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'''練兵館'''(れんぺいかん)は、[[斎藤弥九郎]]によって開かれた、[[神道無念流]]の[[剣術]][[道場]]。 「技の[[千葉周作|千葉]]」([[北辰一刀流]]・[[玄武館]])、「位の[[桃井春蔵|桃井]]」([[鏡新明智流]]・[[士学館]])と並び、「力の斎藤」と称され、後に[[幕末江戸三大道場]]の一つに数えられた。 == 歴史 == [[文政]]9年([[1826年]])、[[九段坂]]下[[俎橋]]付近(現在の[[東京都]][[千代田区]]内)に設立され、のちに九段坂上(現在の[[靖国神社]]境内)に移転した。[[幕末]]期には、現在の靖国神社の敷地の南西部一帯に百[[畳#寸法|畳]]敷きの道場と三十畳敷きの[[寄宿舎|寄宿所]]があり、[[黒船来航]]以来の尚武の気風もあって、隆盛を誇った。斎藤弥九郎でも終生10回中4回しか勝てなかったという実力を持つ[[岡田吉貞]](2代目岡田十松。[[岡田吉利|初代岡田十松]]の子)が客分として居り、斎藤に代わって岡田が指導することもあった。 神道無念流は稽古によって心身を鍛えることを重視する流派であったが、練兵館の場合は、斎藤弥九郎の隠居所で行っていた練兵([[軍事訓練]])などで、より鍛錬を重視する傾向があった。剣術のみならず[[学問]]も重んじ、門下から[[明治維新]]の[[志士]]を輩出した。 有名な門下生には、[[長州藩]]の[[木戸孝允|桂小五郎]]、[[高杉晋作]]、[[井上馨|井上聞多]]、[[伊藤博文]]、[[品川弥二郎]]、[[津山藩]]の[[井汲唯一]]、[[大村藩]]の[[渡邊昇|渡辺昇]]、斎藤弥九郎と同郷の[[仏生寺弥助]]、[[越後長岡藩|長岡藩]]の[[根岸信五郎]]、[[壬生藩]]の[[野原正一郎]]などがいる。なお、のちに[[新選組]]に入隊する[[永倉新八]]は、同じ流派ではあるが練兵館ではなく、斎藤弥九郎の師匠に当たる[[岡田吉利]](初代岡田十松)が開いた「'''撃剣館'''」で学んでいた(当時の道場主は吉利の子の岡田利章(3代目岡田十松)である)。 [[明治維新]]後、東京招魂社(現[[靖国神社]])創建により立ち退かざるを得なくなり、[[明治4年]]、[[牛込]]見附内に移転したが、[[文明開化]]の影響で剣術は廃れ、練兵館はさびれた<ref>[[堂本昭彦]]『中山博道有信館』16-17頁、島津書房</ref>。[[昭和]]50年([[1975年]])、斎藤弥九郎と縁のある斎藤信太郎によって、[[栃木県]][[小山市]]に剣道道場として再興された<ref>[http://renpeikan.jp/history/ 練兵館の歴史 | 練兵館]</ref>。ただし神道無念流ではなく[[剣道|現代剣道]]を稽古している。 == 特徴 == === 力の剣法 === 神道無念流剣術の特徴は、「力の剣法」と言われる如く、[[竹刀稽古]]では略打(軽く打つこと)を許さず、したたかに「真を打つ」渾身の一撃のみを[[一本]]とした点にある。そのため、他流よりも[[防具 (剣道)|防具]]を[[皮革|牛革]]などで頑丈にしていた。練兵館の高弟の[[野原正一郎]]が他流試合で試合相手に重傷を負わせたことで、稽古の荒さに入門者が一時減ることもあったほどだった。 他流試合は練兵館においては禁じられていなかった。塾頭を務めた[[渡邊昇|渡辺昇]]の[[明治]]期の談話や、他流修行者の修行録などの同時代[[史料]]から、広く他流と交わっていたことが判明している。[[天然理心流]]の[[佐藤彦五郎]]の日記にも、[[日野宿|日野]]にある彼の屋敷の道場で神道無念流と共に稽古を行った、と書き残されている。 === 道場訓 === 道場の板壁に大きく貼り出された[[家訓|道場訓]](神道無念流演剣場壁書)を稽古のたびに読ませた点も特徴である。この道場訓は神道無念流第2代の[[戸賀崎暉芳]]の作ともいわれる。それは以下のような内容であった。 *兵は凶器といえば、その身一生持ちうることなきは大幸というべし。 *これを用うるは止むことを得ざる時なり。 *わたくしの意趣(いしゅ)遺恨(いこん)等に決して用うるべからず。 *これ、すなわち暴なり。 ※ただしこれは[[読み下し]]文である。 === 塾中懸令 === 練兵館塾生が遵守すべき日課を定めた「塾中懸令」には、毎朝、[[時刻#日本|五つ時]](午前8時ごろ)まで素読を行うことが定められているほか、午後の出稽古の無い時は[[書写|手習]]、学問、[[兵学]]、[[砲術]]をも心掛け、怠惰に日常を過ごさないよう訓辞されており、剣術のみならず空いた時間に学問も修めることになっていた。塾頭を務めた[[渡邊昇|渡辺昇]]は後に、[[土木工事]]や[[時事]]など「武術の外に教へられた処が多かつた」と言ったという。 また、斎藤弥九郎が雑談の形で、[[桂小五郎]]など[[長州藩]]や[[水戸藩]]などの門下生たちに[[尊王攘夷]]思想の薫陶をそれとなく与え続けていたといわれる。特に桂小五郎は、師匠の斎藤に積極的に願い出て、斎藤の[[兵学]]の師である西洋兵学者の[[江川英龍]]の弟子となっている。江川は当時、最新の[[軍事]]知識を有する西洋兵学者として[[江戸幕府|幕府]]からも絶大な信頼を得ており、[[1853年]]の[[黒船来航]]により、[[江戸湾]]一帯の[[台場]]築造の責任者として駆り出された。桂は、江川から単に[[小銃]]術・西洋砲術などを学ぶだけでは飽き足らず、この台場築造の実際を見る機を捉えて、積極的に江川に願い出、江川の[[付き人]]として一般人が立ち入ることを許されなかった江戸湾の軍事要衝地における台場築造工事をつぶさに視察している。 [[伊豆国]]・[[相模国]]・[[甲斐国]]など五カ国の[[代官#江戸時代における代官|代官]]を務める西洋兵学者の江川が、[[儒学]]の教養深い斎藤を自分の[[用人]]格として形式的に召し抱え、斎藤および練兵館の[[志士]]たちの[[スポンサー]]役を果たしつつ、幕府の危機を彼らに伝え続け、彼らはその貴重な情報を素直に受け止め続けていたのである。 == 歴代塾頭 == *[[荘勇雄]] *[[桂小五郎]] *[[井汲唯一]] *[[御堀耕助|太田市之進]] *[[渡邊昇|渡辺昇]] *[[佐藤常次郎]] *[[原保太郎]] 特に桂小五郎は藩命で帰藩するまでの5年間([[1853年]]~[[1858年]])、塾頭・[[師範代]]を務め続けるほどの腕前であった。 桂小五郎の前の塾頭だった[[大村藩]]士・荘勇雄は、大村騒動で同じく元塾頭の渡辺昇らに命を狙われ、[[斎藤新太郎]]に匿われたが、渡辺らは大村藩に仕えている[[斎藤歓之助]]を[[人質]]にして斎藤弥九郎を脅し、荘を捕らえることに協力させた。潜伏先に踏み込まれた荘は自害した。 [[仏生寺弥助]]は、19歳(17歳とも)で[[免許皆伝]]を得、桂や斎藤歓之助を凌ぐ腕前であったが、粗野な性格であったため塾頭になれなかったとされる。<!--"内弟子時代には学問もそれなりに受けている。"「概説 武芸者 小佐野淳 著 新紀元社」より。--> == 脚注 == <references /> == 参考文献 == *『[[月刊剣道日本]]』1977年4月号 特集「江戸三大道場」 スキージャーナル *『月刊剣道日本』1979年8月号 特集「神道無念流と幕末の剣客」 スキージャーナル *木村紀八郎『剣客斎藤弥九郎伝』 [[鳥影社]] *[[古川薫]]『奔(はし)れ!憂い顔の剣士 桂小五郎』 [[小峰書店]] *[[村松剛]]『醒めた炎 上・下』 [[中央公論社]] *木村高士『長州藩相伝神道無念流』 [[新人物往来社]] 1990年 *[[外山幹夫]]『もう一つの維新史 -長崎・大村藩の場合-』 [[新潮社]] 1993年 * 田端真弓・山田理恵 「幕末期大村藩における剣術流派改変の経緯に関する研究:嘉永7(1854)年の斎藤歓之助の招聘を中心に」(『体育学研究』第56巻第2号 [[日本体育学会]] 2011年) == 関連項目 == *[[有信館]] *[[微神堂]] {{DEFAULTSORT:れんへいかん}} [[Category:神道無念流剣術]] [[Category:千代田区の歴史]] [[Category:栃木県のスポーツ施設]] [[Category:小山市]]
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