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'''神保 長誠'''(じんぼう ながのぶ、生年不詳 - [[文亀]]元年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]([[1501年]][[12月28日]]))は、[[室町時代]]から[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[越中国|越中]][[放生津城]]を拠点とする[[射水郡|射水]]・[[婦負郡]][[守護代]]及び[[紀伊国|紀伊]]分郡守護代であり、[[畠山政長]](畠山尾州家)の家臣である。 父については、[[畠山持国]]の後継者を巡って息子の[[畠山義就]]を推す[[遊佐国助]]達と争い没落した持国の甥の[[畠山政久|畠山弥三郎]]派の[[神保国宗]]であると推測されるが定かではない。通称は越前守、宗右衛門尉、孫三郎。子に[[神保慶宗|慶宗]]。 == 生涯 == 放生津城が陥落し国宗が消息不明となった後、[[長禄]]3年([[1459年]])に弥三郎派が復権に成功するが、その時には長誠が[[神保氏]]の惣領として歴史の表舞台に登場することは確かである。弥三郎が亡くなり弟の[[畠山政長]]が擁立されると、長誠は[[遊佐長直]]と共に腹心として仕えた。 [[応仁]]元年([[1467年]])、政長が[[山名宗全]]・[[斯波義廉]]の後ろ盾を得て復権した義就との政争に敗れると、長誠は政長に[[上御霊神社]]での挙兵を薦め、これにより[[応仁の乱]]が勃発した。長誠は[[細川勝元]]の側近[[安富元綱]]と昵懇であった為細川軍の支援を期待したが、勝元は動かず政長軍は敗れてしまった([[御霊合戦]])。しかしその後長誠は各地で奮戦し、[[上杉定正]]にその武勇を激賞されるなど、目覚しい活躍ぶりを見せた。その後越中へ戻り、[[倉垣荘]]など[[寺社本所領]]を押領して勢力の拡大に努めた。 [[明応]]2年([[1493年]])に、[[細川政元]]などが[[足利義澄]]を擁立して10代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義稙|足利義材]]を廃立して政長を自害させた[[明応の政変]]が起こった。長誠は中風を煩って越中に帰国中だったため難を免れたが、部下の越中衆の多くが[[河内国|河内]][[正覚寺]]での戦いで政長と共に殉じた。神保・椎名両氏など越中勢力は共に打撃を受けたが、長誠は越中をよくまとめている。義材が京都の幽閉先である[[上原元秀]]の屋敷を脱して長誠を頼ると、これを迎えて放生津の正光寺を将軍御所として改装して[[越中公方]]と呼ばれた。 長誠は細川政元派の[[畠山義豊|畠山基家]]軍の越中侵攻をたびたび撃退して軍事力を誇示する一方、被官鞍河兵庫助に数千貫の料足を持たせて京に送り、義材の将軍復帰工作に尽力するなど、和戦双方の手で義材の上洛を支援した。その結果、義材は政元側との和睦交渉が進展したという認識を持ちはじめ、明応8年([[1499年]])に義尹(義材より改名)は越前へ移った。しかし政元に義尹との和睦意識はなく、義尹は軍事行動で上洛を図るが失敗し、[[周防国|周防]]の[[大内義興]]を頼った。この時長誠は息子の慶宗率いる越中勢を派兵し、周防まで同行させている。 文亀元年(1501年)に病没。肖像が[[富山市]]富崎の[[本覚寺 (富山市)|本覚寺]]に残されている。 == 関連項目 == * [[神保氏]] * [[畠山氏]] {{DEFAULTSORT:しんほうなかのふ}} [[category:戦国武将]] [[Category:神保氏|なかのふ]] [[Category:越中国の人物]] [[Category:守護代]] [[Category:生年不明]] [[Category:1501年没]]
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