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細川澄元
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 細川澄元 | 画像 = Shosokawa.jpg | 画像サイズ = 230px | 画像説明 = 細川澄元像([[狩野元信]]筆 [[景徐周麟]]賛 [[永青文庫]]蔵 [[重要文化財|重文]]) | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] | 生誕 = [[延徳]]元年([[1489年]]) | 死没 = [[永正]]17年[[6月10日 (旧暦)|6月10日]]([[1520年]][[6月24日]]) | 改名 = | 別名 = 六郎([[仮名 (通称)|仮名]]) | 戒名 = | 墓所 = | 官位 = [[京職|右京大夫]] | 幕府 = [[室町幕府]][[丹波国|丹波]]・[[摂津国|摂津]]・[[讃岐国|讃岐]]・[[土佐国|土佐]][[守護]] | 主君 = | 氏族 = [[細川氏#阿波細川家|阿波細川家]]→[[細川京兆家]] | 父母 = 父:[[細川義春]]、養父:''[[細川政元]]'' | 兄弟 = [[細川之持|之持]]、'''澄元'''、女子([[細川政賢]]室) | 妻 = [[正室]]:'''[[清泰院]]'''(常春宗英禅定尼) | 子 = '''[[細川晴元|晴元]]'''、娘([[畠山義堯]]正室)、娘([[有馬重則]]正室) | 特記事項 = }} '''細川 澄元'''(ほそかわ すみもと)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]・[[守護大名]]。 == 生涯 == === 出生 === 延徳元年(1489年)、細川氏の庶流である[[細川義春]]([[細川頼之]]の弟である[[細川詮春]]の子孫)の子として生まれた。父の義春は[[阿波国|阿波]]守護を務めていたが、澄元が9歳の時に死去した為、祖父の[[細川成之|成之]]に養育された。 澄元の生まれた[[細川氏#阿波細川家|阿波細川家]](詮春流)は細川氏の支族であり、[[相伴衆]]の格式でもあった。一方で本家の[[細川京兆家]]当主[[細川政元]]は当時[[管領]]として幕府で重きを為していたが、独身を貫き子が無かった為、摂関[[九条家]]からの養子・聡明丸(のちの[[細川澄之]])を[[家督]]継承者としていた。しかし、政元は聡明丸と折り合いが悪く、文亀3年([[1503年]])5月に聡明丸を[[廃嫡]]し、六郎(澄元)を養嗣子として迎え入れた<ref>『三好長慶』〈人物叢書〉14頁。</ref><ref>澄元が選ばれた背景として、澄元の父である義春が明応3年(1494年)に山城守護職を[[伊勢貞陸]]と争って敗れて以来、死ぬまで政元に反抗的な態度を取り続けていたため、京兆家(細川氏本家)と阿波細川氏の結合を回復させる動きがあったとされている(古野貢「室町幕府―守護体制と細川氏権力」(初出:『日本史研究』510号(2005年)/改題所収:「京兆家-内衆体制」古野『中世後期細川氏の政治構造』(吉川弘文館、2008年)第二部第四章)。 </ref>。同年に[[元服]]、第11代[[征夷大将軍|将軍]]・[[足利義澄]]より[[偏諱]]を受けて'''澄元'''と名乗る。この際に京兆家の家督継承者に付けられる「'''元'''」の字を与えられていることから政元より[[嫡子]](後継者)と見なされていたことがわかる(逆に廃嫡された聡明丸改め澄之には「之」の字が与えられている)。 こうして政元の後継者となった澄元は永正3年([[1506年]])から永正4年([[1507年]])にかけて、政元の命令で澄之と共に[[丹後国|丹後]]の[[一色義有]]を攻めたが、敗北している<ref>敗北の理由は、澄之が敵の一色方と内通して落城を装い、兵を退いたためである。澄之は自身が廃嫡されたことを許せるはずもなく、のちの政元・澄元の暗殺計画に黒幕として関わることとなる。</ref>。 === 永正の錯乱 === 政元の後継者は一応澄元となっていたが、澄元を養子にした後に更に細川氏の一族である[[細川氏#野州家|野州家]]より[[細川政春]]の子・[[細川高国|高国]]を養子に迎えるなど、3人の後継者候補が並立する状態となってしまっていた。そんな中、永正4年[[6月23日 (旧暦)|6月23日]]、政元が[[香西元長]]や[[薬師寺長忠]]ら澄之の支持者によって[[暗殺]]されたことがきっかけとなって[[永正の錯乱]]が発生した。澄元も翌[[6月24日 (旧暦)|24日]]に澄之の家臣に屋敷を襲われ、[[三好之長]]と共に[[近江国|近江]][[青地城]]に逃れ、[[甲賀]]の[[山中為俊]]を頼って逃走した<ref>『三好長慶』〈人物叢書〉17頁。</ref>。そして近江の国人の力を借りて勢力を盛り返し、[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]には京都に侵攻して澄之とその支持者を討ち取り、[[8月2日 (旧暦)|2日]]には将軍・足利義澄に対して細川家の家督継承を承認させたのである<ref>『三好長慶』〈人物叢書〉18頁。</ref>。 ところが澄元は若年だったため、家宰であった三好之長の実力が逆に大きくなり始め、澄元は之長と対立して一時は阿波に帰国しようとした<ref>(『[[宣胤卿記]]』)『三好長慶』〈人物叢書〉18頁。