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結城氏
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{{日本の氏族 |家名= 結城氏 |家紋=Japanese Crest mitu Tomoe Old design.svg |家紋名称=右三つ巴(三頭右巴) |本姓= [[藤原北家]][[藤原秀郷|秀郷]]流 |家祖= [[結城朝光]] |種別= [[武家]] |出身地= [[下総国]]結城 |根拠地= |人物= |支流、分家=山川氏 }} '''結城氏'''(ゆうきし)は、[[平安時代]]末期から戦国時代にかけて、主に[[下総国|下総]]で活動した一族([[大身]])。[[通字]]として「'''朝'''」(とも)や「'''広'''」(ひろ)が名前に用いられている。 == 出自 == [[鎮守府将軍]][[藤原秀郷]]の末裔・[[結城朝光|小山朝光]](結城朝光)が[[平安時代]]後期に[[源頼朝]]の挙兵に従い、[[源義広 (志田三郎先生)|志田義広]]滅亡後の[[鎌倉時代]]には[[下総国|下総]]の結城([[茨城県]][[結城市]])を領した事が結城氏(下総結城氏、本記事中では一部を除き単に「結城氏」と記す)の始まりであるとされている。なお、朝光の実家である小山氏の本拠である[[下野国]]の小山([[栃木県]][[小山市]])に隣接していることから、結城も元々小山氏の所領であったとする考えもあるが、朝光自身が自分は父の遺領を伝領せず、頼朝の配下となって初めて所領を得たと語っていること(『吾妻鏡』正治元年10月27日条)、[[治承合戦]]期まで結城郡では古くからの[[郡司]]であったと推定される簗氏・人手氏や[[常陸平氏]]系の[[行方氏]]が支配していたと推定されることから、結城郡には元々小山氏一族の影響は及んでおらず、一連の合戦を通じて没落した行方氏らに代わって朝光が頼朝から結城郡を「新恩」として与えられたと考えられている。<ref>[[松本一夫]]『下野中世史の世界』(岩田書院、2010年) ISBN 978-4-87294-616-1 第2章「[[寒河尼]]」</ref> 家伝によれば、朝光には源頼朝御落胤説があり、[[北条氏]]のために親子の名乗りができず、その代わりに身分の上では[[小山氏]]の庶子に過ぎなかった朝光にあらゆる優遇を施した、と伝える。伝統的に[[源氏]]を称し、代々の当主も「頼朝」の「朝」の字を通字としている。いくつもの動乱の時代を経て、鎌倉以来の名族としてその家名を後世に伝えた。 == 鎌倉時代・南北朝時代 == === 下総結城氏の繁栄とその衰退 === 朝光とその子[[結城朝広]]の時代、幕府の要職を歴任し、鎌倉府の御家人の中心として繁栄期を迎えた。しかし、朝広の子の[[結城広綱]]以降は当主の夭折と少年新当主の家督継承(直光をのぞき基本、数え12歳以下の幼少である)<ref>4代目時広は12歳前後(広綱の没年に諸説あり)、5代目貞広は2歳、6代目朝祐は1歳、7代目直朝は12歳、8代目直光(直朝の弟)は16歳で家督を継承している。</ref>が相次ぎ、衰退することになる。1333年、当時の当主[[結城朝祐]]は[[足利高氏]]の上洛軍に加わってそのまま[[六波羅探題]]攻撃に参加、[[建武政権]]より本領安堵を得た。ところが、庶流である[[白河結城氏]]の[[結城宗広]]が早くから討幕に参加していたという事で、1334年に結城宗広に対して「結城惣領」として一族を統率するようにとする後醍醐天皇の綸旨が下された<ref>白河集古苑所蔵『白河結城家文書』「正月十八日後醍醐天皇綸旨案」(なお、同文書中に「元弘三年」の注記が挿入されているが、実際には天皇の京都復帰後の「元弘四年(建武元年)」が正しいとされている)</ref>。実際に惣領に還付されるべき結城一族の跡が宗広に宛がわれ、更に1335年には北畠顕家によって突如、朝祐の所領であった陸奥国糠部郡七戸が没収されて[[南部政長]]に与えられている<ref>髙橋、2010年、P20-23</ref>。こうした経緯から、朝祐は[[足利氏]]に接近して足利尊氏とともに建武政権に反旗を翻してその覇業を助け転戦することになる。その結果、朝祐は[[多々良浜の戦い]]で戦死し、後を継いだ[[結城直朝|直朝]]も[[関城]]攻防戦で戦死している。