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秋水
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{{ Infobox 航空機 | 名称=三菱 J8M(キ200) 秋水 | 画像=Image:J8M Shusui Sword Stroke Komet J8M-10.jpg | キャプション=駐機中の秋水 | 用途=[[戦闘機]] | 分類=局地戦闘機 | 設計者= | 製造者=三菱航空機(現[[三菱重工業]]) | 運用者= {{JPN1889}}([[大日本帝国海軍|日本海軍]]・[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]) | 運用者 more= | 初飛行年月日=[[1945年]][[7月7日]] | 生産数=5機弱 | 生産開始年月日= | 運用開始年月日= | 退役年月日= | 運用状況=試作のみ | ユニットコスト= }} '''秋水'''(しゅうすい)は、[[太平洋戦争]]中に日本陸軍と日本海軍が共同で開発を進めた[[ロケットエンジン]]の[[局地戦闘機]]である。[[ドイツ空軍]]の[[メッサーシュミット Me163]]の資料を基に設計を始めたが、試作機で終わった。 == 諸元 == <!--秋水 *用途: 局地戦闘機 *乗員: 1 名 *全長: 5.95 m *全幅: 9.50 m *翼面積: 17.73 m² *エンジン: *出力: *最大速度: 800 km/h *上昇限度: 12,000 m *上昇能力: 10,000 m まで約 3 分 *航続時間: 約 5 分 30 秒--><!--上昇能力からすると,エンジン運転時間では?その後に滑空の時間があるはず--> <!--*武装: 30mm機関砲×2 *生産数: 5 機(完成2機)--> <table class="wikitable"> <tr><th>制式名称</th><th>秋水</th></tr> <tr><th>機体略号</th><td> 海軍:J8M<br /> 陸軍:キ200</td></tr> <tr><th>全幅</th><td> 9.5m</td></tr> <tr><th>全長</th><td> 5.95m</td></tr> <tr><th>全高</th><td> 2.7m</td></tr> <!--<tr><th>自重</th><td> </td></tr>--> <!--<tr><th>正規全備重量</th><td> </td></tr>--> <tr><th>発動機</th><td> 特呂二号</td></tr> <tr><th>最高速度</th><td> 800km/h</td></tr> <tr><th>上昇力</th><td> 10,000mまで約3分</td></tr> <!--<tr><th>降下制限速度</th><td> </td></tr>--> <tr><th>航続距離</th><td> 約5分30秒</td></tr> <tr><th>武装</th><td> [[ホ155-II]]30mm機関砲2挺</td></tr> <!--<tr><th>爆装</th><td> </td></tr>--> </table> 正式名称は'''試製秋水'''。海軍の[[略符号]]は'''J8M'''、陸軍の[[代用名称|キ番号]]は'''キ200'''である。「十九試局地戦闘機」と称されることもあるが、[[1943年]](昭和18年)の兵器名称付与標準の改訂に伴い、[[1944年]](昭和19年)には年式を冠称した機体開発は行われなくなっていた。計画初期には「Me163」の名で呼ばれていた。 '''秋水'''の名称は、[[岡野勝敏]]海軍少尉の『秋水(利剣)三尺露を払う』という短歌に由来する。1944年12月、飛行試験成功後の搭乗員・開発者交えた宴会で[[横須賀海軍航空隊]]百里派遣隊から短歌が提出され、満場一致で「Me163」から変更された<ref>角田『サムライ戦記』262-263頁</ref>。