稲富祐直のソースを表示
←
稲富祐直
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
[[ファイル:Hiyawajyu01.jpg|thumb|稲富流砲術秘伝書/大阪城天守閣所蔵]] '''稲富 祐直'''(いなどめ すけなお、[[天文 (元号)|天文]]21年([[1552年]]) - [[慶長]]16年[[2月6日 (旧暦)|2月6日]]([[1611年]][[3月20日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]初期にかけての[[武将]]、[[砲術]]家。[[稲富流砲術]]の開祖。[[号 (称号)|号]]は'''一夢'''、'''理斎'''。別名に直家。伊賀守。[[稲富直秀]]の子。弟に[[稲富直重]]。[[弓木城]]主。 祖父・[[稲富祐秀]]から砲術を学び、それを発展させて稲富流砲術を創始したといわれている。合戦の際に[[具足]]を2枚重ねて着ていたため'''二領具足'''の異名を持つ([[長宗我部氏]]の[[一領具足]]とは関係が無い)。 はじめ[[一色氏]]に仕え、主家が滅ぶと[[細川忠興]]に仕えた。慶長2年([[1597年]])[[文禄・慶長の役#慶長の役|慶長の役]]では、[[蔚山倭城]]に籠もって活躍したという。慶長5年([[1600年]])[[関ヶ原の戦い]]においては、[[細川氏]]の[[大阪|大坂]]屋敷に居て、忠興の妻である[[細川ガラシャ]]の警護をしていたが、ガラシャが[[石田三成]]の人質作戦に巻き込まれて死去すると、自身は砲術の弟子に助けられて屋敷から逃亡したという。そのため戦後に忠興から恨まれて殺されそうになったが、[[徳川家康]]にその砲術の腕と知識を惜しまれて助命された。 その後は、[[松平忠吉]]や[[徳川義直]]に仕えたという。後に剃髪して一夢、理斎と号した。[[井伊直政]]や[[浅野幸長]]なども弟子にした。しかし[[加藤清正]]からは売名家として非難されている。 慶長16年(1611年)に死去。子がいなかったために、実姉の子[[稲富秀明]]を養嗣子としたが、[[正保]]年間に死去したため、弟の[[稲富秀隆]]が跡を継いだ。 ==小説== *[[松本清張]]『火の縄』[[講談社文庫]] *[[中村彰彦]]『ガラシャを棄てて』([[徳間文庫]]・『敵は微塵弾正』収録) *[[松本清張]]『逃亡者』([[角川文庫]]・『軍師の境遇』収録) == 関連記事 == *[[火縄銃]] {{デフォルトソート:いなとめ すけなお}} [[Category:戦国武将|いなとめ すけなお]] [[Category:砲術家|いなとめ すけなお]] [[Category:武術家|いなとめ すけなお]] [[Category:1552年生|いなとめ すけなお]] [[Category:1611年没|いなとめ すけなお]]
稲富祐直
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報