『梅松論』には1336年正月に京都において下総結城氏及び同族の小山氏は敵の南朝方にいる白河結城氏の軍勢と区別するために右袖を割いて冑につけて戦ったという故事が記されている(両結城・小山氏は家紋が同一のため、同士討ちを避けるためという)。また、同年12月には北畠顕家・白河結城氏の軍が結城郡に侵攻している<ref>『茂木文書』「建武三年十二月日[[茂木知貞]]軍忠状」(『大日本史料』第六編三所収)</ref>。また、結城直朝の戦死のきっかけとなった関城を支配する[[関氏]](藤姓関氏)も下総結城氏の庶子でありながら南朝方についた一族であり、結城一族は南北に分かれて争うことになった。 こうした状況の中で下総結城氏は一貫して足利氏を支持し、直朝の弟の[[結城直光]]の代には[[安房国|安房]]の守護を務めるなど再興を果たしている。また、一旦は白河結城氏に渡った惣領の地位も同氏の内紛の影響もあり、宗広没後は再び下総結城氏の下に戻った。 === 白河結城氏と南北朝の争乱 === 鎌倉時代末期、朝広の子の一人である[[結城祐広]]は白河([[福島県]][[白河市]])を本拠として[[白河結城氏]](白河氏、または白川氏)となる。1333年に[[後醍醐天皇]]の皇子[[護良親王]]による鎌倉幕府討伐の[[令旨]]が届けられると、祐広の子の[[結城宗広]]は鎌倉幕府に対して挙兵し、続いて後醍醐天皇の綸旨を受けて[[新田義貞]]の鎌倉攻めに参加し、鎌倉幕府滅亡後の[[建武の新政]]においては、宗広は前述のように結城氏惣領の地位と奥州各郡の[[検断職]]の地位を与えられ、宗広の子の[[結城親光]]が三木一草と称される1人となった。また、親光の兄の[[結城親朝]]は奥州府の一員となり陸奥守[[北畠顕家]]と[[北畠親房]]父子を補佐する。[[足利尊氏]]が建武政権から離反し南北朝時代になると、下総結城氏が足利方に従ったのに対し、白河結城氏は南朝方に属した。親光は尊氏が九州から入京を果たした際に尊氏暗殺を試みて失敗して殺され、宗広は北畠親子に従い続けたが、家督問題を巡って宗広と溝があったとされる親朝<ref>髙橋、2010年、P23-24</ref>は[[常陸国|常陸]](茨城県)へ渡り[[関東地方]]における南朝勢力を確保しようとした親房の救援要請に対し距離をおき、1342年に足利方に従う。宗広の意向に反して白河結城氏の家督を掌握した親朝は宗広が獲得した結城氏惣領の地位を否認して、自己の本領白河の確保と周辺地域への勢力拡大を目指すことになる。以降の白河結城氏については[[白河結城氏]]の項目を参照。 == 室町時代・戦国時代・安土桃山時代 == === 下野守護職補任と関東八屋形 === [[室町時代]]前期には、本来、結城氏の本家筋であった小山氏が[[小山義政の乱]]により衰退し、[[結城基光]]は下野守護を務め、さらに次男の[[小山泰朝|泰朝]]が小山氏を継ぐことで、結城氏は勢力の面でも格式の面でも小山氏に伍するようになるなど、関東の有力[[守護大名]]として最盛期を迎えた。さらに、結城氏は三代鎌倉公方 [[足利満兼]]により[[宇都宮氏]]や[[小山氏]]、[[佐竹氏]]、[[小田氏]]、[[那須氏]]、[[千葉氏]]、[[長沼氏]]と並んで「[[関東八屋形]]」の一つに列し、[[屋形|屋形号]]を許されるなど、鎌倉府には「結城の間」なる部屋が創られ、一族の栄誉となっているという。 === 結城合戦と家名再興 === しかし、[[永享の乱]]により鎌倉公方が衰退すると結城氏の命運も暗転し、[[結城氏朝]]・[[結城持朝]]は[[永享の乱]]の後に[[足利将軍家|将軍]]・[[足利義教]]に追われた[[鎌倉公方]]の[[足利持氏]]の遺児たちを匿って幕府軍と[[結城合戦]]を行い一時滅亡する。その後、持氏の遺児の[[足利成氏]]が鎌倉公方に復帰すると、結城氏も氏朝の末子[[結城成朝]]が召し出されて再興を許されたものの、家臣筋の[[多賀谷氏]]、[[山川氏]]、[[水谷氏]]等が独立色を強めたため、衰退の一途をたどる。成朝は成氏の命を受けて[[関東管領]][[上杉憲忠]]を謀殺し[[享徳の乱]]が勃発のきっかけとなる。足利成氏は[[古河城|古河]]に逃れて[[古河公方]]と称したが、結城氏は古河公方を支持して[[山内上杉家|山内上杉氏]]と長期にわたって争った。 [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に入っても一貫して古河公方を支援する姿勢を続けた。そのような中で名君と呼ばれた15代当主・[[結城政朝]]が登場した。