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'''窪田 鎮章'''(くぼた しげあき、[[文政]]10年([[1827年]]) - [[慶応]]4年[[1月4日 (旧暦)|1月4日]]([[1868年]][[1月28日]]))は、[[江戸時代]]末期([[幕末]])の[[武士]]。[[窪田鎮勝]](蒲池鎮克)の子。[[大身]][[旗本]](2,000石)、[[幕府歩兵隊]]連隊長。通称は泉太郎。備前守。 == 生涯 == 文政10年(1827年)、[[西国筋郡代|西国郡代]]の窪田治部右衛門鎮勝の子として誕生。[[安政]]4年6月、[[講武所]]調方出役軍制改正御用に任じられ、安政5年10月に[[外国奉行]]支配書物御用出役、文久元年2月には[[神奈川奉行]]支配調役並出役、12月には同支配調役並、文久3年2月には同支配調役および定番役頭取、4月13日の[[清河八郎]]暗殺に関与した。 [[元治]]元年7月25日、同頭取から頭取取締へ昇進、約1,500人規模の洋式軍隊を[[英仏横浜駐屯軍]]の駐在する[[横浜]]で指揮した。現地徴集の農兵などを洋式歩兵に仕立て、また駐留するイギリス第20連隊からも調練を受け、合同演習もこなせる錬度に仕上げた。[[鎌倉事件]]では犯人捕縛に尽力したことで、駐留イギリス軍からも日本側司令官として高く評価された。[[慶応]]2年5月4日に[[鉄砲玉薬奉行]]に転出した。慶応3年10月18日に歩兵頭並、12月に進出先の大坂で歩兵頭となり備前守に昇進した。慶応4年1月3日に[[鳥羽・伏見の戦い]]で[[幕府陸軍]]を指揮して戦死した。享年41。 [[神奈川奉行所]]取締役を務め、横浜に駐屯する英仏軍より伝習を受けて地元採用の警備兵に洋式歩兵の調練を行った。[[子母沢寛]]の『[[新選組始末記]]』では、[[清河八郎]]を殺した6人の刺客の中に[[佐々木只三郎]]と共に窪田(久保田)泉太郎の名前が見える。 [[古屋佐久左衛門]]と共にイギリスの「歩兵操練・図解」を翻訳し、西洋式歩兵の編成を進めていた。[[鳥羽・伏見の戦い]]では、幕府歩兵隊の第12連隊の隊長として参陣。幕府軍の劣勢を跳ね返すべく、同じく歩兵連隊長の[[佐久間信久]]や[[会津藩]]兵、[[土方歳三]]率いる[[新選組]]の兵と共に奮戦するが重傷を負い、慶応4年(1868年)に大坂に下る船の中で死去。 葬儀は、生家の先祖[[蒲池氏]]の遠祖の[[嵯峨源氏]]の[[源融]]ゆかりの寺である[[摂津国]]の[[太融寺]]([[大阪市]][[北区 (大阪市)|北区]][[梅田]])で行われた。墓は、[[東京都]][[豊島区]][[駒込]]の[[染井霊園]]と、[[静岡市]][[清水区]]の[[万象寺]]にある。また、染井霊園の墓は墓碑に「故窪田備前守室□□ 春芳院 明治二十九年二月十七日」とあり、春芳院は鎮章の夫人。もう一つ蒲池氏之墓があり、春芳院と大姉二、童子女二の四霊の法名と没年が列記されている。万象寺の墓は同寺の中心部の高台に、父の鎮克(墓碑・克斎蒲池先生)と並んである。 なお、鎮章の嫡子は[[彰義隊]]に加わり[[上野]]で戦死。別の鎮章の子は[[窪田氏]]の名跡を継ぎ、父の鎮克が晩年に復姓した先祖の蒲池氏の名跡は鎮章の妹の婿の[[蒲池鎮厚]]が継いだ。 == 関連項目 == *[[窪田鎮勝]] *[[幕府陸軍]] *[[蒲池氏]] == 参考文献 == *[[小川恭一]]編『寛政譜以降旗本家百科事典』[[東洋書林]] 1997-1998年 {{DEFAULTSORT:くほた しけあき}} [[Category:江戸幕府旗本]] [[Category:幕府陸軍の人物]] [[Category:戊辰戦争で戦死した人物]] [[Category:蒲池氏]] [[Category:武蔵国の人物]] [[Category:1827年生]] [[Category:1868年没]]
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