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'''磯禅師'''(いそのぜんじ、[[生没年不詳]])は、[[平安時代]]末期の女性。[[白拍子]]。[[静御前]]の母。'''礒野禅尼'''とも。 出身地は[[大和国]]磯野(現在の[[奈良県]][[大和高田市]]礒野)とも[[讃岐国]]小磯(現在の[[香川県]][[東かがわ市]]小磯)ともいわれる。自身も白拍子であり、『[[貴嶺問答]]』によると京の貴族の屋敷に白拍子の派遣などを行っていた。 [[鳥羽天皇]]の世に、藤原通憲([[信西]])がすぐれた曲を選んで、磯禅師に白い[[水干]]に鞘巻をさし、[[烏帽子]]の男装で舞わせたのが[[白拍子]]の始まりと『[[徒然草]]』にある。静御前に白拍子を伝えたという(ただし、『徒然草』は磯禅師や静御前が生きた時代の150年ほど後に書かれたものなので信憑性はない)。 娘の静は[[源義経]]に愛され妾となる。[[文治]]元年([[1185年]])、義経が兄の[[源頼朝|頼朝]]と対立して京を落ちると静は捕らえられ、翌文治2年([[1186年]])3月に磯禅師と静の母子は[[鎌倉]]へ送られる。宿所に鎌倉の[[御家人]]たちが勝手に押しかけて宴会を催した時、磯禅師は舞を披露している。 静は鎌倉で義経の子を産むが、男子であったため頼朝が殺害を命じる。静は泣き喚いて離さなかったが、磯禅師が子を取り上げて[[安達清常]]に渡し、子は[[由比ヶ浜]]に遺棄された。 その後、磯禅師と静は[[北条政子]]と[[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]に多くの重宝を与えられ、京に帰された。奈良県大和高田市礒野は礒野禅尼の里といわれ、静はここに身を寄せたとも伝えられる。 {{デフォルトソート:いそのせんし}} [[Category:平安時代の女性]] [[Category:白拍子]] [[Category:生没年不詳]]
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