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穴山信友
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'''穴山 信友'''(あなやま のぶとも、[[1506年]]([[永正]]3年)か<ref>生年は高野山成慶院「武田家過去帳」に記される没年から逆算。</ref> - [[1561年]][[1月1日]]([[永禄]]3年[[12月16日 (旧暦)|12月16日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[甲斐国]]武田氏の家臣で御一門衆。甲斐南部の[[河内地方]]の[[国衆]]。父は[[穴山信懸]]の子とされる[[穴山信風]]か<ref>信風は実名を「信綱」、官途名を甲斐守ともされ、[[武田氏系図]]類のうち最古とされる円光院武田家系図では信風に相当する「竜雲寺殿」を父としている。一方、円光院系図以降の系古いで信風以外の信懸子息を信友の父とする系図もあり、南葵文庫本一本武田系図では信尭を父とし、浅羽本武田系図では宗九郎信永を父としている。</ref>。母は側室の内藤氏。[[正室]]は[[武田信虎]]の次女・[[南松院殿]](下山御南殿、晴信(信玄)の姉)で、ほかに後室・側室の女性も想定されている<ref>「武田家過去帳」</ref>。子に[[穴山信君|信君]](梅雪)、[[穴山信嘉|信嘉]](信邦)、[[穴山彦九郎|彦九郎]]がいる。[[通称]]は彦六郎<ref>『武田源氏一統系図』では、[[仮名]]を「彦太郎」としている。</ref>。[[受領名]]は伊豆守<ref>なお、「伊豆守」の受領名は武田宗家をはじめ同氏の外戚でもあった祖父[[穴山信懸]]が名乗っている。</ref>。 == 信友の生涯と領国支配 == 戦国期に[[甲斐国]]では守護武田氏の家中で内訌が発生し、甲斐国内の有力国衆や駿河[[今川氏]]や相模[[後北条氏]]など対外勢力との関係が相関して乱国状態となっていた。武田宗家では[[永正]]4年([[1513年]])に守護[[武田信縄]]が死去し信縄嫡男信直([[武田信虎|信虎]])が家督を継ぐと、信虎の叔父[[油川信恵]]との間で抗争が再発する。穴山氏は当主信懸が駿河今川氏に帰属して信縄と敵対していたが、信虎期には和睦し武田宗家の外戚として良好な関係を築いていたと考えられている。 一方で、穴山家中においては武田宗家と敵対的な駿河今川氏への帰属を望む反信懸派が存在したといわれ、永正10年(1513年)に信懸は実子清五郎により暗殺されている。信友は永正3年頃に出生したと考えられているが、父の信風は信懸死後に家督を継ぎ、享禄4年(1531年)3月12日(4月12日とも)には死去している。 同年には信虎と甲斐国衆・信濃諏訪氏との抗争が活発化しており、信風の命日にあたる3月12日には西郡河原部(韮崎市)において[[今井氏]]・[[栗原氏]]・[[飯富氏]]・[[諏訪氏]]らの連合軍を信虎が撃破した河原部合戦が起きている。信風は系図類においても錯綜があり、信友・信君親子から供養を受けている形跡が見られず、河原部合戦と命日が同日であることからこの時期に穴山氏は反武田方であった可能性も考えられている(平山 2011)。 その後、信虎は甲斐統一を達成し、信友は信長懸死後に家督を継ぎ穴山氏も武田宗家に帰属した。武田宗家と今川氏の敵対は[[天文 (元号)|天文]]4年([[1535年]])に激化し、6月19日には河内領の万沢郷において両軍の合戦が起きている。翌天文5年には今川家で当主[[今川氏輝|氏輝]]死後に家督争いが発生し([[花倉の乱]])、義元が新たな当主となる。義元期に今川氏は武田氏と和睦し、同盟関係を結ぶ(甲駿同盟)。同年には婚姻同盟が開始され、今川氏が仲介し信虎嫡男の晴信([[武田信玄|信玄]])正室に京都三条家から[[三条夫人]]が迎えられ、さらに翌天文6年([[1537年]])には信虎娘が義元室として嫁いでいる。 