コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
石原莞爾のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
石原莞爾
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{基礎情報 軍人 | 氏名 = 石原 莞爾 | 各国語表記 = | 生年月日 = [[1889年]][[1月18日]] | 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1889|1|18|1949|8|15}} | 画像 = Kanji Ishiwara2.JPG | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = 石原莞爾(1934年) | 渾名 = 帝国陸軍の異端児 | 生誕地 = {{JPN}} [[山形県]][[西田川郡]][[鶴岡市|鶴岡]] | 死没地 = | 所属組織 = {{IJARMY}} | 軍歴 = 1909 - 1941 | 最終階級 = 陸軍[[中将]] | 除隊後 = [[立命館大学]][[教授]] | 墓所 = 山形県飽海郡遊佐町菅里 | 署名 = }} '''石原 莞爾'''(いしわら かんじ<ref>読みは「いしわら」だが、「いしはら」と誤読されることがある。工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず―近衛文麿と天皇』([[日本経済新聞社]] ISBN 978-4532165635)153ページには、「いしはら」と[[ルビ]]が振られている。</ref>、[[明治]]22年([[1889年]])[[1月18日]] ([[戸籍]]の上では17日)- [[昭和]]24年([[1949年]])[[8月15日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]。[[陸軍中将]][[正四位]][[勲一等]][[功三級]]。「[[世界最終戦論]]」など[[軍事]][[思想家]]としても知られる。「'''帝国陸軍の異端児'''」の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。 [[関東軍]]作戦参謀として、[[板垣征四郎]]らとともに[[柳条湖事件]]を起し[[満州事変]]を成功させた首謀者であるが、のちに[[東條英機]]との対立から[[予備役]]に追いやられ、病気のため[[戦犯]]指定を免れた。 == 生涯 == === 幼少年時代 === 明治22年([[1889年]])[[1月18日]]に[[山形県]][[西田川郡]][[鶴岡市|鶴岡]]<!-- 鶴岡町:1889年4月1日~、鶴岡市:1924年10月1日~ -->で旧[[庄内藩]]士<ref>祖父の石原重道は、庄内藩物頭久留多門の四男で、石原家を相続し、酒田町奉行を務めた。曽祖父久留多門は、[[庄内藩#出羽松山藩|松山藩]]付家老久留郡司の孫。『新編庄内人名辞典』</ref>、[[飯能警察署|飯能警察]]署長の石原啓介とカネイの三男として生まれる。但し戸籍上は1月17日となっている。啓介とカネイは六男四女を儲け、莞爾は三男であるが長男の泉が生後二ヶ月で、次男の孫次が二週間で亡くなり、莞爾が事実上の長男である。四男の次郎は海軍中佐となるが1940年6月に航空機事故で殉職する<ref>1940年6月28日、石原二郎海軍中佐は美幌航空隊建設委員長として航空機で会議へ向かう途上で北海道亀田郡椴法華村において濃霧に遭遇したために山腹に激突し、殉職した。二郎は中学校を経て海軍兵学校に入学し、戦艦霧島の砲術長から海軍兵学校砲術科長に転出する。莞爾がこれを知った時には二千六百年奉の演習で神武東征の新航路の途上であった。阿部博行『石原莞爾(上)生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)8項、463項を参照</ref>。 五男の三郎は一歳で亡くなり、六男の六郎は戦後莞爾と共に行動して昭和51年(1976年)まで西山農場で暮らす。長女の元は医者の家へ、二女の志んは軍人の家へ嫁ぎ、三女の豊、四女の貞は24歳でなくなっている。 父親の転勤の為、転住を重ねている。