彼の治世のとき、結城氏は、多賀谷氏や山川氏を屈服させ、さらに周辺勢力との抗争に勝ち抜くことにより、戦国大名としての飛躍を遂げることになる。『結城系図』・『結城家之記』には政朝を「結城中興」と称している。その子・[[結城政勝]]の時代には[[小山氏]]に子の[[小山高朝|高朝]]を送り同盟関係を強化し、晩年には分国法の「結城氏新法度」を制定するなど政治的・軍事的基盤を固め、勢威を[[常陸国|常陸]]や[[下野国|下野]]にまで伸ばして、再びの最盛期を築き上げた。 === 戦国時代の終了と結城秀康の入嗣=== 政勝には子がなく、跡は高朝の子である[[結城晴朝]]が継いだが、晴朝の時代においては、古河公方の没落は顕著となり、新たに勃興した[[相模国|相模]][[北条氏康]]や[[関東管領]]を継承した[[上杉謙信]]の侵攻を受けて、結城氏は[[後北条氏|北条]]・上杉の間を転々としながら勢力を保つのみになり、晴朝の実家である小山氏との関係も険悪となった。[[1590年]]、[[豊臣秀吉]]の[[小田原征伐]]に参陣して、近世大名として生き残ることに成功し、改易された旧小山氏の所領と旧小田氏の所領の一部([[土浦城]]一帯)が戦功によって結城氏に与えられている。 晴朝には嗣子がなく、初めは[[宇都宮広綱]]の次男で[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]の甥に当たる[[結城朝勝]]を養子に迎えていた。だが、小田原征伐後に結城氏の所領が大大名である[[徳川氏]]の所領と隣接するようになる。このため朝勝を廃して、[[徳川家康]]の次男で秀吉の養子になっていた[[結城秀康]](一時期、秀朝)を養子に迎えて家督を譲ることで豊臣・徳川両氏の信頼を得て結城氏の存続を図った。 === 越前移封 === [[関ヶ原の戦い]]の後に秀康は[[越前国|越前]]に移封されて[[1604年]]には名字を松平に改めることになる。結城家の家督は秀康の五男[[松平直基|結城直基]]が継ぐことになる。越前移封は当時健在であった先代晴朝にとっては先祖の地である結城の地を失うと言う点から不本意であり、越前移住後も結城地方の惣社とされていた[[高椅神社]]に結城帰還を祈願したり、『結城家譜』『結城家之記』などの[[家記]]を編纂したりするなど、結城氏存続と結城復帰への強い執念をみせている(なお、晴朝編纂の家記には秀康の[[公卿]][[補任]]までしか記されず、晴朝が忌んだ越前移封には触れられていない)<ref>髙橋、2010年、P119-140</ref>。 しかし、直基も晴朝の没後に松平を名乗り([[越前松平家#前橋松平家|前橋松平家]])、大名の家名としては下総結城家の家名は消えた。なお、家名は松平家となったが、下総結城氏の祭祀は代々の前橋松平家当主が継承している。 === 結城氏の末裔(水戸藩士・秋田藩士として) === 別系統に[[白河結城氏]]の末裔たる結城氏のうち一部は、[[水戸藩]]士として1000石、家老の家格を有した。小山氏、宇都宮氏と並び'''水戸藩御三家'''として尊ばれ代々[[家老#陪臣の叙爵|家老]]を務め叙爵(従五位下と官職を受けること)を受ける家柄であった。しかし、[[結城朝道]](寅寿、晴明とも)の代に藩主毒殺を図ったとして、反逆の罪で絶家とされた。寅寿の子・[[結城種徳]]は牢死し、結城家は大森家から養子を迎え入れて存続した。なお、水戸藩の結城氏は庶流であり、白河結城氏の末裔は[[秋田藩|秋田藩士]]、[[仙台藩|仙台藩士]]として存続した。 その他、常陸国伊奈に名主の結城氏が存続。300石を有した。 == 家紋 == [[File:Japanese Crest mitu Tomoe 1.svg|right|thumb|100px|右三つ巴]] 松平を称した後も家紋は、引き続き結城家の小山氏に由来する三頭右巴と秀康以来の太閤桐(越前桐)を用いた <ref>{{Cite web|author=[[伊從保美]]|date=2005|url=http://www.kawara-ban.com/daimyouNO50.html|title=前橋藩・川越藩(松平氏)と厚木市域|work=厚木の大名|accessdate=2008-12-14}}『文化武鑑』の画像があり、川越藩主松平家の家紋として巴紋と桐紋が描かれている。</ref>。この点は、その他の越前松平諸家とは一線を画する。 === 図案 === 三つ巴の図案については、冒頭の家紋画像の図案と通常のものの使用がある。