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禁門の変
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{{出典の明記|date=2013年2月}} {{参照方法|date=2014年2月}} {{Battlebox |battle_name= 禁門の変 |compaign = 禁門の変 |image = [[ファイル:Hamaguri rebellion.jpg|300px]] |caption = |conflict = 禁門の変 |date = ([[旧暦]])[[元治]]元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]<br/>([[グレゴリオ暦]])[[1864年]][[8月20日]] |place = 京都市中、[[京都御所]]周辺 |result = [[江戸幕府|幕府]]側の勝利、[[長州藩]]の撤退 |combatant1= [[ファイル:Mon-Tokugawa.png|25x20px]] [[江戸幕府]] * [[ファイル:Japanese Emblem Mituaoi of Aizu.png|25x20px]] [[会津藩]] * [[ファイル:Japanese Crest maru ni jyuji.svg|25x20px]] [[薩摩藩]] * [[ファイル:Kuyo.svg|25x20px]] [[大垣藩]] * [[ファイル:Hoshi Umebachi inverted.svg|25x20px]] [[桑名藩]] * [[ファイル:Flag of Shinsengumi.svg|25x20px]] [[新選組]] |combatant2= [[ファイル:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[長州藩]] * 諸藩浪士 |commander1= [[ファイル:Mon-Tokugawa.png|25x20px]] [[徳川慶喜|一橋慶喜]] * [[ファイル:Japanese Emblem Mituaoi of Aizu.png|25x20px]] [[松平容保]] * [[ファイル:Japanese Crest maru ni jyuji.svg|25x20px]] [[西郷隆盛]] * [[ファイル:Kuyo.svg|25x20px]] [[小原鉄心]] * [[ファイル:Flag of Shinsengumi.svg|25x20px]] [[近藤勇]] |commander2= [[ファイル:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[福原元たけ|福原元{{CP932フォント|僴}}]] * [[ファイル:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[久坂玄瑞]] {{KIA}} * [[ファイル:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[来島又兵衛]] {{KIA}} * [[ファイル:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[国司親相]] * [[ファイル:Alex K Hiroshima Mori kamon.svg|25x20px]] [[益田親施]] |strength1 = 約3,200名 |strength2 = |casualties1= 戦死者:約60人 |casualties2= 戦死者:約400人 }} [[ファイル:蛤御門.jpg|thumb|蛤御門(2004年8月31日)]] [[ファイル:Hamagurigomon-dankon1.JPG|thumb|蛤御門の門柱に残る弾痕(2005年10月)]] '''禁門の変'''(きんもんのへん)は、[[元治]]元年[[7月19日 (旧暦)|7月19日]]([[1864年]][[8月20日]])に、[[京都]]で起きた武力衝突事件。'''蛤御門の変'''(はまぐりごもんのへん)、'''元治の変'''(げんじのへん)、'''元治甲子の変'''とも呼ばれる。 ==概要== 前年の[[八月十八日の政変]]により京都を追放されていた[[長州藩]]勢力が、[[会津藩]]主・[[京都守護職]][[松平容保]]らの排除を目指して挙兵し、京都市中において[[市街戦]]を繰り広げた事件である。[[畿内]]における大名勢力同士の交戦は[[大坂の陣|大坂夏の陣]]([[1615年]])以来であり、京都市中も戦火により約3万戸が焼失するなど、太平の世を揺るがす大事件であった。 [[大砲]]も投入された激しい戦闘の結果、長州藩勢は敗北し、[[尊王攘夷]]派は[[真木保臣]]ら急進的指導者の大半を失ったことで、その勢力を大きく後退させることとなった。一方、長州掃討の主力を担った[[一橋慶喜]]・会津藩・[[桑名藩]]の協調により、その後の京都政局は主導されることとなる([[一会桑政権]]も参照)。 禁門の変後、長州藩は「[[朝敵]]」となり、[[長州征討#第一次長州征討|第一次長州征討]]が行われるが、その後も長州藩の政治的復権をねらって[[薩長同盟]]([[1866年]])が結ばれ、[[四侯会議]]([[1867年]])においても長州藩処分問題が主要な議題とされるなど、幕末の政争における中心的な問題となった。 