幼年期は乱暴な性格であり、まだ小学生でなかった石原を姉が子守のため学校に連れて行った時には教室で大暴れして戸を叩きながら「破るぞ、破るぞ」と怒鳴り散らした。しかし利発な一面もあり、その学校の校長が石原に試験をやらせてみると一年生で一番の成績であり、また石原の三年生の頃の成績を見てみると[[読書]]や[[算数]]、[[作文]]の成績が優れていた<ref name="石原莞爾(上)">阿部博行『石原莞爾(上) 生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)</ref>。 また病弱でもあり、[[東北大学|東北帝国大学]]付属病院に保管されていた石原の病歴を見てみると小児時代に[[麻疹]]にかかり[[種痘]]を何度か受けている<ref name="石原莞爾(上)"/>。 石原は子供時代から近所の子供を集めて戦争ごっこで遊び、小学生の友達と将来の夢について尋ねられると「陸軍大将になる」と言っていた<ref name="石原莞爾(上)"/>。 === 軍学校時代 === 明治35年([[1902年]])に[[仙台陸軍地方幼年学校]]に受験して合格し、入学した。ここで石原は総員51名の中で一番の成績を維持した。特に[[ドイツ語]]、[[数学]]、国漢文などの学科の成績が良かった。一方で[[体操競技|器械体操]]や[[剣術]]などの術科は不得意であった。 明治38年([[1905年]])には[[陸軍幼年学校|陸軍中央幼年学校]]に入学し、基本教練や[[武器]]の分解組立、[[乗馬]]練習などの教育訓練を施された。石原は学校の勉強だけでなく[[軍事史|戦史]]や[[哲学]]などの書物をよく読んでいた。[[田中智学]]の[[法華経]]に関する本を読み始めたのもこの頃である。成績は仙台地方幼年学校出身者の中では最高位であった。この上には[[横山勇]]、島本正一などがいる。また[[東京]]に在住していたため、[[乃木希典]]や[[大隈重信]]の私邸を訪ね、教えをこうている<ref>早瀬利之『石原莞爾 満州合衆国』光人社、2003年 p.14</ref>。 明治40年([[1907年]])、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]に入学し、ここでも[[軍事学]]の勉強は教室と自習室で済ませ、休日は[[図書館]]に通って戦史や哲学、[[社会科学]]の自習や名士を訪問した。学科成績は350名の中で3位だったが、区隊長への反抗や侮辱のため、卒業成績は6位であった。 士官学校卒業後は原隊に復帰して[[見習士官]]の教官として非常に厳しい教育訓練を行った。ここで軍事雑誌に掲載された戦術問題に解答を投稿するなどして学習していたが、軍事学以外の哲学や[[歴史]]の勉学にも励んでいる。[[南次郎]]よりアジア主義の薫陶を受けていたため、明治44年([[1911年]])の春川駐屯時には[[孫文]]大勝の報を聞いた時は、部下にその意義を説いて共に「支那革命万歳」と叫んだと言う。 連隊長命令で不本意ながら[[陸軍大学校]]を受験することになった。受験科目は初級戦術学、築城学、兵器学、[[地形学]]、交通学、軍制学、[[語学]]、[[数学]]、歴史などであり、各科目三時間または三時間半で解答するというものであった。部隊長として勤務することを望んでいた石原は受験に対してもやる気がなく、試験準備に一心に打ち込むこともなく淡々と普段の部隊勤務をこなし、試験会場にも一切の参考書を持ってこず、どうせ受からないと試験期間中は全く勉強しなかった。しかし合格し、[[大正]]4年([[1915年]])に入学することになる。ここでは戦術学、[[戦略]]、[[軍事史]]などの教育を施されたが、独学してきた石原にとっては膨大な宿題も楽にこなし、残った時間を[[思想]]や[[宗教]]の勉強に充てていた。その戦術知能は高く、研究討論でも教官を言い負かすこともあった。そして大正7年([[1918年]])に陸軍大学校を次席で卒業した(30期、卒業生は60人)。首席は、[[鈴木率道]]であった。[[卒業論文]]は[[北越戦争]]を作戦的に研究した『[[越後長岡藩|長岡藩]]士・[[河井継之助]]』であった。 === 在外武官時代 === [[ドイツ]]へ留学([[南部氏]][[ドイツ]]別邸宿泊)する。[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]や[[フリードリヒ2世 (プロイセン王)|フリードリヒ大王]]らの[[伝記]]を読みあさった。