越前桐は、「五三桐」の花序部分を変形させた図案である。 {{-}} == 下総結城氏歴代当主 == # [[結城朝光]] # [[結城朝広]] # [[結城広綱]] # [[結城時広]] # [[結城貞広]] # [[結城朝祐]] # [[結城直朝]] # [[結城直光]] # [[結城基光]] # [[結城満広]] # [[結城氏朝]] # [[結城持朝]] # [[結城成朝]] # [[結城氏広]] # [[結城政朝]] # [[結城政勝]] # [[結城晴朝]] # [[結城秀康]](一時期、秀朝) # [[松平直基|結城直基]](後に姓を松平に改める) (ただし、政勝の前には、古文書等から、結城氏の家系図には記載されない兄・[[結城政直]]がいて家督相続していたともされる。また、[[結城基景]]は氏広以前に、[[結城朝勝]]も秀康以前に家督を継いでいたとする説もある<ref>結城氏に関する論文集である『シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻下総結城氏』(荒川善夫 編著、戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-069-4 の巻末系譜(作成者:荒川)では、こうした研究を反映させる形で結城成朝以後を「'''12代成朝・13代基景・14代氏広・15代政朝・16代政直・17代政勝・18代晴朝・19代朝勝・20代秀康'''」と記述している。</ref>) ==系譜== <div class="NavFrame" style="clear: both; border:0;"> <div class="NavHead" style="text-align: center;"></div> <div class="NavContent" style="text-align: left;"> ;実線は実子、点線(縦)は養子、点線(横)は婚姻関係。<!--構成の都合で出生順より組み替え--> {{familytree/start|style="font-size:100%"}} {{familytree |border=0|01||||| 01=[[小山政光]]}} {{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|~|~|V|~|~|7}} {{familytree |border=0|01|02|03|04|06|05|07| 01='''[[結城朝光]]'''<sup>1</sup>|02=[[小山朝政]]|03=[[長沼宗政]]|04=久下重光|05=吉見頼経|06=島田政照|07=[[宇都宮頼綱]]}} {{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|.}} {{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06|07|08|09|010| 01='''[[結城朝広|朝広]]'''<sup>2</sup>|02=平方朝俊|03=寒河時光|04=[[山川重光]]|05=細戸朝村|06=朝長|07=宗政|08=宗泰|09=小磯時広|010=河原田朝綱}} {{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.}} {{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06||||| 01='''[[結城広綱|広綱]]'''<sup>3</sup>|02=金山時広|03=平山信朝|04=関朝泰|05=益戸義広|06=[[[白河結城氏]]]<br/>[[結城祐広|祐広]]}} {{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.|||}} {{familytree |border=0|01|02|03|04|05|||||| 01='''[[結城時広|時広]]'''<sup>4</sup>|02=大内宗重|03=小萱重広|04=金山時綱|05=小田盛広|}} {{familytree 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01='''[[結城秀康|秀康(秀朝)]]'''<sup>18</sup><ref>[[徳川家康]]の次男。