「禁門の変」あるいは「蛤御門の変」の名称は、激戦地が[[京都御所]]の御門周辺であったことによる。[[蛤御門]]は現在の[[京都御苑]]の西側に位置し、今も門の梁には弾痕が残る。 == 経過 == 急進的な尊皇攘夷論を掲げ、京都政局を主導していた長州藩は、[[1863年]]([[文久]]3年)に会津藩と[[薩摩藩]]らの主導による政変(八月十八日の政変)の結果、藩兵は任を解かれて京都を追放され、[[藩主]]の[[毛利敬親]]と子の[[毛利定広]]は国許へ謹慎を命じられるなど、政治的な主導権を失った。一方、京や[[大坂]]に潜伏した数名の長州尊攘派は、失地回復を目指して行動を続けていた。 政変により対外戦争も辞さぬ急進的な攘夷路線は後退したものの、朝廷はなお攘夷を主張し続け、1864年(元治元年)、[[横浜港]]の鎖港方針が朝幕双方によって合意された。しかし幕府内の対立もあって鎖港は実行されず、3月には鎖港実行を求めて[[水戸藩]]尊攘派が蜂起する([[天狗党の乱]])。こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間で長州藩の京都政局復帰を望む声が高まることとなった。 長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込もうとする積極策が論じられた。積極策を主張したのは[[来島又兵衛]]、真木保臣らであり、[[木戸孝允|桂小五郎(木戸孝允)]]、[[高杉晋作]]、[[久坂玄瑞]]らは慎重な姿勢を取るべきと主張した。[[6月5日 (旧暦)|6月5日]]の[[池田屋事件]]で[[新選組]]に[[藩士]]を殺された変報が長州にもたらされると、慎重派の[[周布政之助]]、高杉晋作や[[宍戸真澂]]らは藩論の沈静化に努めるが、[[福原元たけ|福原元{{CP932フォント|僴}}]]や[[益田親施]]、[[国司親相]]の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。益田、久坂らは[[大山崎町|山崎]][[天王山]]、宝山に、国司、来島又兵衛らは嵯峨[[天龍寺]]に、福原元{{CP932フォント|僴}}は[[伏見]]長州屋敷に兵を集めて陣営を構える。 6月24日、久坂は長州藩の罪の回復を願う嘆願書を朝廷に奉り、長州藩に同情し寛大な措置を要望する藩士や公卿もいたが、薩摩藩士[[吉井友実|吉井幸輔]]、[[土佐藩|土佐]]藩士[[乾正厚|乾市郎平]]、[[久留米藩|久留米]]藩士[[大塚敬介]]らは議して、長州藩兵の入京を阻止せんとの連署の意見書を、同7月17日朝廷に建白した。朝廷内部では長州勢の駆逐を求める強硬派と宥和派が対立し、18日夜には[[有栖川宮幟仁親王|有栖川宮幟仁]]・[[有栖川宮熾仁|熾仁]]両親王、[[中山忠能]]らが急遽参内し、長州勢の入京と松平容保の追放を訴えた。[[禁裏御守衛総督]]・[[一橋慶喜]]は長州藩兵に退去を呼びかけるが、一貫して会津藩擁護の姿勢を取る[[孝明天皇]]に繰り返し長州掃討を命じられ、最終的に強硬姿勢に転じた。 久坂は朝廷の退去命令に従おうとするも、来島、真木らの進発論に押されやむなく挙兵。19日、京都蛤御門([[京都市]][[上京区]])付近で長州藩兵と会津・[[桑名藩|桑名]]藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。一時長州勢は[[福岡藩|筑前藩]]が守る[[中立売門]]を突破して[[京都御所]]内に侵入するも、[[乾門]]を守る薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退した。御所内で来島又兵衛、久坂玄瑞、[[入江九一]]、[[寺島忠三郎]]らは自害した。 帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火で京都市街は21日朝にかけて「[[どんどん焼け]]」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の[[真宗本廟|東本願寺]]に至る広い範囲の[[街区]]や[[社寺]]が焼失した。 藩主父子が国司親相に与えた軍令状が発見されたことも重なり、23日には毛利敬親の追討令が発せられ、長州藩は[[朝敵]]となった<ref>藩主父子の官位復旧が認められ、上京が再び許されるのは、[[王政復古 (日本)|王政復古]]政変前日の慶應3年(1868年)12月8日である。</ref>。長州藩兵は履物に「'''薩賊会奸'''」などと書きつけて踏みつけるようにして歩いたとされ、薩摩や会津への深い遺恨が後世に伝わっている。 ==脚注== {{reflist}} {{coord|35|01|23.24|N|135|45|34.47|E|region:JP_type:event|display=title}} {{DEFAULTSORT:きんもんのへん}} [[Category:幕末の事件]] [[Category:江戸時代の戦い]] [[Category:幕末の京都]] [[Category:上京区の歴史]] [[Category:山城国|事きんもんのへん]] [[Category:1864年の日本]]
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