いずれの婚姻も輿入れに際しては河内領を通過しており、穴山氏は婚姻の仲介を行っていたと考えられている。信友自身も、嫡男信君の出生時期から同時期に信虎娘の南松院殿を室に迎えていると考えられており、信友は武田家中における御一門衆として、武田宗家との関係が強化された<ref>なお、晴信が家督を相続した天文10年([[1541年]])段階の武田宗家において[[元服]]に達しているのは信友のほか晴信弟の[[武田信繁]]がいる。また、信友嫡男の信君も信玄娘を正室に迎えており、穴山氏は信玄・[[武田勝頼|勝頼]]期において御一門衆の地位を保ち続けた。</ref>。 天文10年([[1541年]])には晴信による信虎追放が行われ、信虎は河内領を経て駿河今川氏の元へ引き渡されている。信虎追放により家督を相続した晴信は[[信濃侵攻]]を開始するが、信友は信濃侵攻において天文14年([[1545年]])に信濃守護[[小笠原長時]]と連合した伊那郡[[藤沢頼親]]攻めに参加し、同年6月10日には[[小山田信有 (出羽守)]]、[[勝沼信友]]とともに頼親弟の権次郎を[[人質]]として引き取っている(『[[高白斎記]]』『[[勝山記]]』)。なお、天文18年([[1549年]])9月に信友は藤沢頼親の弟権次郎を晴信に出仕させており、藤沢氏は穴山氏を寄親としていた可能性も考えられている。 『[[甲陽軍鑑]]』において、このほか平沢(大門峠)合戦、海野平合戦、碓氷峠合戦、[[川中島の戦い]]、[[塩尻峠の戦い]]などで活躍したとされているが、『甲陽軍鑑』では信濃侵攻においては晴信弟の信繁が大将を務めたとし、信友は別働隊を率いる立場として記されている。文書・記録においては塩尻峠合戦、川中島の戦いを除いて信友の活動は確認されず、軍役における穴山衆の活動は乏しく、次代の信君期に顕著となる。 また、河内領では穴山氏の入部以前に[[南部氏]]が存在し、領域南部で甲駿国境に近い[[南部 (山梨県南部町)|南部]](南巨摩郡[[南部町 (山梨県)|南部町]])を本拠としていたが、天文16年([[1547年]])頃には河内領の伝統的中心地である南部から、領域北側の[[下山館]](穴山氏館、同郡[[身延町]])に本拠に移転し[[城下町]]を整備している<ref>なお、武田宗家でも信虎による甲斐統一後には[[甲府]]の[[躑躅ヶ崎館]]を中心とした城下町整備が行われ、甲斐国内では郡内領主の[[小山田氏]]も[[谷村館]]を中心とした新城下町整備を行っている。なお下山館の所在地は甲府と駿府の中間地点に位置し、穴山氏は武田側に帰属したものの今川氏との外交関係を維持しつづけ、戦国期国衆に特徴的な[[両属]]性と評される。</ref>。 信友は武田宗家従属後も今川氏との外交ルートを維持しており、天文16年([[1547年]])2月16日には義元と[[富士山本宮浅間大社]]に[[太刀]]を奉納し(「大宮司富士家文書」)、義元からは今川家に食客として滞在していた[[正親町三条実望]]の旧領である駿河山西稲葉荘を与えられており、武田・今川氏の婚姻を穴山氏が仲介したための給与であるとも考えられている<ref>[[堀内亨]]「戦国大名の領国形成と国人領主-武田氏と穴山氏を事例として-」『戦国大名武田氏』1991</ref>。なお、同年9月には[[南松院]]の大般若経を修補している。 武田氏は信濃侵攻・越後の長尾景虎(上杉謙信)との戦いに際して今川氏のみならず相模後北条氏を含めた[[甲相駿三国同盟]]を築いているが、三国の婚姻同盟の一環として天文21年([[1552年]])2月2日には駿府において晴信側近の[[駒井高白斎]]とともに義元息女と晴信嫡男義信との婚姻を仲介しており、同年11月27日には河内領を通じて義元息女の輿入れが行われ、義元息女は甲府の穴山氏館を経て躑躅ヶ崎館に入っている(『高白斎記』)。 