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'''程 秉'''(てい へい、生没年不詳)は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の人物。[[呉 (三国)|呉]]の学者・政治家。[[字]]は'''徳枢'''。[[豫州]][[汝南]]郡南頓県([[河南省]][[項城市]])の人。 [[鄭玄]]に師事して学問を学び、乱を逃れて[[交州]]の[[士燮 (交阯太守)|士燮]]の下に身を寄せた。[[交趾]]には劉煕がいたため、ここで学識を深め[[五経]]に通じるようになった。また士燮から長史に任ぜられた。やがて、学者としての評判を聞いた呉の[[孫権]]から招聘されてその幕僚となり、太子[[孫登]]の教育係([[太子太傅]])を任された。[[225年]]、孫登の婚礼のときには[[太常]]となり、孫登の妃を迎える役を務めた。孫権・孫登からも丁重に遇された。 『[[論語]]弼』などの著作を3万字残した。[[陳寿]]は「[[厳シュン|厳畯]]・[[カン沢|闞沢]]と並んで一代の学者であった」と評している。 なお『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』に伝のある人物の中で、自分の伝以外に記述のない唯一の人物だという(坂口和澄『正史三国志群雄銘銘伝』)。 小説『[[三国志演義]]』では、孫権が呉の国主となって集めた賢人の一人として登場する。[[赤壁の戦い]]の時は[[曹操]]への降伏を主張し、[[諸葛亮]]と論戦するがあっけなく敗れる。その後、[[劉備]]が[[関羽]]の仇討ちのため呉に攻め込んできた時は、孫権の使いとして派遣され、[[張飛]]を暗殺した[[張達]]らの身柄を劉備に差し出すが、劉備の怒りを収めることができず申し入れを一蹴され、命からがら呉に逃げ帰っている。 {{DEFAULTSORT:てい へい}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:呉の人物]] [[Category:中国の儒学者]] [[Category:1世紀から5世紀の学者]] [[Category:程氏|へい]] [[Category:周口出身の人物]]
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