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'''磐城平城'''(いわきたいらじょう)は、[[陸奥国]][[磐前郡]]磐城平(現:[[福島県]][[いわき市]][[平 (いわき市)|平]])に立地した、[[磐城平藩]]の藩庁の[[城]]である。別名は'''龍ヶ城'''(りゅうがじょう)。 ==沿革== [[1600年]]の[[関ヶ原の戦い]]の結果、それまで[[大館城 (陸奥国)|飯野平城]]を居城としていた[[岩城氏]]が追放され、[[1602年]]に[[徳川幕府]][[譜代]]の[[鳥居忠政]]が飯野平に転入した。鳥居忠政は、都市名を[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]までの「飯野平」から、岩城の「いわ」の字を変更して「磐城平」に改めて[[磐城平藩]]を樹立し、[[飯野八幡宮]]を現在地である八幡小路に移設し、その飯野八幡宮の跡地に磐城平城の建設を命じた。城は[[1603年]]に着工し、12年の歳月を費やして[[1615年]]に梯郭式[[平城]]を完成させた。 [[天守]]は造られず、本丸の三層櫓がその代わりとなった。その姿は、「''磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ''」と詠われた。また、[[水戸市|水戸]]を[[徳川頼房]]の本拠地にさせたのと同じく、磐城平を鳥居忠政の本拠地とさせた主な目的は、[[仙台市|仙台]]を本拠地とする[[伊達政宗]]への牽制であった。 [[1868年]]の[[戊辰戦争]]では、[[奥羽越列藩同盟]]に与した当時の磐城平藩[[家老]]・[[上坂助太夫]]は、[[磐城の戦い|磐城平攻防戦]]で[[明治政府]]軍に敗れ、自ら城を焼き払って逃走した。 ==地理== ===城周辺=== 城内には御三階櫓・隅図櫓・塗師櫓・八ッ棟櫓・追手門櫓・中門櫓・六間門櫓などがあった。また、茶室緑天庵も記録に残っている。 ===城下町・磐城平=== 鳥居忠政が磐城平を本拠地とすると、[[城下町]]の形成は、[[城]]を中心に「階層別居住区を設けない」都市造りから、城を中心に武家町・町人町・寺町を分けて「階層別居住区を設ける」都市造りに変更された。「[[江戸]]」と「[[東京]]」が同地異質、「[[岐阜城|岐阜]]」と「[[加納城|加納]]」が同地異質であるのと同じく、「[[大館城 (陸奥国)|飯野平]]」と「磐城平」は同地異質で都市造りの性質が異なっている。 [[1604年]]には基礎が完成し、町人たちに、防災のための手桶や梯子を用意することと、清掃の徹底・町木戸の使用を命じた。更に、十人組を作らせ、治安の責任の一端を持たせた。城下の人々の中で、特別な権利を持った商人の多くは、関ヶ原以前の[[岩城氏]]の家臣や、門閥商人出身者であった。 [[紺屋町]]は当初は現在の八幡小路にあり、磐城平城が建築される際に現在地に移された。又、八幡小路には、[[安藤氏]]が藩主となった時期には[[藩校]]・施政堂が立地した。 菩提院町は古くは禰宜町といわれたり、立町は御徒町といわれていた。磐城平城下5口(長橋口、久保町口、北目口、鎌田口、新川町口)を通る馬の数は、1口で760余りであった。また、磐城平城下には職人も多く、[[鍛冶町]]には、刀鍛冶の根本国虎や鈴木貞則などの名工がいた。 *武家町 :六間門・揚土・八幡小路・道匠小路・曲松・杉平・桜町・掻槌小路・田町・柳町・梅香町・四軒町・白銀町・番匠町・鷹匠町・仲間町 など *仲間・足軽町 :仲間町・風呂ノ沢・胡麻沢・新町・立町・久保町 など *町人町 :一町目・二町目・三町目・四町目・五町目・十五町目・久保町・紺屋町・研町・長橋町・材木町・菩提院町 など 町人町は町奉行の管轄だったが、[[内藤氏]]統治下で作られた新川町・鎌田町・北目町は新しい町だったため、郡奉行の管轄となった。磐城平城下の玄関である長橋口・鎌田口・久保町口には、惣木戸が設けられた。現在では、長橋口が尼子橋北口(内郷御台境交差点)付近に、鎌田口が平大橋東口(鎌田交差点)付近に当たる。 ==遺構== 現在残っている遺構は、石垣・土塁・水堀であり、一部は丹後沢公園として残っており、この外には、岩城氏以来の歴史遺産を展示する[[龍ヶ城美術館]]が立地している。 しかし、城跡の大半は、個人所有の住宅地として払い下げられており、石碑の立つ城跡への立ち入りはできない(柵の外から眺めるのみ可能)。復元の話も何度かあったが、資金不足が原因でいずれも実現に至らなかった。[[1897年]]に[[常磐線]]を開通させる際には、水堀が一部埋め立てられた。塗師櫓石垣は、いわき市の史跡に指定されている。 建築物として、掻槌門が市内平藤間の民家に、長橋門が市内平新川町の民家に、どこの門か定かではないが城門が市内平沼ノ内賢沼寺に、それぞれ移築され現存する。尚、磐城平城跡の住所表記は、「''いわき市平字旧城跡''」となっている。 [[2010年]][[6月13日]]には、磐城平城跡の市民公園への移行を目指す「磐城平城史跡公園の会」が設立された<ref>[http://ameblo.jp/iwaki-johodo/entry-10565685786.html いわき情報堂 2010年6月17日 磐城平城本丸跡の整備を目指し発足]</ref><ref>[http://www.hibinoshinbun.com/files/153/taira.html 日々の新聞 第153号 お城山の保存と活用]</ref>。又、2010年以後は、毎年9月に「龍ヶ城月見の宴」が開催されてい る<ref>[http://iwakikankou.blog12.fc2.com/blog-entry-444.html いわき市総合観光案内所 スタッフブログ 2010年9月27日] </ref>。 ==観光== ===アクセス=== *[[いわき駅]]北口より徒歩。 == 関連項目 == *[[日本の城一覧]] *[[大館城 (陸奥国)]](飯野平城) *[[磐城平藩]] *[[飯野八幡宮]] *[[加納城]]:藩主安藤氏の前居城。 *[[:de:Schloss Drachenburg]]:ドイツの龍ヶ城。[[ケーニヒスヴィンター]]市に立地する。 ==脚注== <references/> ==外部リンク== *[http://www.fsinet.or.jp/~k_kaoru/album/020814frame.htm 忘れかけられた城 磐城平城址(2002年8月14日撮影)] *[http://homepage1.nifty.com/05170517/zenkoku/fukushima_1/1353_oodatejyo_1.htm 全国のお城・城跡 磐城平城他] {{DEFAULTSORT:いわきたいらしよう}} [[Category:福島県の城]] [[Category:いわき市の歴史]]
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