この名称は陸軍、海軍の戦闘機の命名規則には沿っていない([[軍用機の命名規則]]を参照)。 == 歴史 == === 開発まで === [[第二次世界大戦]]中、[[日本]]と[[ドイツ]]の技術交流は、[[独ソ戦]]によって[[シベリア鉄道]]ルートが閉ざされ、英米との開戦により水上船舶ルートも困難になってしまった。両国の人的交流、物的交流は、[[インド洋]]を経由した潜水艦輸送に限定されるようになった([[遣独潜水艦作戦]])。日本から技術供与できるものは少なく、アジア各地の天然資源である生ゴム、錫、タングステンなどの戦略物資をドイツに輸送する見返りとして、ドイツは[[ジェットエンジン]]、[[ロケットエンジン]]、[[原子爆弾]]などの新兵器の技術情報を日本に供与した。 [[1944年]]4月、日本海軍の[[伊号第二九潜水艦]]は ロケット戦闘機 [[Me163|Me163B]]と ジェット戦闘機[[メッサーシュミット Me262]]の資料を積んでドイツ占領下フランス・[[ロリアン]]を出発し、7月14日、日本占領下の[[シンガポール]]に到着したものの、シンガポール出港後バシー海峡で[[アメリカ海軍]]の[[ガトー級潜水艦]]「[[ソーフィッシュ (潜水艦)|ソーフィッシュ]]」(USS Sawfish, SS-276) に撃沈されてしまった。 しかし、伊29潜に便乗した[[巌谷英一]]海軍[[海軍中佐|技術中佐]]がシンガポールから[[零式輸送機]]に乗り換え、空路で日本へ向かっていたために「噴射機関」資料の完全な損失は避けられた。だが、もたらされた資料は本機のコピー元である Me163B の機体外形3面図と、ロケット燃料の成分表と取扱説明書、ロケット燃料噴射弁の試験速報、巌谷中佐の実況見分調書のみであった。そのため、資料不足から設計そのものを完全にコピーすることはできなかった。 第二次世界大戦末期、高度1万メートル以上を飛来する[[アメリカ軍]]のB-29の[[邀撃機|邀撃]]に、高々度用の[[過給機]]を装備していない、在来の日本軍[[レシプロエンジン|レシプロ]]戦闘機では高度を維持することすら困難で、邀撃しても1撃から2撃を行うのが限度であった。レシプロ戦闘機と異なり、[[ロケットエンジン|ロケット]]戦闘機は酸化剤と燃料を全て内部に搭載し、酸素を外気に求めなかった。したがって高高度の希薄な大気に影響されないエンジン特性を持つ。そこで、邀撃機としてB-29の飛行高度まで加速度的に達し、1撃から2撃をかけるだけならば、数分の飛行時間しかないロケット戦闘機でも「局地的な防衛には十分に有効」との判断が下され、陸軍、海軍、民間の三者の共同によって開発が急がれた。 手に入ったMe163の設計資料が不十分であるため、日本の技術で補完する必要があった。Me163B の機首部に見られる発電用プロペラを廃し、無線装置とその蓄電池搭載のために機首部は延長されており、内部の桁構造や[[キャノピー]]なども日本独自の設計となる。主翼も木製になり左右が10 cm程度ずつ延長されている。機体の特徴である無尾翼はすでに[[東京大学|東京帝国大学]][[航空研究所]]で[[木村秀政]]研究員が同様の機体の設計を手がけており、またロケットエンジンの研究は昭和15年より[[陸軍航空技術研究所]]で開始されていた。この陸軍のロケット研究は後に三菱重工によって[[誘導弾]]イ号一型甲、乙の液体ロケットエンジン「特呂一号」に発展している。さらに巌谷資料が届く以前より三菱重工長崎兵器製作所においては[[酸素魚雷]]に次ぐ魚雷の駆動力として[[回天|回天二型]]向けに高濃度[[過酸化水素]]と[[ヒドラジン|水加ヒドラジン]]の化学反応による駆動の研究が完成段階にあり、同じ化学反応を利用したロケットエンジンの研究も進められていた。 === 開発 === [[ファイル:Tokuro 2 (KR-10).JPG|thumb|240px|right|秋水に搭載された、特呂二号。