信友の終見文書は永禄元年推定([[1558年]])6月2日付勝仙院宛書状で、同年末からは信君発給文書が見られることからこの頃には[[隠居]]したと見られ、[[隠居]]後は出家名の「幡龍斎」を称している。なお、永禄2年6月4日には三男の彦九郎が死去している。 信友は隠居後も今川氏との外交に携わっており、永禄3年([[1560年]])5月19日の桶狭間の戦いにおいて義元は討死し今川家では氏真に家督交代すると、信友は武田氏との同盟継続を確認している(『[[甲斐国志]]』)。同年12月16日に死去、享年55<ref>「武田家過去帳」。</ref>。12月23日には氏真から嫡男信君に弔問状が送られている(「楓軒文書纂」)。 墓所は[[南部町 (山梨県)|南部町]]南部の[[円蔵院 (山梨県南部町)|円蔵院]]で、肖像画(「絹本著色穴山信友画像」)も所蔵されている。法名は円蔵院殿剣江義鉄居士。 == 信友期の領域支配と下山館 == 信友期には河内領の[[領域支配]]に関して40通の発給文書が残されており、穴山氏の河内支配に関しては信友期にはじめて文書が確認され、次代の信君期には点数が増加する。初見文書は天文3年(1534年)1月吉日に信友は福士郷の佐野将監に対して官途状を与え、地域の[[土豪]]を掌握していることが確認される(「佐野家文書」)。同年3月にも[[棟別役|棟別諸役]]の免許を行っている。 また、戦国期甲斐国では[[金山]]経営が行われ、武田宗家でも[[黒川金山]]などの金山衆を掌握していることが確認されるが、信友期の河内領では北部早川流域の黒桂金山や保金山などの諸金山が存在し、代官の派遣や奉公を命じた文書が確認されており、金山のみならず[[木材]]の産出も行われている。 なお、戦後の戦国大名論においては地域国衆の存在が注目され、[[矢田俊文 (歴史学者)|矢田俊文]]は穴山氏を守護武田氏から一定の自立的権力をもった戦国領主であったと評している<ref>矢田「戦国期甲斐国の権力構造」『日本史研究』201号、1979年</ref>。これに対して[[平山優 (歴史学者)|平山優]]は、穴山氏の領域支配文書の初出が武田宗家への帰属を強めた信友期からであることや、領域支配に関する文書があくまで宗家の支配秩序から逸脱していない点を指摘している(平山 2011)。 == 人物 == 晴信期の武田氏では[[京都]]から[[公家]]を招き、当主晴信や晴信弟の[[武田信廉|信廉]]などが学芸に親しみ、和歌会や連歌会が催された。晴信岳父で河内領と接する西郡国衆の[[大井信達]]や晴信傅役の[[板垣信方]]、晴信側近の駒井高白斎らが文人としても知られるが、穴山氏では信友が文芸にも親しみ、天文13年に[[冷泉為和]]が甲府を訪れた際には[[歌会]]の世話役を務めている(『[[為和卿集]]』)。 また、信友の人物的側面として[[酒]]好きが知られ、天文18年8月の信濃村上氏との和睦交渉においては信友の泥酔により交渉が不調に終わったといわれ、また冷泉為和との歌会においても泥酔し為和に不快感を与えたとする記録が見られる。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == * [[須藤茂樹]]「穴山信友の文書と河内領支配」『國學院雑誌』91巻5号、1990年 * [[平山優 (歴史学者)|平山優]]「穴山信友」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年 * [[秋山敬]]「穴山信懸」『武田氏研究』39号、2009 * 平山優『[[中世武士選書]]5 穴山武田氏』 (戎光祥出版、2011年) {{DEFAULTSORT:あなやま のふとも}} [[Category:穴山氏|のふとも]] [[Category:戦国武将]] [[Category:1506年生]] [[Category:1561年没]]
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