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秋山真之
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{{基礎情報 軍人 | 氏名 = 秋山 真之 | 各国語表記 = | 生年月日 = [[1868年]][[4月12日]] | 没年月日 = [[1918年]][[2月4日]](満49歳没) | 画像 = Akiyama Saneyuki.jpg | 画像サイズ = | 画像説明 = | 渾名 = | 生誕地 = {{Flagicon|JPN}} [[伊予国]]松山(現・[[愛媛県]][[松山市]]) | 死没地 = {{JPN1889}} [[神奈川県]][[小田原市]] | 所属組織 = {{IJNAVY}} | 軍歴 = [[1890年]] - [[1917年]] | 最終階級 = [[海軍中将]] | 除隊後 = | 墓所 = [[青山墓地]] | 署名 = }} '''秋山 真之'''(あきやま さねゆき、{{旧字体|秋山 眞之}}、[[慶応]]4年[[3月20日]]([[1868年]][[4月12日]]) - [[大正]]7年([[1918年]])[[2月4日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国海軍|海軍]][[軍人]]。最終階級は[[中将|海軍中将]]。[[位階]][[勲等]]は[[従四位]]・勲二等・[[旭日重光章]]・功三級・[[金鵄勲章]]。幼名は淳五郎(じゅんごろう)。 三兄は「日本騎兵の父」と云われた[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[大将]]の[[秋山好古]]、次兄は朝鮮京城電気重役の岡正矣。子は4男2女。元[[参議院|参議院議員]]・[[大石尚子]]は、真之の孫([[二女]]・宜子の[[長女]])。 == 経歴 == [[松山城 (伊予国)|松山城]]下の中徒町(現在の[[愛媛県]][[松山市]])に[[伊予松山藩|松山藩]]の下級[[武士]]・秋山久敬の5男として生まれる。母・貞は松山藩士山口家の娘。地元の漢学塾に学び、[[和歌]]なども習う。親友の[[正岡子規]]の上京に刺激され、愛媛県第一中学(現在の[[愛媛県立松山東高等学校|松山東高校]])を中学5年にて中退、[[明治]]16年([[1883年]])に将来の[[太政大臣]]を目指すために東京へ行き受験準備のために共立学校(現在の[[開成中学校・高等学校|開成高校]])などで受験英語を学び、[[東京大学 (1877-1886)#大学予備門|大学予備門]](のちの[[第一高等学校 (旧制) |一高]]、現在の[[東京大学教養学部]])に入学。 大学予備門では[[東京大学|東京帝国大学]]進学を目指すが、秋山家の経済的苦境から真之は兄の好古に学費を頼っていたため、卒業後は文学を志して帝国大学文学部に進む子規らとは道を異にし、明治19年([[1886年]])に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に17期生として進学。明治23年([[1890年]])に海軍兵学校を首席で卒業し、海軍軍人となる。卒業後は[[少尉]]候補生として海防艦「[[比叡 (コルベット)|比叡]]」に乗艦して実地演習を重ね、座礁した[[オスマン帝国]][[軍艦]]「[[エルトゥールル (フリゲート)|エルトゥールル]]」の生存者送還([[エルトゥールル号遭難事件]])にも従事する。明治25年([[1892年]])、海軍少尉。[[日清戦争]]では通報艦「[[筑紫 (巡洋艦)|筑紫]]」に乗艦し、偵察など後援活動に参加。戦後には巡洋艦「[[和泉 (防護巡洋艦)|和泉]]」分隊士、明治29年([[1896年]])年1月には横須賀に転属し、日清戦争での[[水雷]]の活躍に注目して設置された海軍水雷術練習所([[海軍水雷学校]])の学生になり水雷術を学び、卒業後に横須賀水雷団第2水雷隊付になる。のちに報知艦「[[八重山 (通報艦)|八重山]]」に乗艦し、[[海軍大尉]]となる。同年11月には[[軍令部]]諜報課員として中国東北部で活動する。 [[Image:Alfred thayer mahan.jpg|thumb|アルフレッド・セイヤー・マハン]] 明治31年([[1898年]])に海軍の[[留学生]]派遣が再開されると派遣留学生に選ばれるが、公費留学の枠に入れずにはじめは私費留学であった。[[アメリカ合衆国|アメリカ]]へ留学した真之は、[[ワシントンD.C.|ワシントン]]に滞在して海軍大学校校長、軍事思想家である[[アルフレッド・セイヤー・マハン]]に師事し、主に大学校の図書館や海軍文庫での図書を利用しての兵術の理論研究に務める。このとき[[米西戦争]]を[[観戦武官]]として視察し報告書「サンチャゴ・デ・クーバの役」(後に「極秘諜報第百十八号」と銘うたれる)を提出する。[[サンチャゴ・デ・キューバ海戦]]の一環として[[アメリカ海軍]]が実施した[[キューバ]]のサンチャゴ港[[閉塞作戦]]を見学しており、このときの経験と報告<REF>在米国海軍大尉秋山真之「サンチャゴ・ヂュ・クバ之役(極秘諜報第百十八号)」</REF>が日露戦争における[[旅順港閉塞作戦]]の礎となったとも指摘されている。翌 明治32年([[1899年]])1月にはイギリス駐在となり視察を行い8月に帰国。明治33年([[1900年]])には[[海軍省]]軍務局第1課員、[[常備艦隊]]参謀になり、明治34年([[1901年]])、海軍少佐。 [[ファイル:MIKASAPAINTING.jpg|left|thumb|250px|[[三笠_(戦艦)|戦艦三笠]]艦橋(日本海海戦)<br/>中央左より[[加藤友三郎|加藤]]、[[東郷平八郎|東郷]]、秋山]] 明治35年([[1902年]])には[[海軍大学校]]の教官となる。明治36年([[1903年]])6月に宮内省御用掛・稲生真履の三女である季子と築地の水交社で結婚。対露開戦論者として[[湖月会]]のメンバーとなって日露開戦を積極的に推進した。翌明治37年([[1904年]])に海軍[[中佐]]・[[第一艦隊 (日本海軍)|第1艦隊]][[参謀]](後に先任参謀)。[[朝鮮半島]]を巡り日本と[[ロシア]]との関係が険悪化し、同年からの[[日露戦争]]では[[連合艦隊司令長官]][[東郷平八郎]]の下で作戦担当[[参謀]]となり、第1艦隊[[旗艦]]「[[三笠 (戦艦)|三笠]]」に乗艦する。[[ロシア海軍]]旅順艦隊([[太平洋艦隊 (ロシア海軍)|太平洋艦隊]])撃滅と封鎖のための[[旅順口攻撃]]と旅順港閉塞作戦においては先任参謀を務め、機雷敷設などを行う。ロシアの[[バルチック艦隊]]が回航すると迎撃作戦を立案し、[[日本海海戦]]の勝利に貢献、日露戦争における日本の政略上の勝利を決定付けた。 明治38年([[1905年]])12月の連合艦隊解散後は巡洋艦の艦長を歴任し、第1艦隊の参謀長を経て大正元年([[1912年]])[[12月1日]]からは[[軍令部]]第1班長(後の軍令部第1部長)に任ぜられる。明治41年([[1908年]])、海軍大佐となり、大正2年([[1913年]])には海軍少将に昇進。 大正3年([[1914年]])、軍艦建造を巡る疑獄事件である[[シーメンス事件]]が起こる。事件は政府批判に発展し、また、事件に際しては秘密裁判主義に基づいているとして改正が検討されていた[[治罪法]]の問題が再燃し、衆議院議員の[[花井卓蔵]]が賛同者を集め、軍法会議の公開などを要求。同年1月に調査委員会が設置されると、その委員の一人に指名される。3月に[[第1次山本内閣]]が退陣し、[[第2次大隈内閣]]が発足すると、[[海軍大臣]]には[[八代六郎]]が任命され、秋山は[[海軍省#軍務局|軍務局長]]として八代を補佐し、軍艦建造のための臨時会議召集をはたらきかけ、予算成立に尽力する。11月に治罪法改正委員会が設置されると、花井卓蔵らと論争を行う。大正5年([[1916年]])2月には軍令部に転出したため、委員は[[鈴木貫太郎]]に引き継がれる。 [[File:秋山真之 終焉の地.jpg|thumb|秋山真之 終焉の地<br />(「[[対潮閣]]」[[小田原市]])]] 軍務局長時代には、上海へも寄港する巡洋艦「[[音羽 (防護巡洋艦)|音羽]]」に乗艦して中国を実地見聞し、留学生の受け入れなどを提言している。