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第一次モロッコ事件
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'''第一次モロッコ事件'''(だいいちじモロッコじけん、'''First Moroccan Crisis''')とは、[[1905年]]に[[ドイツ]]皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]が[[モロッコ]]北端の港湾都市[[タンジール]]を訪問し、[[フランス]]のモロッコ進出を牽制したことによって生じた国際紛争である。別名「'''タンジール事件'''('''Tangier Crisis''')」。 == 背景 == [[1890年]]、[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]の下野に伴い、ヴィルヘルム2世は親政を開始した。彼はビスマルクと異なり[[植民地]]獲得に積極的で、[[イギリス]]やフランス、[[ロシア]]に対する遅れを取り戻さんとばかりに中近東や[[アフリカ]]への進出を行ったため、各地で衝突を繰り返した。 19世紀末のモロッコは、イギリスやフランス、[[スペイン]]にとって、[[帝国主義]]的膨張政策の格好の標的となっていた。スペインは[[1859年]]以降モロッコ北部の侵略を行い、フランスも東隣の[[アルジェリア]]から侵攻した。わけてもタンジール(Tangier)は、[[ジブラルタル海峡]]を挟む位置にあるため、[[地中海]]地域における[[制海権]]の行方を左右する重要な戦略拠点であり、古代から激しい争奪戦が繰り広げられ、近代においては長いアフリカ航路を行くために必要な途中寄港地として繁栄したため、列強の関心を集めた。 [[1684年]]にタンジールはモロッコの領土となるが、19世紀に至ってヨーロッパ列強の抗争が再び激化。[[1880年]]のマドリード条約によって一旦は同地における権益の均衡が図られ、同時にモロッコの独立が認められた(その実態は、外圧によるタンジールの開港と、各国の[[治外法権]]の承認とに過ぎない)が、モロッコに対して特に関心を寄せていたフランスは、[[1901年]]に[[イタリア]]との間で同地におけるフランスの優先権を確認する協定を締結するなど、着実にモロッコへの影響力を強めていった。 英仏関係の好転も、この動きを推し進めるものであった。[[ファショダ事件]]において頂点に達した両国間の危機的状況は、[[1899年]]に行われた勢力範囲の調整によって終息した。ドイツの進出に対抗して[[1904年]]に成立した[[英仏協商]]では、フランスは[[エジプト]]における優越権と引き換えに、モロッコにおける優越権をイギリスから獲得した。 一方、[[セウタ]]や[[メリリャ]]など一部地域は、スペインの勢力圏内に収まりつつあり、モロッコの領土はフランス、スペイン両国に帰することがほぼ確実な情勢となっていた。もはや抗争は終結したに等しく、他国に遅れをとったドイツにとって、状況は圧倒的に不利であったが、世界政策の実現に弾みをつけるためにも、これを覆すことが強く望まれた。 == タンジール訪問 == フランスはモロッコの財政危機に乗じて[[借款]]を供与し、その代償としてモロッコの関税収入の6割を得ることとした。また[[1905年]]1月には、フランス将校の主導する国軍の創設、フランス資本による国立銀行の設置などの内政改革を要求した。こうした一連の動きにドイツが反応した。 [[1905年]]春、ヴィルヘルム2世は恒例の春季休暇の[[地中海]]クルーズを楽しんでいたが、[[3月31日]]、突如タンジールを訪問した。埠頭で歓迎を受けたヴィルヘルム2世は、続いて向かったドイツ領事館でモロッコの領土保全と門戸開放を主張する演説を行い、同席していたフランス代表シャラサの度肝を抜いた。更に、[[スルタン]]のアブドゥル・アジズが病気で面会できなかったため、その大伯父と会談し、独立国としてのモロッコの地位を支持することを改めて説いた。 こうしてヨーロッパを騒然とさせたタンジール訪問は終了した。もっとも、ヴィルヘルム2世自身は、この訪問には消極的だったようである。 == 危機 == アブドゥル・アジズはドイツの支持を頼みに、フランスが突き付けた内政改革の要求を断固拒否した。また、ドイツ首相[[ベルンハルト・フォン・ビューロー]](Bernhard Fürst von Bülow)はフランスに対し、問題解決のため国際会議を開催するよう要求。独仏間に緊張が走った。 フランス世論は一挙に硬化。殊に外相[[テオフィール・デルカッセ|デルカッセ]](Théophile Delcassé)は対独強硬策を主張して譲らなかったが、イギリスの軍事援助がフランスの期待通りに行われるか否かは不透明な情勢であった。また、フランスと同盟関係([[露仏同盟]])を構築していた[[ロシア]]は[[日露戦争]]に忙殺されていたため、助力は期待できなかった。6月、首相[[モーリス・ルーヴィエ|ルーヴィエ]]([[:fr:Maurice Rouvier]])は主戦論者のデルカッセを更迭。戦争を回避し、国際会議のテーブルにつく道を選択した。 なお、このような中にあっても、12月にドイツ軍は部分動員を開始、フランスも翌[[1906年]]1月、国境に騎兵部隊を配置するなど、開戦に備えた動きも見られ、事は決して平和裏に収拾されていた訳ではない。 == アルヘシラス会議 == 1906年1月、スペインの[[アルヘシラス]]でドイツの要求通り国際会議が開催された([[アルヘシラス会議]])。しかし諸外国の支持を取り付けることができなかったため、ドイツはモロッコの現状維持を承認せざるを得なかった。 [[4月7日]]成立したアルヘシラス議定書では、モロッコの主権尊重、列強各国への門戸開放と機会平等が定められた。しかし実質的な支配権は、治安や金融の掌握を認められたフランスとスペインにあった。 デルカッセは、この事件で外相の椅子を失った。しかし、「筋を通した」としてフランス国民からは歓迎された。 == 関連項目 == * [[モロッコ事件]] * [[第二次モロッコ事件]] * [[アルヘシラス会議]] {{DEFAULTSORT:もろつこしけん1}} [[category:モロッコの歴史]] [[Category:フランス第三共和政]] [[Category:スペインの歴史]] [[category:ドイツ帝国の事件]] [[category:独仏関係]] [[Category:1905年]] [[category:20世紀のヨーロッパ史]] [[Category:タンジェ]]
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