</ref>。この時には足利義澄の説得もあって帰国はとどまっている。[[8月27日 (旧暦)|8月27日]]に家臣の[[赤沢長経]]を[[大和国|大和]]へ派遣、大和を制圧した。 このような京都における一連の内乱が、[[周防国|周防]]に流れていた第10代将軍(前将軍)・[[足利義稙|足利義尹]](義材より改名)のもとに知らされると、義尹は[[大内義興]]に擁立されて上洛を開始する<ref>『三好長慶』〈人物叢書〉19頁。</ref>。澄元は義興との和睦を画策したが<ref>澄元は義澄に義稙との和睦を勧めた。『三好長慶』〈人物叢書〉19頁。</ref>、同じく政元の養子で澄之討伐に協力した[[細川高国]]が大内方に寝返ったため、決裂してしまった。 === 両細川の乱 === 永正5年([[1508年]])4月、高国が京都に侵攻を開始する。この時、摂津の[[伊丹元扶]]や丹波の[[内藤貞正]]、[[河内国|河内]]の[[畠山尚順]]らも呼応したために澄元は敗北し<ref>他に[[奈良元吉]]、[[天竺上野介]]、[[寺町通隆]]、[[香西国忠]]、[[香川元綱]]、[[長塩元親]]などが高国に呼応したが、これは澄元が彼らを疑って重用しなかったためという。『三好長慶』〈人物叢書〉20頁。</ref>、之長や将軍・足利義澄と共に4月9日に山中為俊を頼って近江に逃れた<ref>『三好長慶』〈人物叢書〉20頁。</ref>。そして6月、足利義尹が大内義興に擁されて上洛すると、やがて将軍職に復帰した義尹によって澄元の家督は剥奪され<ref>家督剥奪に関しては5月6日ともいう。『三好長慶』〈人物叢書〉21頁。</ref>、代わって高国の家督継承が承認されることとなった。8月に大和に残った赤沢長経も畠山尚順に討たれた。 ところが大内義興と義尹が対立し始めたため、澄元と之長は[[永正]]6年([[1509年]])に京都に侵攻したが、逆に高国と義興の反撃を受けて敗北([[如意ヶ嶽の戦い]])し澄元と之長は阿波に逃走する<ref>『三好長慶』〈人物叢書〉21頁。</ref>。 永正8年([[1511年]])には義澄、義兄弟の[[細川政賢]]([[細川典厩家]]当主)と連携して[[深井城]]を攻め([[深井城#深井の合戦|深井城の合戦]])、一方では[[鷹尾城]]を攻め([[芦屋河原の合戦]])、その後京都に侵攻し[[船岡山の戦い]]となる。しかし船岡山の戦い以前に義澄が病死したこともあって、大内義興の反撃を受けて大敗を喫し、政賢は戦死し、澄元は摂津に逃走した<ref>『三好長慶』〈人物叢書〉21頁 - 23頁。</ref>。 永正15年([[1518年]])8月、大内義興が周防に帰国すると、永正16年([[1519年]])に澄元と之長は摂津に侵攻([[下田中城#田中城の戦い|田中城の戦い]])する。永正17年([[1520年]])1月に入ると、澄元に呼応して[[山城国|山城]]で土一揆が発生し、さらに将軍・足利義稙(永正8年([[1513年]])、義尹より改名)も澄元に通じて裏切ったため、細川高国は単独で近江坂本に逃れた。これにより、澄元政権が成立する<ref>『三好長慶』〈人物叢書〉24頁 - 30頁。</ref>。 ところが5月、高国は大軍を集めて京都に侵攻する。これに対して澄元・之長らは兵を集めることができず<ref>高国は4万に対して澄元は5000(2000とも)ほどだったという。『三好長慶』〈人物叢書〉30頁。</ref>、之長は[[等持院の戦い]]で敗北し捕らえられて自害させられ、澄元も摂津[[伊丹城]]に敗走し、政権は短期間で崩壊した。そして失意のうちに病に倒れた澄元は、まもなく高国の攻撃を受けて[[播磨国|播磨]]に逃走し、最終的には永正17年(1520年)6月10日に阿波[[勝瑞城]]にて死去した<ref>(『[[応仁後記]]』『[[細川系図]]』『[[細川両家記]]』『[[諸家系図纂]]』)『三好長慶』〈人物叢書〉34頁。</ref>。享年32。 == 子孫 == 澄元の死後、嫡男の[[細川晴元|晴元]]が家督を継いだ。晴元は三好之長の孫・[[三好元長|元長]]と共に再び畿内へ上陸し、高国を討ったが、高国の養子・[[細川氏綱|氏綱]](政賢の義孫)との戦いが続き、その最中に元長の子・[[三好長慶|長慶]]が氏綱方についた為、敗北している。子孫は豊臣家中を経て[[三春藩]]の家老となった(曾孫の[[細川元勝]]の項を参照のこと)。 == 注釈 == <references /> == 参考文献 == * [[長江正一]]『[[人物叢書]] 三好長慶』[[吉川弘文館]]、1968年(新装版、1989年4月)。ISBN 978-4-642-05154-5 * [[今谷明]]『戦国三好一族 <small>天下に号令した戦国大名</small>』[[洋泉社]]、2007年 * [[福島克彦]]『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』吉川弘文館、2009年。 {{管領}} {{細川氏|細川京兆家|1507年 - 1508年|第10代}} {{DEFAULTSORT:ほそかわ すみもと}} [[Category:京兆細川氏|すみもと]] [[Category:阿波細川氏|すみもと]] [[Category:管領]] [[Category:守護大名]] [[Category:戦国大名]] [[Category:1489年生]] [[Category:1520年没]]
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