外見は[[Me163]]等に搭載される、[[HWK 109-509]]のエンジンに酷似している。後ろには切り離し式の車輪も写真も見える。]] 秋水が開発されるにあたり、セクショナリズムの弊害が目立っていた日本軍で陸海軍共同の製作体制を構えたことは画期的な事であった。官民合同研究会席上、機体の製作を海軍主導で、国産ロケットエンジンの開発を陸軍が主導で行うこととなった。これは陸軍で「[[特呂二号原動機|特呂二号]]」、海軍で「KR-10」と呼称された。しかしここに来て三菱は[[無尾翼機]]の開発経験がなく、前記の通り外見図も簡単な3面図のみだったため翼形を決定できなかった。そのため三菱は依頼当初「開発は不可能である」と返答した。しかし[[海軍航空技術廠]]が翼形の割り出しや基本的な空力データの算出を急きょ行った。苦肉の策ではあったが量産工場と研究機関が連携を取れた数少ない例である。 機体の設計は基本となるデータが入手できたため経験で開発を進められた。しかし[[ロケットエンジン]]という未知のエンジンの開発に[[レシプロエンジン]]でつちかった技術はほとんど役に立たなかった。 当初の予定では、エンジンは機体の完成と同時期に 2 基が完成しているはずであったが、12月初めの機体完成の時点で試作機の製図作業が済んでいたにもかかわらず、飛行の可能な完成機については具体的な目処すら立ってはいなかった。さらに同年12月には東海地区を[[東南海地震]]が襲い、アメリカ軍のB-29による爆撃も開始された。地震によりエンジン開発を行っていた[[三菱重工業|三菱航空機]][[名古屋発動機研究所]]が壊滅し、研究員は資料をもって[[横須賀市]]追浜の空技廠に移動して作業を続けることとなった。 秋水に搭載されるエンジン「特呂二号」は Me163 に搭載されていた[[ヴァルター機関]]「[[HWK 109-509|HKW-109/509]]A型」のコピーとなるはずであったが、機体と同じようにエンジンの資料も簡単なものだった。そのため手持ちの資料を参考に自主開発するよりなかった。[[燃料]]は燃料概念図を参考にし、濃度 80 % の[[過酸化水素]]を酸化剤に、<nowiki>[</nowiki>[[メタノール]] 57 % / [[ヒドラジン|水加ヒドラジン]] 37 % / [[水]] 13 %] の混合液を化学反応させるというシステムである。日本は前者を甲液、後者を乙液と呼んだ(ドイツはT液とC液)。また安定剤兼反応促進剤として甲液には[[8-キノリノール|オキシキノリン]]と[[ピロリン酸]][[ナトリウム|ソーダ]]を、乙液に[[銅]][[シアン化カリウム]]が加えられた。 これらの燃料は人体を溶解してしまう劇薬で、特に甲液の高濃度過酸化水素は無色透明のうえ異物混入時の爆発の危険性と有機物に対する強い腐食性があり、秋水の整備は長袖、長ズボンで行わなければならなかった。かなり簡単に言えば、甲液の供給する酸素により燃料である乙液を燃焼させるシステムであるが、このロケットの構造はとても複雑で、甲乙の液を単に反応させれば良いというものではなく、酸化剤(甲)と燃料(乙)の配合をはじめ、デリケートなセッティングが必要だった。基本的な構造を理解していても燃料噴出弁の調整をミリ単位でも間違えば出力が上がらなかった。なお、乙液の配合については、[[理化学研究所]]の女性化学者[[加藤セチ]]博士のアドバイスを参考にしており、第二次世界大戦中に日本の航空機開発に女性が参加した希有な事例となっている。 === 試験飛行 === [[ファイル:Mitsubishi J8M Shusui Sword Stroke Komet J8M-22.jpg|thumb|250px|]] 全木製の軽滑空機MXY8「[[秋草]]」が[[1944年]]12月26日に、海軍三一二航空隊の犬塚大尉によって滑空飛行テストを行った。当初は着陸に成功するだけで「万歳」の声があがる有様だったが<ref>角田『サムライ戦記』261頁</ref>、[[グライダー|滑空機]]としてのテストは順調に回を重ね、操舵感覚は良好で機体設計そのものに問題なしとの評価を受けた。