また、[[孫文]]とも交流があったと言われ、非公式に革命運動を援助。[[小池張造]]らと同志を集め、革命運動を支援する“小池部屋”を結成。[[久原房之助]]など実業家に働きかける。明治44年([[1911年]])、[[辛亥革命]]で清朝が打倒され、[[中華民国]]が成立。大正4年([[1915年]])に[[袁世凱]]が皇帝に推戴されると、中国各地で反対運動が起こり、日本政府など諸外国も抗議。またこの頃、[[川島浪速]]ら[[大陸浪人]]と[[参謀本部]]次長・[[田中義一]]らが主導した第二次[[満蒙独立運動]]に外務省政務局長になった小池とともに加わっている。その後、軍令部転出となったため、対中政策からは離れる。 大正5年(1916年)3月には、[[第一次世界大戦]]を視察するためにヨーロッパへ渡る。朝鮮半島からシベリア鉄道でロシア、フィンランドなど東欧などを視察。5月にはイギリスへ渡り、日本海海戦を観戦した[[英国海軍]]のペケナム中将、艦隊司令長官のジェリコ提督らに歓迎される。フランス、イタリアに滞在したのち、翌大正6年([[1917年]])9月にはアメリカへ渡り、10月に帰国。帰国後には[[第二艦隊 (日本海軍)|第2艦隊]]水雷司令官になるが、病状悪化により間もなく辞職する。同年7月には[[海軍将官会議 (日本)|海軍将官会議]]議員になるが、中将昇進と同時に待命となった。 大学校教官時代に[[佐藤鉄太郎]]らが主宰していた研究会「天晴会」に勧誘されて経典を研究するようになり、晩年は霊研究や宗教研究に没頭した。軍人の信仰者が多かった[[日蓮宗]]に帰依するとともに、神道家[[川面凡児]]に師事して神道研究を行い、皇典研究会を設立した。[[新宗教]][[大本|皇道大本]]には[[海軍機関学校]]教官の[[浅野和三郎]]との縁(秋山と浅野の初対面は大本時代)で入信し、綾部参り等を行ったものの、目的は信仰ではなく神道研究だったとされる。大本側の資料によれば、大正5年12月14日に[[出口王仁三郎]]の招きで綾部に立ち寄り大本教主顧問となったが、大正6年5月に喧嘩別れした<ref name="神罠157">[[#神の罠]]157-158頁</ref>。 大正6年(1917年)5月に[[虫垂炎]]を煩って[[箱根]]にて療養に努めたが、翌大正7年(1918年)に再発。悪化して[[腹膜炎]]を併発し、[[2月4日]]、小田原の[[対潮閣]]([[山下亀三郎]]別邸)にて死去した。死去直前に[[教育勅語]]や[[般若心経]]を唱えていたという。享年49。 墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の[[青山墓地]]だったが、後に[[鎌倉霊園]]へ改葬。 == 年譜 == * [[慶応]]4年[[3月20日_(旧暦)|3月20日]]([[1868年]][[4月12日]]):[[伊予松山藩|伊予松山]]にて誕生。 * [[明治]]16年([[1883年]])9月:上京。 * 明治17年([[1884年]])9月:[[大学予備門]]合格。 * 明治19年([[1886年]])[[10月30日]]:[[海軍兵学校]]入校。 * 明治23年([[1890年]]) ** [[7月17日]]:海軍兵学校首席卒業。海軍少尉候補生となる。以後、砲艦「[[比叡_(コルベット)|比叡]]」乗艦となる。 ** [[10月5日]]:「比叡」が、[[エルトゥールル号遭難事件]]の遭難者の送還のため、[[オスマン帝国]]へ出航。真之ら[[海軍兵学校卒業生一覧 (日本)#17期|17期生]]が乗務。 ** [[12月19日]]:父・久敬が松山で死す(真之は「比叡」乗務中)。 * 明治24年([[1891年]]) ** [[1月2日]]:[[オスマン帝国]]の首都・[[イスタンブル]]に到着。 ** [[6月4日]]:巡洋艦「[[高千穂_(防護巡洋艦)|高千穂]]」乗艦に異動。 * 明治25年([[1892年]]) ** [[4月25日]]:巡洋艦「[[松島 (防護巡洋艦)|松島]]」航海士となる。 ** [[5月23日]]:[[海軍少尉]]任官。