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[[File:Choganji (Tennoji, Osaka) Takemoto Gidayu haka.jpg|thumb|200px|right|大阪超願寺にある竹本義太夫の墓。]] '''竹本義太夫'''(たけもとぎだゆう、[[慶安]]4年〈[[1651年]]〉 - [[正徳 (日本)|正徳]]4年[[9月10日 (旧暦)|9月10日]]〈[[1714年]][[10月18日]]〉)とは、[[江戸時代]]の[[浄瑠璃]]語り。[[義太夫節]]浄瑠璃の創始者。本名'''五郎兵衛'''、初期には'''清水五郎兵衛'''と名乗る。のちに'''竹本筑後掾'''と称した。 == 来歴 == [[摂津国]][[天王寺村]]の農家に生まれる。当初、当時人気の浄瑠璃語り井上播磨掾の弟子である清水理太夫に入門し、播磨掾の芸風を学ぶ。のちに京都に出て、浄瑠璃語りの宇治加賀掾のもとで浄瑠璃を語り好評を得、清水五郎兵衛と名乗った。その後加賀掾と別れ、操り人形芝居の一座に加わって西国で旅回りをし、[[延宝]]8年(1680年)のころ竹本義太夫と改名。いっぽう[[天和 (日本)|天和]]3年([[1683年]])には、[[近松門左衛門]]が加賀掾のために『[[世継曽我]]』を書いたが、翌年の[[貞享]]元年、義太夫は大坂[[道頓堀]]に[[竹本座]]を開場して座本(興行責任者)となり、その旗揚げとしてこの『世継曽我』を語り評判をとる。近松が竹本義太夫とかかわりを持つようになったのは、これが最初であった。 さらに貞享2年、竹本座は近松作の『[[出世景清]]』を上演し義太夫がこれを語ったが、以後義太夫と近松が提携して上演した作は「新浄瑠璃」と呼ばれるようになり、この作より以前の、播磨掾や加賀掾らが語ったものを「古浄瑠璃」と呼んで区別するほどの強い影響を浄瑠璃の世界に与えた。 [[元禄]]14年(1701年)に筑後掾を[[受領]]し、竹本筑後掾と称す。同16年には近松作の『[[曽根崎心中]]』が好評により竹本座の経営が安定したので、座本を引退し初代・[[竹田出雲]]にその座を譲ったが、その後も竹本座には出演している。正徳4年に死去、享年64。墓所は[[大阪市]][[天王寺区]]の超願寺。なお弟子の発起によって[[生國魂神社]]境内の浄瑠璃神社にも祀られている。 二代目竹本義太夫に関しては「[[竹本政太夫]]」の項を参照。 ==関連項目== *[[近世邦楽]] - [[邦楽のジャンル一覧]] *[[日本の近世文学史]] [[Category:浄瑠璃|たけもと きたゆう]] [[Category:江戸時代の音楽家|たけもと きたゆう]] [[Category:三味線音楽作曲家|たけもと きたゆう]] [[Category:17世紀の音楽家|たけもと きたゆう]] [[Category:摂津国の人物|たけもと きたゆう]] [[Category:1651年生|たけもと きたゆう]] [[Category:1714年没|たけもと きたゆう]]
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