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籾井教業
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'''籾井 教業'''(もい のりなり、生没年不詳)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[丹波国]]の[[武将]]。[[赤井直正]]と並んで武勇に優れたため、「'''青鬼'''」と呼ばれたが、実在には疑問もある。 == 生涯 == [[籾井氏]]は[[16世紀]]に丹波国[[多紀郡]]の篠山盆地に割拠した新興の[[豪族]]で、居城の籾井城(現在の[[篠山市]]域)は古代・中世に[[京都]]から丹波を経て[[山陰]]地方に向かう[[山陰道]]が篠山盆地に差し掛かる箇所にあたる要衝であった。 教業は武勇に優れ、「丹波の赤鬼」こと赤井直正と並んで「青鬼」と呼ばれた。篠山盆地の中心を抑える[[八上城]](篠山市域)の[[波多野氏]]と姻戚関係にあり、その旗下の武将としてともに[[足利義昭]]に仕えた。[[天正]]3年([[1575年]])、義昭を追放した[[織田信長]]は[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]に自身に反抗する丹波の諸将の討伐を命じ、丹波への入り口にあたる籾井城は羽柴勢の猛攻を受け落城。教業は戦死し籾井氏は没落したといわれている。 しかし、実際の丹波攻略は[[明智光秀]]によるもので、最後の籾井城主は当時まだ20代の[[籾井綱利]]とされている。これは前述の伝承が[[江戸時代]]に民間で生き延びた波多野氏、籾井氏の旧臣の子孫が書き残したという『籾井家日記』などの野史によるものである。そのため教業にまつわる伝承を史実と受けとることは難しいとされている。 {{DEFAULTSORT:もい のりなり}} [[Category:戦国武将]]
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