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'''竹中 重固'''(たけなか しげかた、[[文政]]11年([[1828年]]) - [[明治]]24年([[1891年]]))は、[[江戸幕府]]後期の[[旗本]]。従五位下遠江守、丹後守。号は'''春山'''(しゅんざん)。 == 生涯 == === 出自 === 旗本・竹中元幸の長男として生まれる。父元幸の死後に家督を相続するが、のち、本家である旗本[[交代寄合]]([[美濃国|美濃]][[不破郡]]岩手5000石)・[[竹中重明]]の養嗣子となる。[[文久]]元年([[1861年]])、家督相続。[[元治]]元年([[1864年]])に[[大番組]]入りし、[[幕府陸軍]]創設後は[[陸軍奉行]]として[[天狗党]]征伐や[[長州征伐]]で活躍する。[[慶応]]3年([[1867年]])、[[若年寄]]並陸軍奉行に就任した。 === 戊辰戦争 === 慶応4年([[1868年]])、[[鳥羽・伏見の戦い]]では主戦派として[[伏見奉行|伏見奉行所]]へ出陣するが、幕府軍敗北によって罷免・官位剥奪される。一時は出家したものの、のちに純忠隊を結成し、[[彰義隊]]の支部隊として新政府と交戦した。[[彰義隊]]の敗退後は[[輪王寺宮]]を奉じて奥羽を転戦し、のちに[[蝦夷共和国]]の海陸裁判所頭取に就任した。[[明治]]2年([[1869年]])、[[箱館戦争]]終結前に英国汽船で東京へ向かい、5月28日、養父[[竹中黄山|竹中図書]]の薦めにより投降した。 === 晩年 === 維新後は領地没収・除族のうえ、[[福岡藩]]預り、のちに竹中家預りに処される。明治4年([[1871年]])、養父重明とともに[[北海道]]に入植する。明治5年([[1872年]])、士族の困窮を憂いて北海道殖産事業に関する建白書を提出。[[明治]]6年([[1873年]])に[[東京府]]に出仕したが、明治8年([[1875年]])に辞職。その後は実弟元賀が経営する蓬英社に入社し、殖産事業に尽力した。 明治24年([[1891年]])、死去。享年64。菩提寺は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[泉岳寺]]。 == 備考 == * 先祖は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の軍師・[[竹中重治]]。 {{DEFAULTSORT:たけなか しけかた}} [[Category:1828年生]] [[Category:1891年没]] [[Category:江戸幕府若年寄]] [[Category:江戸幕府旗本]] [[Category:幕府陸軍の人物]] [[Category:戊辰戦争の人物]] [[Category:箱館戦争の人物]] [[Category:竹中氏|しけかた]] [[Category:日本の官僚 (1868-1949)]] [[Category:日本の実業家]] [[Category:戦前北海道史の人物]] [[Category:美濃国の人物]]
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