実験後の宴会では、国民の士気を高めるために重滑空機の塗装をオレンジではなく真紅にすることが提案され、実現した<ref>角田『サムライ戦記』263頁</ref>。[[1945年]]1月8日にはエンジンと武装が外された状態の実機と同じ状態の「秋水重滑空機」が、やはり犬塚大尉の手によって試飛行を行った<ref>角田『サムライ戦記』264頁</ref>。 312空司令[[柴田武雄]]司令が新興宗教(お光教)に傾倒していたことも開発に影響を与えた。1945年4月11日空技廠会議で柴田は「神のお告げにより秋水の初飛行を4月22日横須賀地区で行う」と発言し当時技術者を茫然とさせる<ref>松岡久光『日本初のロケット戦闘機「秋水」―液体ロケットエンジン機の誕生』三樹書房156頁</ref>。その後もお光教のお告げとして柴田が秋水試験飛行を厚木基地から追浜基地に変更させた際は、三菱の技師らから狭いので危険と指摘があったが、狭いのなら機体を軽くせよと命じる。神のお告げで1.5トンの機体が500キロにさせられた<ref>渡辺洋二『異端の空―太平洋戦争日本軍用機秘録』文春文庫p56-58、62</ref>。また、突然燃料を少量にし、エンジンの持続時間を2分でいいと決め、エンジン完成を待ち7分持続できるまで待つべきとする技師らの意見は黙殺された<ref>丸『海軍戦闘機列伝』光人社302頁</ref>。 設計資料を入手してから約1年の[[1945年]](昭和20年)7月7日、[[横須賀海軍航空隊]]追浜飛行場で秋水は試飛行を迎えた。 陸海軍共同開発機とはいえ「メーカーとのロケットエンジン共同平行開発」「実験・実施部隊創設」を進めていた海軍が陸軍に先んじ試飛行をおこなうこととなった。当初は4月12日に強度試験機「零号機」による試飛行も検討されたがロケットエンジンが間に合わず、幾多の試行錯誤を経て3分間の全力運転が達成された後の試飛行となった。[[テストパイロット]]は犬塚豊彦大尉([[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]七十期)。神奈川県足柄山中の「空技廠山北実験場」から横須賀市追浜の夏島に掘られた横穴式格納庫内に運ばれたKR-10(特呂二号)は、実施部隊である三一二空整備分隊長廣瀬行二大尉([[海軍機関学校]]五十二期)と、特呂二号に関しての特別講義を受けた上等下士官たちによって秋水に組み込み整備された。 試飛行当日、全面オレンジ色の試作機カラーで垂直尾翼に白い縁取りの日の丸を描いた秋水は飛行場に引き出された。ここで、整備分隊士によって車輪投下実験が入念に行われ確実に作動することが確認された。午後1時には上級将校も列席<ref name="サムライ287">角田『サムライ戦記』287頁「静かなる檜舞台」</ref>。だが午後2時に予定された発進は<ref name="サムライ287"/>エンジンがかからず再整備のために遅れた。翌日延期も検討されたが、犬塚の決心は固く、試運転は続行された<ref name="サムライ289">角田『サムライ戦記』289頁「死への急上昇」</ref>。 午後4時55分、滑走を開始。翼を持ったまま10メートルほど秋水と一緒に走って廣瀬大尉は手を離した。滑走距離220メートルで離陸、成功を確認した三一二空山下政雄飛行長が合図の白旗をあげた。高度10メートルで車輪投下、しかし連動しているはずの尾輪が上がらず(収納されたという証言もある<ref name="サムライ289"/>)、機体は角度45度で急上昇に移った。「試飛行成功か」と思われた瞬間、高度350mほどのところで突然尾部から噴出する炎が黒煙となった<ref name="サムライ289"/>。異音とともにエンジンが停止。エンジン停止後余力で150メートルほど上昇した。廣瀬大尉の指示により東京湾には[[本牧]]あたりまで救助艇が用意されていたものの、不時着水せずに右旋回、滑走路への帰投コースをとり始めた<ref name="サムライ289"/>。 