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稲葉正成
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 稲葉 正成 | 画像 = Inaba Masanari.JPG | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 稲葉正成像([[神奈川県立歴史博物館]]所蔵) | 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期 | 生誕 = [[元亀]]2年([[1571年]]) | 死没 = [[寛永]]5年[[9月17日 (旧暦)|9月17日]]([[1628年]][[10月14日]]) | 改名 = | 別名 = | 戒名 = 現龍院殿輝宗道範大居士 | 墓所 = 東叡山[[寛永寺]]現龍院 | 官位 = [[従五位|従五位下]]・[[佐渡国|佐渡守]]、[[内匠寮|内匠頭]] | 主君 = [[豊臣秀吉]]→[[小早川秀秋]]→[[徳川家康]]<br />→[[松平忠昌]]→[[徳川秀忠]]→[[徳川家光|家光]] | 藩 = [[美濃国|美濃]][[十七条藩]]主→[[越後国|越後]][[糸魚川藩]]主<br />→[[下野国|下野]][[真岡藩]]主 | 氏族 = [[林氏]]→[[稲葉氏]] | 父母 = 父:[[林政秀]]、母:安藤某の娘<br />義父:''[[稲葉重通]]'' | 兄弟 = | 妻 = 正室:'''稲葉重通の娘'''<br />継室:'''福'''([[春日局]]。稲葉重通の養女・[[斎藤利三]]の娘)<br />継々室:'''[[山内康豊]]の娘''' | 子 = [[稲葉正次|正次]]、'''[[稲葉正勝|正勝]]'''、[[稲葉正定|正定]]、[[稲葉正房|正房]]、[[稲葉正利|正利]]、[[稲葉正吉|正吉]]<br>娘([[堀田正吉]]室)、娘([[朽木稙綱 (土浦藩主)|朽木稙綱]]室)<br />養子:''[[稲葉政貞|政貞]]'' | 特記事項 = }} '''稲葉 正成'''(いなば まさなり)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]にかけての[[武将]]、[[大名]]。[[美濃国|美濃]][[十七条藩]]主、[[下野国|下野]][[真岡藩]]初代藩主。正成系稲葉家宗家初代。 [[林政秀]]の次男。母は安藤某の娘。正室は[[稲葉重通]]の娘、継室は稲葉重通の養女・福([[春日局]]、[[斎藤利三]]の娘)、継々室は[[山内康豊]]の娘。子は稲葉重通の娘との間に[[稲葉正次|正次]](長男)、娘([[堀田正吉]]正室)。春日局との間に[[稲葉正勝|正勝]](次男)、[[稲葉正定|正定]](3男)、[[稲葉正利|正利]](5男)。山内康豊の娘との間に[[稲葉正吉|正吉]](10男)、娘([[朽木稙綱 (土浦藩主)|朽木稙綱]]正室)。養子は[[稲葉政貞|政貞]]。 ==生涯== [[元亀]]2年([[1571年]])、林政秀の次男として誕生。 稲葉重通の婿養子となるが、重通の娘に先立たれたために代わりに重通の姪である福(後の春日局)を養女として正成に嫁がせた。正成は義父と共に[[豊臣秀吉]]に仕えたが、秀吉の命を受けて[[小早川氏]]に入った[[小早川秀秋]]の家臣([[家老]]・5万石)となり、これ補佐した。[[四国攻め]]・[[小田原征伐]]で活躍し、[[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]](朝鮮出兵)では秀秋に従軍した。[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では[[平岡頼勝]]と共に[[徳川家康]]と内通し、秀秋を東軍に寝返らせる事に成功した。しかし、戦後に秀秋と対立し美濃国に蟄居する。 慶長7年([[1602年]])、秀秋が死去して小早川氏が断絶すると浪人となる。慶長9年([[1604年]])7月、[[京都所司代]][[板倉勝重]]によって家康の嫡孫・竹千代(後の[[徳川家光]])の[[乳母]]の募集が行われ、これに妻の福が志願して採用されると、福と離縁した。その経緯については諸説あるが、正成が愛人を作ったと知った福が激怒して家を去ったとする説、勝手に乳母に応募した事に激怒した正成が離縁した説、乳母に採用された事を知って「女房の御蔭で出世した」といわれるのを恥じて離縁状を出した説、福に[[江戸幕府]]から直接乳母に召されるという話を正成が受けて、福も乳母として幕府に忠勤すれば夫の仕官や立身出世に繋がるのではと考え、正成が美濃十七条藩主に取り立てられたのを見届けてから離縁したという説、更にこれらの出来事は全て口実で正成を家康に仕官させるために正成と福が示し合わせて離縁したとする説などがある。なお、稲葉家は本来の嫡男であった正次ではなく、福の産んだ子であるという理由で正勝が継いでおり、少なくとも離縁後も福と稲葉家のつながりは大きいのは事実である。 後に家康に召し出され、以後は[[徳川氏]]の家臣として仕える。慶長12年([[1607年]])には旧領の美濃国内に1万石の領地を与えられ[[大名]]に列した(十七条藩)後、家康の孫にあたる[[松平忠昌]]の家老となる。[[大坂の陣#大坂夏の陣|大坂夏の陣]]では忠昌を補佐して戦功を挙げて、[[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])に越後糸魚川2万石の所領を与えられ、忠昌の[[御附家老|附家老]]となった。[[寛永]]元年([[1624年]])、忠昌の[[越前国|越前]][[福井藩]]相続(移動)に従わず、勝手に出奔浪人し、幕府により子の正勝の領内で[[蟄居]]を命ぜられる。(ただし四男の正房、その子孫は越前家に仕えた。)寛永4年([[1627年]])、独立した大名として再び召し出され下野真岡藩2万石に封じられる。 寛永5年([[1628年]])、死去。正勝の子孫は[[山城国|山城]][[淀藩]]主として、[[外孫]]の[[堀田正盛]]の子孫は[[下総国|下総]][[佐倉藩]]主として[[明治維新]]まで続いた。 {{十七条藩主|1607年 - 1618年}} {{真岡藩主|稲葉氏|初代|1627年 - 1628年}} {{DEFAULTSORT:いなは まさなり}} [[Category:稲葉氏|まさなり]] [[Category:林氏|まさなり]] [[category:戦国武将]] [[Category:御附家老]] [[Category:譜代大名]] [[Category:真岡藩主]] [[Category:美濃国の藩主]] [[Category:1571年生]] [[Category:1628年没]]
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