砲術練習艦「[[龍驤 (コルベット)|龍驤]]」に乗艦し、分隊士となる。 ** [[7月5日]]:[[正八位]]に叙位。 * 明治27年([[1894年]])[[4月23日]]:通報艦「[[筑紫_(巡洋艦)|筑紫]]」航海士となる。[[日清戦争]]時には、同艦に乗艦。 * 明治28年([[1895年]])[[11月18日]]:砲艦「[[大島_(砲艦)|大島]]」航海士兼分隊士となる。 * 明治29年([[1896年]]) ** [[1月4日]]:[[横須賀市|横須賀]]の[[海軍水雷学校|海軍水雷術練習所]]学生となる。 ** [[5月11日]]:[[横須賀水雷艇団]]第2水雷艇隊府付となる。 ** [[7月7日]]:報知艦「[[八重山_(通報艦)|八重山]]」乗艦。 ** [[10月24日]]:海軍[[大尉]]に昇任(当時、新任中尉任官は差し控えられていたため、中尉を経ず大尉に昇任)し、「八重山」分隊長となる。 ** [[12月21日]]:[[従七位]]に昇叙。 * 明治30年([[1897年]])[[6月26日]]:[[アメリカ合衆国|米国]][[駐在武官]]に異動。 * 明治31年([[1898年]])[[3月8日]]:[[正七位]]に昇叙。 * 明治33年([[1900年]]) ** [[8月14日]]:帰国し、[[海軍省]][[海軍省#軍務局|軍務局]]課員に異動。 ** [[10月31日]]:[[常備艦隊]]参謀に異動。旗艦「[[常磐 (装甲巡洋艦)|常磐]]」乗艦。 * 明治34年([[1901年]]) ** [[10月1日]]:海軍[[少佐]]に昇任。 ** [[12月17日]]:[[従六位]]に昇叙。 * 明治35年([[1902年]])[[7月17日]]:[[海軍大学校]]教官、戦術教官に異動。 * 明治36年([[1903年]]) ** [[6月2日]]:水交社で稲生すゑとの結婚式を挙げる。 ** [[10月27日]]:常備艦隊参謀に異動し、[[第一艦隊 (日本海軍)|第1艦隊]]参謀を併任。 * 明治37年([[1904年]]) ** [[2月6日]]:旗艦「[[三笠_(戦艦)|三笠]]」に乗艦。 ** [[2月10日]]:対[[ロシア帝国|ロシア]]宣戦布告。 ** [[9月1日]]:海軍[[中佐]]に昇任。 ** [[10月6日]]:[[正六位]]に昇叙。 * 明治38年([[1905年]]) ** [[5月30日]]:日本海海戦の功により[[勲四等]][[瑞宝章]]に叙勲。 ** [[6月14日]]:[[連合艦隊]]参謀に異動。 ** [[6月19日]]:母・貞が兄・好古の役宅で死す。 ** [[11月25日]]:[[聯合艦隊解散之辞|連合艦隊解散決定]]により、海軍大学校戦術教官に異動。 * 明治39年([[1906年]])[[4月1日]]:[[勲三等]][[旭日中綬章]]を受章。 * 明治41年([[1908年]]) ** [[2月20日]]:「三笠」副長に異動。 ** [[8月28日]]:巡洋艦「[[秋津洲_(防護巡洋艦)|秋津洲]]」艦長に昇進。 ** [[9月25日]]:海軍[[大佐]]に昇任。 ** [[12月1日]]:巡洋艦「[[音羽_(防護巡洋艦)|音羽]]」艦長に異動。 ** [[12月11日]]:[[従五位]]に昇叙。 * 明治42年([[1909年]])12月1日:巡洋艦「[[橋立 (防護巡洋艦)|橋立]]」艦長に異動。 * 明治43年([[1910年]]) ** [[4月9日]]:巡洋艦「[[出雲_(装甲巡洋艦)|出雲]]」艦長に異動。 ** 12月1日:巡洋艦「[[伊吹 (巡洋戦艦)|伊吹]]」艦長に異動。 * 明治44年([[1911年]])[[3月11日]]:第1艦隊参謀長に異動。 * [[大正]]元年([[1912年]])12月1日:[[軍令部]]第1班長に異動。 * 大正2年([[1913年]])12月1日:海軍[[少将]]に昇任。 * 大正3年([[1914年]]) ** [[1月30日]]:[[正五位]]に昇叙。 ** [[4月17日]]:海軍省軍務局長兼[[海軍将官会議 (日本)|海軍将官会議]]議員に異動。 * 大正4年([[1915年]])[[11月7日]]:[[勲二等]][[旭日重光章]]を受章。 * 大正5年([[1916年]]) ** [[2月21日]]:海軍軍令部に異動。 ** [[12月1日]]:[[第二水雷戦隊]]司令官に異動。 * 大正6年([[1917年]]) ** [[7月16日]]:海軍将官会議議員に再任。 ** 12月1日:海軍中将に昇任。 * 大正7年([[1918年]])[[2月4日]]:死去。同日、[[従四位]]に昇叙。 == 人物 == * 日露戦争における[[日本海海戦]]が人生のピークであったと評されることもあり、最後は中将まで登りつめたが、病気に苦しんだこともあって、[[第一次世界大戦]]の結果を見事に言い当てた事を除き、大正以後は特に目立った活躍をしていない。しかし日露戦争での功績から海軍では長らく真之は神秘的な名参謀として考えられ、崇拝の対象になっていったようである。ただし、近年の研究によって、真之の業績として知られていたものに、[[島村速雄]]の案と同じものが発見されているが、これらは両者が同時期にイギリスで勉強したため同じ作戦を思いついたものと考えられている。 * 東郷は「智謀如湧」(ちぼうわくがごとし)と真之の作戦立案能力を評価した。 * 同郷の俳人・[[正岡子規]]とは幼少時代よりの友人であり、東京へ行った後も共立学校の同級生として交遊し、和歌なども学ぶ。また、[[大蔵省|大蔵]][[官僚]]となった[[勝田主計]]も真之や子規の松山時代からの友人として知られている。 * 日本海海戦出撃の際の報告電報の一節である「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」は、「本日天気晴朗ノ為、我ガ連合艦隊ハ敵艦隊撃滅ニ向ケ出撃可能。ナレドモ浪高ク旧式小型艦艇及ビ水雷艇ハ出撃不可ノ為、主力艦ノミデ出撃ス」という意味を、漢字を含めて13文字、ひらがなのみでも僅か20文字という驚異的な短さで説明しているため、今でも短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として高く評価されている(モールス信号による電信では、わずかな途切れでも全く意味の異なる文章になるため、とにかく文章は短ければ短いほど良いとされている)。また[[Z旗]]の信号文「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」も真之の作である。 * 日本海海戦に勝利した[[連合艦隊]]の解散式における、東郷の訓示([[聯合艦隊解散之辞|聯合艦隊解散の訓示]])の草稿も真之が起草したものとされている。この文章に感動した時の米大統領[[セオドア・ルーズベルト]]は、全文英訳させて、米国海軍に頒布した。これらから名文家・文章家としても知られており、後に「秋山文学」と高く評価されるようになる。 * 日本海海戦に関しては「たうとう会戦という段取りになつたのですが、驚いた事には敵の艦形が三日前に夢で見せられたのと寸分の相違もありませんでした」と語り、大本の出口王仁三郎にも相談している<ref name="神罠157"/>。宗教研究においては「戦争で目撃した人の生死や戦争の勝敗について人知外の力を感じた」と述べる。これらの発言に対して[[山本英輔]]大将は、「秋山はあまりに理性的なため、理論で突き詰められない宗教にのめり込むことが出来なかったのだろう」と指摘した。 * 参謀としての真之の功績は、長らく東郷の影に隠れ、広く一般に知られている人物とは言い難かったが、戦後、[[島田謹二]]『アメリカにおける秋山真之』(初版・昭和44年([[1969年]]))によって紹介され、[[司馬遼太郎]]が発表した歴史小説『[[坂の上の雲]]』(初版・[[昭和]]47年([[1972年]]))で主人公になった結果、国民的な知名度を得ることになった。 == 逸話 == * 幼名の淳五郎と本名の真之は、[[後漢]]の文人[[張衡 (科学者)|張衡]]の『思玄賦』からの一節「何道真之淳粋兮」に基づく。 * 幼少の頃は腕白なガキ大将だった。多くの子供を引き連れて戦争ごっこをするにとどまらず、本を参考に花火を作って打ち上げたりするほどだった。あまりにも腕白がすぎるため、貞は「お前も殺して私も死ぬ」と言って涙を見せるほど手を焼いた。他に絵や水泳、かけっこが得意であった。 * 海軍兵学校時代、同校で[[野球]]チームを編成し、海軍野球の創始者となった。 * 少尉候補生時代、食事中にパンくずで[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]や[[ナポレオン]]、[[豊臣秀吉]]などの頭像を作って遊んでいた。 * 同じく候補生時代、後輩から「猛勉強しているわけではないのになぜいつも成績がトップなのか」と聞かれた真之は「過去の試験問題を参考にすることと、教官のクセを見抜くことだ。また必要な部分は何回も説明することから試験問題を推測できる!」と、答えた。 * 煎り豆が好物で、ポケットに忍ばせてよく食べていた。 ** この豆の種類であるが、明治37年(1904年)[[11月23日]]付の母宛て手紙に「何か幸便あれば豌豆及空豆二三斗計りイリテ御送被下度候」とあり、[[エンドウマメ]]と[[ソラマメ]]の2種であった。 * 軍服の袖で鼻水を拭いたり、作戦を練り始めると入浴せずに数日過ごすなど、身なりを全く気にしない性格であったと伝えられる。また人前で[[放屁]]や[[放尿]]をすることもあった。 * アメリカからの帰国中、賭博詐欺にあった。イカサマだと気づいた真之は、リーダーの男を部屋に連れ込み「黙ってやらせておけばいい気になりおって。このままでは侍の名折れだ、金を返せ」と、語気鋭く短刀の鞘を払った。怯えた男は金を返して逃げ出したという。 == 系譜 == ; 秋山氏 : 遡れば[[河野氏]]に繋がる。[[江戸時代]]、代々[[伊予松山藩|松山藩]]士 <pre> 宗清━信久━久良━久軏━軏久━久徴━久敬┳則久 ┣正牟(岡家養子) ┣好古(長兄・則久より家督相続) ┣道一(西原家養子) ┗眞之 </pre> == 著作 == * 『兵語界説』 * 『海軍基本戦術』 * 『海軍応用戦術』 * 『海軍戦務』 * 『海軍用務令』 * 『海軍英文尺文例』 * 『軍談』 ** 『秋山真之戦術論集』(戸高一成編、[[中央公論新社]]、[[平成]]17年([[2005年]])) == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * 『秋山真之』 秋山真之会 昭和8年([[1933年]]) [[水野廣徳]]・桜井真清ほか ** 復刻版、マツノ書店 平成21年([[2009年]])(長南政義「『秋山真之』二人の編著者」所収) * 『提督秋山真之(昭和8年(1933年)の『秋山眞之』を簡略化したもの) 秋山真之会編、[[岩波書店]] 昭和9年([[1934年]]) ** 新編版、毎日ワンズ『天気晴朗ナレドモ波高シ』(現代仮名遣いで再編、一部に改変や省略あり) 平成21年(2009年) * 『アメリカにおける秋山真之』、『ロシヤ戦争前夜の秋山真之』 [[島田謹二]]、[[朝日新聞社]](前者は[[朝日文庫]]でも刊) * 『伝説の名参謀 秋山真之』 神川武利 PHP文庫 * 『秋山真之 日本海大海戦の名参謀』 羽生道英、[[学研]]M文庫 * 『百年目の波濤 智謀の提督秋山真之の生涯』 石丸淳也 [[光人社]] *{{Cite book|和書|author=[[松本健一]]|year=1989|month=10|title=神の罠 {{small|浅野和三郎、近代知性の悲劇}}|publisher=[[新潮社]]|isbn=4-10-368402-x|ref=神の罠}} * 『秋山真之』 田中宏巳(人物叢書) [[吉川弘文館]]、平成16年([[2004年]]) * 『秋山真之のすべて』 [[新人物往来社]]編 2005年、文庫新版、平成21年(2009年) * 『軍談 [[秋山真之]]の日露戦争回顧録』 [[前坂俊之]] 編解説 新人物文庫 平成22年([[2010年]])(ISBN 9784404038098) * 『甦る秋山真之(上)』 三浦康之 [[ウェッジ]] 平成20年([[2008年]])(ISBN 978-4-86310-028-2) * 『甦る秋山真之(下)』 三浦康之 ウェッジ 平成20年(2008年)(ISBN 978-4-86310-029-9) * [[島田謹二]]『アメリカにおける秋山真之(上) 米国海軍の内懐に』2009年、[[朝日文庫]] * 