エンジン再起動が二度試みられるも果たせず、甲液の非常投棄が始まった。しかし非常投棄はなかなか進まず、第三旋回時点の高度は充分に高かったが、その後の沈下速度がはやく高度を失った<ref>角田『サムライ戦記』290頁</ref>。残留甲液による爆発を懸念したのか、犬塚大尉は沢山の見学者が見守る滑走路を避け脇の埋め立て地への不時着を目指した。それが第四旋回の遅れとなり失速気味となりながら滑走路手前の施設部の建物を越そうと機首上げ、右翼端が監視塔に接触。そのまま追浜飛行場に隣接していた鷹取川で反跳し、飛行場西端に不時着大破した。 残留甲液によるもうもうたる白煙が発生したが、消防車による放水と同時に整備分隊士が犬塚大尉を操縦席から救出した。意識のあった犬塚大尉はすぐさま鉈切山の防空壕へ運ばれたが、頭蓋底骨折のため翌未明、殉職した<ref>角田『サムライ戦記』291頁</ref>。 事故の原因は燃料タンクの構造上の問題であった。秋水は発進後仰角を大きく取って急上昇する。しかし燃料の取り出し口はタンクの前方に取り付けてあった。試験当日は燃料をタンクの1/3しか積まなかったため、上昇する際に燃料がタンクから吸い出せなくなり、エンジンがストールを起こしたと結論付けられた(本機原型のMe163も、飛行中燃料供給に支障が出ることがあった)。またエンジン不調のため長時間試運転が続けられ、燃料が不足していた可能性も搭乗員達の間で指摘されていた<ref>角田『サムライ戦記』292頁</ref>。ただちに試作二号機の製作が始められたが、肝心のエンジンが試験中に爆発して失われて頓挫。開発陣の中には「秋水は、昭和二十一年になっても実験段階どまりだったろう」と評するものもいる。 生産2号機が陸軍の'''キ200'''として、千葉県[[柏飛行場]]の飛行第七〇戦隊へ運搬され、[[荒蒔義次]]少佐はロケットエンジンを使う前にまず重滑空機で飛行特性をつかむ試験を行っていた<ref>渡辺洋二『未知の剣』文春文庫433-436頁</ref>。ロケットエンジンを搭載すれば飛行可能となる状態が維持されたまま終戦を迎えた。秋水の開発は終戦の日まで続けられたが、ふたたび動力飛行を行うことは無かった。 === 運用計画 === [[ファイル:Mitsubishi J8M Shusui Sword Stroke Komet J8M-17.jpg|thumb|250px|]] 秋水は試作機製造と平行して量産型の図面化も進行していた。秋水量産計画は安来工場などもあわせ日立製作所中心の5工場で製造し東京周辺の飛行場に1945年3月に155 機、1945年9月に1,300 機、[[1946年]]3月に3,600 機を実戦配備するという無茶な計画で、当時の日本の工業力では夢の話だった。仮に量産化が行われ実戦配備されても、航続距離が短い秋水は自機が発進した飛行場上空しか防衛できない上、Me163B がそうであったように滑空中を敵戦闘機に撃墜されたと予想される。航続距離の短さから、迎撃は敵機が行動範囲内に進入した後の待ち伏せ的な戦術が主流となるが、この方法は[[レーダーサイト|レーダー施設]]などの索敵施設との連携が鍵であり、当時の日本にはとても望めるものではなかった。実際に実戦配備が行われたとしても秋水の出番は皆無、もしくは事故続出で戦闘以上の被害を出していたと想像される。さらに燃料というべき甲液、乙液は一回の飛行で2 トンあまりを消費する上、生産設備はB-29の本土空襲により必要量を満たすだけの生産量を確保できなくなっていた。たとえ、新規に工場を作ったとしても空襲により早晩破壊されるのは明白だった。 秋水は特攻兵器として開発されたものではない。しかし、312空では、秋水の速度が速すぎるために機銃の照準が困難と分かり、[[柴田武雄]]司令のもと[[山下政雄]]飛行長の提案でB29編隊中で爆弾自爆する特攻戦法が採用された<ref>渡辺洋二『異端の空―太平洋戦争日本軍用機秘録』文春文庫p89-92</ref>。