィギュアスケート]]選手[[織田信成 (フィギュアスケート選手)|織田信成]]は信高系の旗本織田家の末裔であると称しているが、それを客観的に裏付ける証拠はない。(明治時代以前の旗本織田家と織田信成の家の家系が繋がらないため、旗本家の直系であるとする根拠が存在しない) {{織田氏歴代当主|信高流高家織田氏|? - [[1602年]]}} {{DEFAULTSORT:おた のふたか}} [[Category:戦国武将]] [[Category:勝幡織田氏|のふたか]] [[Category:織田信長の子女|のふたか]] [[Category:1576年生]] [[Category:1603年没]]
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