島田謹二『アメリカにおける秋山真之(中) 米西戦争を観る』2009年、朝日文庫 * 島田謹二『アメリカにおける秋山真之(下) 日露開戦に備えて』2009年、朝日文庫 == 秋山真之を題材とする作品 == * [[坂の上の雲]]([[司馬遼太郎]] [[文春文庫]]全8巻) ** 司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅4 [[正岡子規]]、[[秋山好古]]・真之~ある明治の庶民([[中央公論新社]]、平成19年([[2007年]])、平成23年([[2011年]])3・4月に中公文庫2分冊) - 作品あとがきも入れた、明治に活躍した人物群像42篇 * [[日露戦争物語]]([[江川達也]] [[小学館]][[ビッグコミックス]]) * 秋山真之 伝説の名参謀([[神川武利]] [[PHP文庫]]) == 秋山真之を演じた俳優 == * [[明智十三郎]] - [[新東宝]]映画『[[明治天皇と日露大戦争]]』 * [[土屋嘉男]] - [[東宝]]映画『[[日本海大海戦]]』 * [[米倉斉加年]] - [[TBSテレビ|TBS]]ドラマ『[[海は甦える]]』 * [[横内正]] - [[東映]]映画『[[日本海大海戦 海ゆかば]]』 * [[本木雅弘]] - [[日本放送協会|NHK]]ドラマ『[[坂の上の雲 (テレビドラマ)|坂の上の雲]]』 == 関連項目 == * [[明治の人物一覧]] * [[愛媛県出身の人物一覧]] * [[大日本帝国海軍軍人一覧]] * [[河野氏]] * [[日本海海戦]] * [[坂の上の雲ミュージアム]] == 外部リンク == {{Wikiquote|秋山真之}} * [http://www.jacar.go.jp/nichiro/cloud_akiyamasaneyuki.htm 秋山真之](国立公文書館アジア歴史資料センター) * [http://wedge.ismedia.jp/articles/-/630 秋山真之に学ぶ名参謀への道 三浦康之] * [http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=406 水野広徳による追悼文(上)] * [http://maesaka-toshiyuki.com/detail?id=415 水野広徳による追悼文(下)] {{Start box}} {{S-mil}} {{Succession box | title = [[第一艦隊 (日本海軍)|第一艦隊]]参謀長 | years = [[1911年]][[3月11日]] - [[1912年]][[12月1日]] | before = [[野間口兼雄]] | after = [[竹下勇]] }} {{Succession box | title = [[第二水雷戦隊]]司令官 | years = 第5代:[[1916年]][[12月1日]] - [[1917年]][[7月16日]] | before = [[高木七太郎]] | after = [[山中柴吉]] }} {{End box}} {{DEFAULTSORT:あきやま さねゆき}} [[Category:大日本帝国海軍将官]] [[Category:日本の軍事学者]] [[Category:戦前日本の学者]] [[Category:日清戦争の人物]] [[Category:日露戦争の人物]] [[Category:第一次世界大戦期の日本の軍人]]<!--第二特務艦隊の地中海派遣を推進強いるためカテゴリに含めます。--> [[Category:シーメンス事件の人物]] [[Category:日本海軍情報将校]] [[Category:水交社の人物]] [[Category:南洋協会の人物]] [[Category:愛媛県出身の人物]] [[Category:1868年生]] [[Category:1918年没]]
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秋山真之
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