多数の士官らの会議において秋水の機首に3号爆弾2発搭載でまとまっていたが、数日後の会議で山下飛行長から「秋水の機首に600キロ爆弾を搭載して敵編隊の中でボタンを押して自爆する戦法をとる」と特攻の決定が申し渡された<ref>高田幸雄『神風になりそこなった男達 ロケットファイター秋水隊』国書刊行会p190</ref>。1945年6月に土浦航空隊で14期甲飛を中心に800名の秋水要員(秋田分遣隊)編成。15日[[渡邊孝次郎]]少佐が秋水による特攻要員訓練であることを明かす。312空、362空、322空が秋水の特攻部隊として予定されていた<ref>松岡久光『日本初のロケット戦闘機「秋水」―液体ロケットエンジン機の誕生』三樹書房p162-163</ref>。 林安仁陸軍中尉は「上昇時と下降時に一撃づつかけるだけですが、空戦をやってみたかった」という。[[荒蒔義次]]陸軍少佐は「こんな(空戦時間が)4分じゃつまらない」「秋水だけは怖かった」「飛行を開始したら特兵隊のパイロットが次々死んでいく予感があった」という。有滝孝之助陸軍大尉は「伝習教育が終わったら[[キ201 (航空機)|火竜]]でやりましょう」と話していた<ref>渡辺洋二『未知の剣』文春文庫439頁</ref>。 == 関連部隊 == '''装備予定の部隊''' *飛行第七〇戦隊 - 秋水の実験部隊も兼ねた陸軍の部隊。 *[[第三一二海軍航空隊]] - 秋水の実験部隊も兼ねた海軍の部隊。 :秋水の実戦配備に向けて編成されたのが第三一二海軍航空隊である。正式な開隊は昭和20年2月5日付。[[柴田武雄]]大佐を司令とし、本隊を横須賀空、訓練基地を霞ヶ浦空に置いた<ref>角田『サムライ戦記』270頁</ref>。だが要員の育成は正式開隊半年前の昭和19年8月10日より始まっていた。[[元山海軍航空隊#二代元山海軍航空隊|大村海軍航空隊元山分遣隊]]から16人を選抜し「Me163」に習熟するよう命令する<ref>角田『サムライ戦記』238-239頁</ref>。9月、元山から[[百里飛行場]]と横須賀に移動し、空技廠と協力して各種実験に参加する<ref>角田『サムライ戦記』240-249頁「海軍初のモルモット」</ref>。10月1日、搭乗員16名、整備員25名、九三式中練で「横須賀海軍航空隊百里原派遣隊」を編成し、[[厚木海軍飛行場|厚木飛行場]]を原隊として横須賀で訓練を開始した<ref>角田『サムライ戦記』253頁</ref>。11月には滑空機(ソアラー。光62型)、零戦、天山艦上攻撃機が増配備されるが<ref>角田『サムライ戦記』255頁</ref>、秋水の製作は遅れた。11月中旬、特攻機「[[桜花 (航空機)|桜花]]」の実験飛行と訓練により、秋水の訓練は一時中断された<ref>角田『サムライ戦記』259頁</ref>。[[柴田武雄]]司令が新興宗教にはまっており秋水の実験においても御神託で内容を決定するなど技術者の意見より優先された<ref>丸『海軍戦闘機列伝』光人社302頁、松岡久光『日本初のロケット戦闘機「秋水」―液体ロケットエンジン機の誕生』三樹書房156頁</ref>。犬塚の事故も御神託による狭い飛行場の選定、少ない燃料量、飛行時間などの決定が原因となる<ref>渡辺洋二『異端の空―太平洋戦争日本軍用機秘録』文春文庫p56-62、丸『海軍戦闘機列伝』光人社302頁</ref>。初飛行の失敗に加え、2号機の製造にも失敗したため、三一二空は一度も秋水を運用することなく終戦を迎えた。補充要員が数名訓練中に事故死したが、結成当初の16名は全員生存していた<ref>角田『サムライ戦記』300頁</ref>。12月下旬、秋水の軽滑空機が搬入されてテストが行われ、1月には重滑空機による訓練も行われたが、実際の機体搬入は1945年3月、エンジン搬入は6月にずれ込んだ。茨城県の百里基地の周辺には秋水用の燃料タンクの跡など秋水に関する色々な施設の後が今も残っている。 *第三二二海軍航空部隊 - 大村空、諫早空 *第三六二海軍航空部隊 - 三岡崎空、名古屋空 '''搭乗員の訓練部隊''' *土浦海軍航空隊 :秋田分遣隊 - 14期甲飛を中心とする800名の秋水隊員が特攻の訓練を行った<ref>松岡久光『日本初のロケット戦闘機「秋水」―液体ロケットエンジン機の誕生』三樹書房p162-163</ref>。 *三重海軍航空隊 :野辺山派遣隊 - 秋水、桜花による特攻の訓練を行っていた<ref>中村勝実『野辺山海軍航空隊 予科練の特攻隊基地』162-163頁</ref>。 *滋賀海軍航空隊 == 現存する機体 == [[ファイル:J8M1 Shu Sui.JPG|thumb|280px|right|[[カリフォルニア州]]の[[:en:Planes of Fame|プレーンズ オブ フェイム]]にて飛行時の状態で展示されている秋水]] 戦後日本軍機の技術調査をすべくアメリカ軍に持ち去られた3機のうち1機が、ほぼ完全な形でアメリカ・[[カリフォルニア州]]のプレーンズ オブ フェイム([[:en:Planes of Fame|Planes of Fame]])航空博物館に、同じく旧日本軍(海軍)の局地戦闘機である[[雷電 (航空機)|雷電]]と共に展示されている。 また、[[1961年]](昭和36年)6月に神奈川県の[[日本飛行機]]杉田工場の拡張工事の際に土中より発見された機体がある<ref name="rekishigunzou200204">局地戦闘機「秋水」 歴史群像2002年4月号 P16-19 学習研究社</ref>。発見後、[[1963年]](昭和38年)2月より[[航空自衛隊]][[岐阜基地]]にて保管されていたが、[[1997年]](平成9年)11月に三菱重工業へと譲渡され、残された1,611枚の設計図に基づいて[[2001年]](平成13年)12月に復元された<ref name="rekishigunzou200204"/>。この機体は、現在[[愛知県]][[小牧市]]の[[三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所史料室|名古屋航空宇宙システム製作所史料室]]に展示されている<ref name="rekishigunzou200204"/>。 == 各型 == ;J8M2 :海軍の計画。発進用車輪を廃してカタパルト発進式とし、搭載武装を30ミリ機銃1挺に減じ、燃料搭載量を増加させた型。計画のみ。 ;キ202(秋水改) :陸軍の計画。機体を空力的に洗練し、巡航用ロケットを追加して航続時間の増加を試みた。計画のみ。 ;MXY8(軽滑空機) :[[秋草]](陸軍名称・ク-13) :部隊訓練用の全木製羽布張りグライダー。秋水と同一の外見をしていたが重量は1トン強にとどまった。秋水の完成に先立って少数が製作され、訓練に用いられた。滑空速度は300km/hほどで急降下や宙返りも可能だった。 ;秋水重滑空機 :秋水からエンジンと武装を取り外した訓練用グライダー。 以下は連合国などで後世に伝えられる本機の関連計画機だが、日本軍側の記録にはそのような機体の開発計画は存在しない。 ;神龍、神龍二型 :連合国軍によって本機の改良発展タイプと伝えられる。機体外観はデルタ翼を有し、空対空ミサイルと機銃で武装する計画だとされるが、実際に日本軍が計画していた[[神龍 (航空機)|神龍]]二型に機関砲搭載予定は無かった、同じ時期の[[震電]]のジェット機化計画で考案されていた私案の図案を勘違いしたとの解釈がある。この他に、正確にはこの神龍二型の話は出所不明であるが、「1943年時点で最も新型機で先進的な機体形状とされた[[閃電 (航空機)|閃電]]にジェット機化が検討されており、それがどういうふうに解釈されたのか、本機と神龍の計画と混同・誤解されて一人歩きした」との説を掲示した書籍もある<ref>スーパー・ゼロ戦「烈風」図鑑―A7M&まぼろしの海軍戦闘機内のP154「海軍まぼろしの戦闘機列伝」 </ref>。 == 主題にした作品 == * 『日本本土決戦』([[檜山良昭]]) ** 秋水が数十機量産されて実戦配備され、B29を多数撃墜する活躍を見せている。 * 『戦空の魂』([[天沼俊]]) ** 増槽ロケットを付けて2度目の試験飛行を行い宇宙へ到達するが、重力に引かれて自然落下により燃え尽きる。 * 『[[ストライカーズ1945|ストライカーズ1945II]]』 ** [[四式戦闘機|キ84疾風]]の援護機として登場し、サブショット「秋水強行突撃」と溜め撃ち「秋水集中砲火」を行う。ただし実際の寸法とは異なる超小型機となっており(形状は似ている)、名前だけを拝借したものと言っても良い。自機としては選択不可能。 * 『飛べよ!秋水』([[おがわあきら]]) ** [[週刊少年マガジン|少年マガジン]]1972年12月10日号収録。 * 『[[Classical Fantasy Within]]』 第一話 ロケット戦闘機「秋水」([[島田荘司]]) ** [[講談社BOX]] * 『横須賀海軍航空隊始末記』([[神田恭一]]) ** [[潮書房|光人社NF文庫]] * 『War Thunder』 ** 大日本帝国ランク5の戦闘機「Ki-200 Shusui」として登場。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 参考文献 == * 藤平右近 海軍技術少佐『機密兵器の全貌 <span style="font-size:90%;">わが軍事科学技術の真相と反省(II)ロケットエンジンと局地戦闘機「秋水」の試作より進発</span>』(興発社、1952年) * 角田高喜『<small>証言|昭和の戦争*リバイバル戦記コレクション</small> 「紫電改」戦闘機隊サムライ戦記』(光人社、1991)ISBN 4-7698-0549-7 ** 松本豊次『最後の局戦「秋水」は大空に在りや <small>日本初のロケット戦闘機に青春を賭した熱き日々</small>』 * 渡辺洋二『異端の空 <small>太平洋戦争日本軍用機秘録</small>』([[文春文庫]]、2000年) ISBN 4-16-724909-X * 碇義朗『鷹が征く <small>大空の死闘 源田実VS柴田武雄</small>』([[潮書房|光人社]]、2000年)258-264頁 * 野原茂『海軍局地戦闘機 <span style="font-size:90%;">本土上空を死守せよ!</span>』第六章 三菱 試作局地戦闘機『秋水』より。(光人社、2004年) ISBN 4-7698-1206-X C0095 * 松岡久光『日本初のロケット戦闘機 <span style="font-size:90%;">液体ロケットエンジン機の誕生</span>』(三樹書房、2004年) ISBN 4-89522-392-2 * 柴田一哉『有人ロケット戦闘機 秋水 <span style="font-size:90%;">海軍第312航空隊秋水隊写真史</span>』(大日本絵画、2005年) ISBN 978-4-499-22889-3<br>海軍第312航空隊隊員たちの証言と写真を合わせたフォトストーリー。 * 伊沢保穂、柴田一哉『鍾馗戦闘機隊 <span style="font-size:90%;">帝都防衛の切り札・陸軍飛行第70戦隊写真史</span>』(大日本絵画、2008)ISBN 978-449-922982-1<br>二式単座戦闘機を装備した陸軍飛行第70戦隊の記録、及びロケット戦闘機実験部隊・特兵隊の記録。 == 関連項目 == * [[戦闘機一覧]] * [[荘子]]の編名(秋水篇) * [[秋草]] == 外部リンク == {{Commons|Category:Mitsubishi J8M}} * [http://www.nisitokyo-it.com/shusuikai/ 秋水会] : 秋水配備予定部隊関係者による回顧録 {{大日本帝国陸軍}} {{大日本帝国海軍}} {{DEFAULTSORT:しゆうすい}} [[Category:日本の戦闘機]] [[Category:日本のロケット]]
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