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結城義綱
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'''結城 義綱'''(ゆうき よしつな、[[明応]]9年([[1500年]])頃? - [[永禄]]2年([[1559年]])頃?)は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将で、[[白河結城氏]]10代当主。[[結城顕頼]]の嫡男で[[結城晴綱]]、[[小峰義親]]の父(義親については異説もある)。左兵衛佐。門舟院道海。また、異説として[[小峰氏]]([[小峰朝脩]]か?)の子とする説もある<ref>垣内和孝「白川氏・小峰氏と〈永正の変〉」(初出:『国史学』166号(1998年)/所収:垣内『室町期南奥の政治秩序と抗争』(岩田書院、2006年))。また、山田邦明「白河結城氏と小峰氏」及び市村高男「白河結城文書の形成と分散過程」(ともに、村井章介 編『中世東国武家文書の研究』(高志書院、2008年)所収)も同様に義綱を小峰朝脩の嫡男とし、小峰氏嫡流が白河結城氏を継承したことで小峰氏は吸収消滅したとする見解に立っている。</ref>。 [[永正]]7年([[1510年]])の内紛(永正の変)では幼少であったためか義綱の名は見受けられないが、史料上では永正15年([[1518年]])よりその名が確認でき、この頃から武将としての活動を始めたと推測される。[[1522年]]に左兵衛佐に任ぜられた。 白河結城氏は、一時期[[佐竹氏]]の内紛に乗じて勢力を拡大し、佐竹氏の本拠近くまで所領を広げたが、義綱の代には佐竹氏の反攻に遭い、次第に勢力を削られていった。 [[天文 (元号)|天文]]3年([[1534年]])、[[岩城重隆]]の娘と嫡男晴綱との婚姻をめぐって[[伊達氏]]と対立し、伊達氏と伊達側についた蘆名・石川・二階堂・相馬氏らと争う([[滑井合戦]])が敗北し、[[岩城氏]]との婚儀は果たせず、所領の一部も失った。そのためか、次代の晴綱は[[天文の乱]]で[[伊達晴宗]]から[[田村隆顕]]を背後から牽制するように要請を受けたが、晴綱はそれに応じず、積極的にこの乱に参加しなかった。 天文13年([[1544年]])、[[鹿島神社]]の別当寺である[[最勝寺_(白河市)|鹿王山最勝寺]]に銅鐘([[梵鐘]])を[[奉納]]した。この銅鐘は現存し、[[福島県]]内では数例、[[白河市]]内では唯一の中世の銅鐘として、歴史的価値と併せて貴重な[[史料]]となっている。鐘銘に義綱・晴綱父子の他、[[奉行]]の[[和知直頼]]と[[斑目広基]]、一族の[[南恵綱]]、[[新小萱篤綱]]、鋳物師の[[早山清次]]などの名が記されている。 [[1558年]]の書状を最後にその後の動向は不明であり、この頃に病死したと思われる。 == 脚注 == <references/> {{白河結城氏当主|1522-1542}} {{DEFAULTSORT:ゆうき よしつな}} [[Category:結城氏|よしつな]] [[category:戦国大名]] [[Category:1559年没]] {{Japanese-history-stub}} {{people-stub}}
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