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'''窪田 鎮勝'''(くぼた しげかつ、 [[文化 (元号)|文化]]5年([[1808年]]) - [[明治]]11年([[1878年]])は、[[幕末]]の[[旗本]](2000石)、[[江戸幕府]]最後の[[西国筋郡代|西国郡代]]。通称'''治部右衛門'''(じぶえもん)。戦国時代の[[柳川城]]主の[[蒲池氏]]の流れを汲み、晩年には先祖の蒲池姓から'''蒲池 鎮克'''(かまち しげかつ)と改名する。号は'''克斎'''。備前守[[窪田鎮章]]の父。[[扱心流|扱心流体術]]の達人としても知られる。 == 家系 == [[肥後国|肥後]][[熊本藩]]の[[柔術]]師範家のひとつである[[扱心流]]師範の[[江口秀種]]の子。秀種の父は[[幕臣]]の[[高橋誠種]]であり、秀種の姉の夫が[[内藤歳由|内藤吉兵衛歳由]]で、その子の[[川路聖謨]]・[[井上清直]]兄弟とは従兄弟になる。 鎮勝の父である江口秀種は[[江口鎮俊]]の婿養子となり江口氏を継ぐ。江口氏は、南筑後地方に勢力を持った[[戦国大名]]の[[蒲池鑑盛]]の嫡子[[蒲池鎮漣]]の娘の[[蒲池徳子|徳子]]が、蒲池氏が滅びた後、[[大友氏]]重臣の[[朽網氏]]の[[朽網鑑康]]の妻となり、その間に産み、蒲池の名跡を再興させた[[朽網宗壽]]の子の[[蒲池鎮明]]の4代後の蒲池鎮康にはじまる。鎮康は[[筑後国]]上妻郡冨重村江口に住み[[江口鎮康]]と名のり、鎮康の2代後が秀種になる。[[肥後柔術三道場]]の一つである江口道場は、秀種の次子の[[江口鎮誠]](鎮勝の弟)の子孫が受け継いだ。 蒲池鎮漣━蒲池徳子━朽網(蒲池)宗壽━蒲池(鶴)鎮明--(三代略)--蒲池(江口)鎮康━江口鎮俊━江口秀種━窪田鎮勝(蒲池鎮克) == 生涯 == === 窪田氏相続 === 幼少の頃に事件を起こし[[江戸]]に出、義理の伯父・内藤歳由の周旋で、[[甲斐国]][[武田氏]]家臣の後裔という[[幕臣]]の[[窪田氏]]の名跡を継ぎ、窪田鎮勝と名のる。[[日本武術|武術]]に優れ、[[旗本]]となり、[[江戸幕府|幕府]]の[[講武所]]では柔術の教授となった。<!--- 息子の事績ではないかと [[文久]]3年([[1862年]])7月21日には[[神奈川奉行]]所の常番役頭取取締に任じられた。---> [[1844年]](天保15年)3月に[[羽田奉行]]支配下の支配組頭(場所高150俵・役扶持15人扶持、手当金7両・御徒組上席)に任じられたが、前年に[[水野忠邦]]が老中を罷免された影響により、同年5月には羽田御備場の廃止が決定され、富士見宝蔵番に転任となった。 === 浪士組取締役 === [[御三卿]]の[[田安徳川家]]の奥詰を務めていた鎮勝は、幕府が「尽忠報国の士」の募集を発表し、浪士取締役に[[松平忠敏|松平主税之介]]がなった時、[[中条金之助]]と共に取締役に任命される。 この[[浪士組]]が[[清河八郎]]らによるものであり、[[京都]]に上り、そこから[[近藤勇]]や[[土方歳三]]らの[[新撰組]]が生まれているのはよく知られている。京都に上った浪士組に対して鎮勝と中条金之助は江戸に残り、期日遅れの応募者への対応を勤めた。 浪士組、新撰組との関係でいえば、鎮勝は[[佐々木只三郎]]と交流があり、新撰組で後に[[伊東甲子太郎]]の[[御陵衛士]]になる[[篠原泰之進]]は、一時期鎮勝の屋敷の居候となっていた。また「[[坂本龍馬]]を斬った男」とされる[[今井信郎]]は鎮勝の柔術の弟子で、今井はその後京都へ行き、佐々木只三郎の[[京都見廻組]]に入る。 === 大攘夷論 === [[攘夷]]論においては鎮勝は、[[津和野藩]]の[[国学]]者・[[大国隆正]]らが唱えた「大攘夷」論の立場にあった。