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禅譲
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{{言葉を濁さない|date=2013年11月}} {{wiktionary}} '''禅譲'''(ぜんじょう)は、[[天子]](ほとんどの場合、[[皇帝]])が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを'''[[簒奪]]'''と呼ぶことがある。 == 中国伝説における禅譲 == 中国の伝説上の聖天子は、血縁関係によらず有徳の人物に帝位を譲ったとされる。例えば、[[五帝]]と呼ばれる天子たちは、[[堯]]が[[舜]]に禅譲し、舜が[[禹]]に禅譲した。このような伝説は、[[儒家]]が過去を理想化する中で生まれた。実際の権力交代では武力や流血、権謀術策が少なからず伴ったと考えられるが、文献が書かれたその時々の権力への正当性の付与や、儒家の思想の根幹たる「礼」を成立させるためにこのような理想化が行われたと考えられる。 中国史に限らず、太古は王位にさしたる利権がないがゆえに世襲とならず(世襲という概念が存在せず)、有力者が王位を継承していた事情を反映している可能性もある<ref>中国史以外に類例を見るなら、[[王政ローマ]]は世襲ではなく有力者が選挙によって選ばれた。ただしこちらも、共和制期においての理想化に過ぎないという説もある。</ref>。 == 歴史上の禅譲 == 歴史上禅譲と呼ばれているものは、実際には[[簒奪]]に近いものであり、王朝の正統性を保証する演出として行われ続けた。 中国史で最初の禅譲は、[[前漢]]の最後の皇胤(皇太子)[[孺子嬰]]から[[王莽]]への譲位で、これをうけて[[新]]王朝が開かれた。その後も、王朝交代のたびに禅譲が行われた。 *(禅譲した王朝) - (禅譲によって成立した新王朝) **[[前漢]] - [[新]] **[[後漢]] - [[魏 (三国)|魏]] - [[西晋]] **[[東晋]] - (劉)[[宋 (南朝)|宋]] - (南)[[斉 (南朝)|斉]] - [[梁 (南朝)|梁]] - [[陳 (南朝)|陳]] **[[東魏]] - [[北斉]] **[[西魏]] - [[北周]] - [[隋]] - [[唐]] - [[後梁]] **[[後漢 (五代)]] - [[後周]] - [[北宋]] ただし、新皇帝の即位が存在しない事例も含めると、[[中華民国]]は形式上は[[清]]の[[愛新覚羅溥儀|宣統帝]]より禅譲を受けた政権であり、これが最後の禅譲といえる([[清室優待条件]]を参照)。 === 手順 === 歴史上の禅譲の手順はおおむね下のようにまとめられる。禅譲の手順は、魏の[[曹操]](武帝)・[[曹丕]](文帝)のものが先例となったことから、「魏武輔漢の故事」と称される。 {{要出典範囲| #王朝の衰退<ref>後漢が黄巾の乱によって衰退する、魏が明帝死後に実権のない幼帝斉王芳が擁立される、東晋が司馬道子、司馬元顕の専横、孫恩の乱や桓玄の簒奪で衰退、唐が黄巣の乱で衰退するなど</ref> #王朝内部での新たな有力者の登場<ref>後漢内部での曹操の登場、魏での司馬師、司馬昭、東晋内部での劉裕、唐での朱全忠など</ref> #幼帝など、実権のない皇帝が即位する(有力者が禅譲させるために即位させることが多い)<ref>後漢内部での献帝、魏の元帝、東晋の安帝および恭帝、唐の昭宣帝など</ref>。 #有力者が、公位を与えられる<ref>213年曹操が魏公となる、258年司馬昭が晋公となる、418年劉裕、宋公となる、など</ref> #有力者が、王位を与えられる<ref>216年曹操が魏王となる、264年司馬昭が晋王となる、419年劉裕、宋王となる、など</ref>。 #有力者が、[[九錫]]を与えられる<ref>213年曹操が魏公となり、九錫を与えられる、258年司馬昭が晋公となり、九錫を与えられる、318年劉裕、宋公となるともに九錫を与えられる、など</ref>。 #:公・王位と同時や、前後することもある。 #各方面から吉兆が報告されるなど、王朝交代への雰囲気作りがなされる。 #現皇帝が、有力者に皇帝となるように要請するが、有力者はこれを固辞する。 #:固辞することで自らの徳の深さを誇示する演技である。 #有力者が、渋々現皇帝から皇帝の位を譲り受ける。 #:周囲の懇請を容れて仕方なく、という形を演出して自らの徳を示す。 #有力者(新皇帝)は王朝名を自らの封国のものに変更し、新しい王朝となったことを宣布する<ref>220年曹操の子魏王曹丕、魏を建てる、420年劉裕、宋を建てる、など</ref>。 #前皇帝は、新皇帝によって領地を与えられ、王侯となる<ref>220年後漢の献帝が山陽公となる、265年魏の元帝が陳留王となる、479年宋の順帝が汝陰王となる、など</ref>。 |date=2011年1月}} 禅譲した前王朝の君主は、[[後漢]]の[[献帝 (漢)|献帝]]などは殺害されず山陽公として余生を送ることが出来たが、南北朝時代以降になるとすぐに殺されたり自殺を強制されることが多くなった。前王朝の君主を最初に殺したのは<ref>直接禅譲に繋がらない殺害は、これ以前からあった。自らに対して兵を挙げた、魏の[[曹髦]]を殺した[[司馬昭]](直接の下手人は[[成済]])など。</ref>、南朝・[[宋 (南朝)|宋]]の[[劉裕|高祖武帝]]である。そのため宋の最後の皇帝である[[順帝 (南朝宋)|順帝]]は殺される前に、「生まれ変わるなら帝王の家にだけは生まれたくない(願後身世世、再不生帝王家)」とまで残している。ただ、[[後周]]の[[柴宗訓|恭帝]]から禅譲を受けた[[北宋]]の[[趙匡胤|太祖]]は彼を殺さず、また柴氏の保護を子孫に厳守させている([[趙匡胤#石刻遺訓|石刻遺訓]])。 なお、過去の王朝の子孫を礼遇する思想は、[[:zh:二王三恪]]と呼ばれている。「二王」は前王朝及び前々王朝を意味する。「三恪」はさらに3代前の王朝(合わせて5王朝)か、あるいは単に前々王朝の前とされた。 ==転用== 現代では、しばしば歴史上行われた禅譲にたとえて「([[社長]]や[[首相]]、[[大統領]]、経済団体・業界団体の代表者などの)指導的な地位を他の実力者に譲ること」を禅譲という場合がある。 芸能マスコミにおいては、長期間放映が続くシリーズものや、[[リメイク]]や再映像化が行われた[[映画]]や[[テレビドラマ]]などで、「ベテラン[[俳優]]が長年演じてきた自身の当たり役を現役(存命)の内に特定の後進俳優に譲ること」を指して禅譲という表現が使われることがある。 ==脚注== <div class="references-small"> <references/> </div> == 関連項目 == * [[放伐]] * [[易姓革命]] * [[簒奪]] * [[政権交代]] * [[燕王カイ|燕王噲]] {{DEFAULTSORT:せんしよう}} [[Category:中国の制度史]] [[Category:政治史]] [[Category:王位継承法]]
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