当初は[[豊臣秀吉]]の養子となり「秀」の字を与えられていたが、後に晴朝の養嗣子となる。一時期、晴朝より結城氏通字「朝」の字を与えられ「秀朝」を称していた。</ref>|02=[[結城朝勝|朝勝→宇都宮宗安]]<ref>[[宇都宮広綱]]の次男。</ref>|}} {{familytree |border=0| |)|-|-|v|-|-|v|-|-|v|-|-|.|||:}} {{familytree |border=0|01|02|03|04|05|06||||| 01=[[[越前松平家#前橋松平家|前橋藩主家]]]<br/>[[松平直基|'''直基'''<sup>19</sup>→松平(越前)直基]]<ref>松平改姓後、結城氏の祭祀継承は子孫の[[越前松平家#前橋松平家|前橋松平家]]が継承。</ref>|02=[[[越前松平家#津山松平家|津山藩主家]]]<br/>[[松平忠直|松平(越前)忠直]]|03=[[[越前松平家#福井松平家|福井藩主家]]]<br/>[[松平忠昌|松平(越前)忠昌]]|04=[[[越前松平家#松江松平家|松江藩主家]]]<br/>[[松平直政|松平(越前)直政]]|05=[[[越前松平家#明石松平家|明石藩主家]]]<br/>[[松平直良|松平(越前)直良]]|06=宇都宮光綱<ref>[[真壁重幹]]([[真壁房幹|房幹]]の弟)の次男。</ref>}} {{familytree/end}} </div></div> == 関連氏族・関連人物 == [[新井白石]]著『藩翰譜』の水谷氏の項に、「水谷多賀谷山川岩上の者共は、もと結城の家の四天王なればとて、」の記述がある。『結城系図』の晴朝の項目に[[結城四天王]]として、[[多賀谷重経]]・[[水谷勝俊]]・[[山川朝信]]・[[岩上伊勢守]]([[岩上朝堅]]の一族)の4人をあげる<ref>髙橋、2010、P72-77</ref>。 [[小山氏]] * [[小山泰朝]]([[結城基光]]の子) * [[小山満泰]] * [[小山高朝]]([[結城政勝]]の子) * [[小山秀綱]] [[多賀谷氏]] * [[多賀谷光義]]([[結城満広]]の子) * [[多賀谷重経]] * [[多賀谷政広]] [[水谷氏]] * [[水谷勝氏]] * [[水谷勝国]] * [[水谷勝之]] * [[水谷勝吉]] * [[水谷治持]] * [[水谷正村]](妻は結城政勝の娘である小藤姫) * [[水谷勝俊]](結城氏から独立、初代[[下館藩]]主) [[岩上氏]](小山氏庶流) * [[岩上朝堅]] * [[岩上朝吉]] [[山川氏]] * [[山川重光]]([[結城朝光]]の子) * [[山川景貞]] * [[山川政貞]] * [[山川直貞]] * [[山川晴重]] * [[山川朝貞]] 玉岡氏 * [[玉岡政広]] 片見氏 * [[片見政行]] [[及川氏]] * [[及川光政]] * [[及川光村]] その他 * [[大嶋勝吉]] その他一族 * [[結城基景]](山川景貞の子) * [[結城朝勝]] == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 関連項目 == * [[藤原秀郷]] * [[小山氏]] * [[結城神社]]([[三重県]][[津市]]) * [[白河結城氏]] * [[多賀谷氏]] == 参考文献 == * [[府馬清]]『結城一族の興亡』(地方・小出版流通センター、1983年) ISBN 4870150972 * [[七宮涬三]]『下野 小山・結城一族』(新人物往来社、2005年) ISBN 4404032706 * 髙橋恵美子『中世結城氏の家伝と軍記』(勉誠出版、2010年) ISBN 4585031715 ===系譜参考=== *[http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020e2.htm#011 日本の名字七千傑「結城氏」] *[http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yuki.html 武家家伝「結城氏」] {{デフォルトソート:ゆうきし}} [[Category:結城氏|*]] [[Category:戦国大名|ゆうきし]] [[Category:日本の氏族|ゆうきし]] [[Category:守護大名を輩出した氏族]]
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