これは単なる攘夷ではなく、まず国内統一を行い、開国し、外国との交易により[[富国強兵]]を図ってでも、諸外国と対等に対峙出来る国力をつけるべきだという立場である。 === 西国郡代 === 鎮勝は浪士取締役の後、[[神奈川奉行]]所の定番役頭取取締の任を経て[[西国筋郡代|西国郡代]]になる。 西国郡代として[[豊後国]][[日田市|日田]]に赴任することは弟の江口鎮誠が家督を継いだ実家の江口家の郷里の近くに戻ることであり、また曾祖母の先祖の[[蒲池氏]]の地である九州に戻ることであり、かねてより希望していたことだった。 日田に赴任した鎮勝は、[[蒲池氏]]の菩提寺の[[崇久寺]]に墓参し、また同寺で、山門郡塩塚から来た[[柳河藩]]の[[蒲池鎮之丞|蒲池鎮之]]と何度か面談した記録が残っている。 鎮勝は神奈川奉行所に在勤中に学んだイギリス式兵制に倣い、戊辰戦争時期には農兵の[[制勝隊]]を組織して幕府側に立つが、九州日田で孤立していては如何ともし難く、無益な出血を避け、隊を解散し、自身は江戸に逃走している。 === 晩年 === [[明治]]になると、他の旗本と同じく[[静岡市|静岡]]に移り、同地で死去した。[[享年]]70。墓は万象寺にあり、「克斎蒲池先生」と刻まれ、静岡湾に面して立っており、横には[[鳥羽・伏見の戦い]]で幕将として戦死した息子の[[窪田鎮章|鎮章]]の墓碑が並ぶ。 子孫である作家の[[広津和郎]]は、鎮克は晩年に交際のあった[[清水次郎長]]が鎮克の前で縁側に座ったために突き飛ばしたと書いている(町人は武士の家で縁側に座ってはいけないため)。 == 子孫 == 窪田鎮勝は晩年に'''蒲池鎮克'''と名のった。鎮勝は、自分が[[筑後国|筑後]][[柳川市|柳川]]の[[蒲池氏]]の子孫で、[[蒲池鑑盛]]の嫡男[[蒲池鎮漣]]の後裔ということに誇りを抱いており、いずれは蒲池に復姓しようと考えていたことによる。 実家の江口家は弟の江口鎮誠が継ぎ、2千石の旗本である窪田家の家督は嫡子の[[窪田鎮章|鎮章]]が継ぎ、先祖の蒲池姓は娘の鏡(けい)が継ぎ、神奈川奉行所組頭の志村佐一郎の子の鎮厚が婿養子となり[[蒲池鎮厚]]となる。蒲池鎮厚の娘の須美は作家の[[広津柳浪]]の妻となり、[[広津和郎]]を生んでいる。 蒲池鎮厚の子の蒲池正久には蒲池康志、蒲池繁夫、蒲池崇の3人の子がおり、蒲池崇の子の蒲池道晏の家に伝わる[http://read.jst.go.jp/public/cs_sgn_010EventAction.do?lang_act1=J&action1=event&sgn_code=5000003855&judge_act1=2 蒲池家系図]([[学習院大学]]所蔵)がある。 [[蒲池鑑盛]]の三男[[蒲池統安]]の後裔は、歴代[[柳川藩]]の家老格であり、幕末の[[蒲池鎮之丞|蒲池鎮之]]の玄孫が[[松田聖子]](蒲池法子)で、歌手として『[[ザ・トップテン]]』出演時に上記の「家系図」が展示されたことがあった。 == 参考文献 == #『徳川最後の西国代官』西澤隆治著 - ISBN 479470271X #『蒲池氏の歴史』蒲池大気・猷介著 == 関連項目 == *[[蒲池氏]] *[[窪田氏]] *[[扱心流]] == 外部リンク == *[http://www.e-obs.com/heo/heodata/n232.htm 窪田治部右衛門] {{デフォルトソート:くほた しけかつ}} [[Category:江戸幕府旗本]] [[Category:幕末幕府の人物]] [[Category:江戸幕府の郡代・代官]] [[Category:武術家]] [[Category:柔術]] [[Category:蒲池氏]] [[Category:1808年生]] [[Category:1878年没]]
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