また、[[日蓮宗]]系の新宗教[[国柱会]]の熱心な信者として知られる。大正12年([[1923年]])、国柱会が政治団体の[[立憲養正會]]を設立すると、国柱会の[[田中智學]]は政権獲得の大決心があってのことだろうから、「(田中)大先生ノ御言葉ガ、間違イナクンバ(法華の教えによる[[国立戒壇]]建立と政権獲得の)時ハ来レル也」と日記に書き残している。そのころ田中智學には「人殺しをせざるをえない軍人を辞めたい」と述べたと言われる。 === 関東軍参謀時代 === 昭和3年([[1928年]])に関東軍作戦主任[[参謀]]として[[満州]]に赴任した。自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。昭和6年([[1931年]])に[[板垣征四郎]]らと[[満州事変]]を実行、23万の[[張学良]]軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の[[占領]]を実現した。[[満州事変#柳条湖事件|柳条湖事件]]の記念館に首謀者としてただ二人、板垣と石原の[[レリーフ]]が掲示されている。満州事変をきっかけに行った[[満州国]]の建国では「[[王道楽土]]」、「[[五族協和]]」を[[標語|スローガン]]とし、満蒙領有論から満蒙独立論へ転向していく。[[日本人]]も[[国籍]]を離脱して満州人になるべきだと語ったように、石原が構想していたのは[[大日本帝国|日本]]及び[[中国]]を父母とした[[国家|独立国]](「東洋の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]」)であったが、その実は石原独自の構想である[[世界最終戦論|最終戦争]]たる日米決戦に備えるための第一段階であり、それを実現するための民族協和であったと指摘される。 === 二・二六事件の鎮圧 === 昭和11年([[1936年]])の[[二・二六事件]]の際、石原は[[陸軍参謀本部|参謀本部]]作戦課長だったが、[[東京警備司令部]]参謀兼務で反乱軍の鎮圧の先頭にたった。この時の石原の態度について[[昭和天皇]]は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している<ref>『昭和天皇独白録』</ref>。 この時、殆どの軍中枢部の将校は反乱軍に阻止されて登庁出来なかったが、統制派にも皇道派にも属さず、自称「満州派」の石原は反乱軍から見て敵か味方か判らなかったため登庁することができた。[[安藤輝三]]大尉は部下に銃を構えさせて石原の登庁を陸軍省入り口で阻止しようとしたが、石原は逆に「何が維新だ、陛下の軍隊を私するな! この石原を殺したければ直接貴様の手で殺せ!」と怒鳴りつけ参謀本部に入った。反乱軍は石原のあまりの剣幕と尊大な態度におされて、何もすることができなかった<ref>早瀬利之『石原莞爾 満州合衆国』光人社、2003年 p.151</ref>。また、庁内においても、[[栗原安秀]]中尉にピストルを突きつけられ「石原大佐と我々では考えが違うところもあると思うのですが、昭和維新についてどんな考えをお持ちでしょうか?」威嚇的にたずねれるも、「俺にはよくわからん。自分の考えは軍備と国力を充実させればそれが維新になるというものだ」といい、「こんなことはすぐやめろ!やめないと討伐するぞ!」と罵倒し、石原のすさまじい気合におされて栗原は殺害を中止、事なきを得ている。 === 技術に対しての軽視 === 昭和11年8月、閑院宮春仁王が陸軍大学の研究部主事となり、昭和10年、開発されたディーゼルエンジン搭載の「八九式中戦車」の機動兵団の運用について、参謀本部や石原に意見を聞いた。しかし参謀たちはおろか、石原も大局的な国防論は話しても、戦車をどう使っていくかという戦略的な技術についてはなにひとつ聞けなかった。現場の技術者および新しい技術を軽視する立場は他の参謀たちと変わらなかった。 === 左遷 === 1930年代後半から、関東軍が主導する形で、華北や内蒙古を国民政府から独立させて勢力圏下とする工作が活発化すると、対ソ戦に備えた満州での軍拡を目していた石原は、中国戦線に大量の人員と物資が割かれることは看過しがたく不拡大方針を立てた。<br> [[1936年]](昭和11年)、関東軍が進めていた[[内モンゴル自治区|内蒙古]]の分離独立工作(いわゆる「内蒙工作」)に対し、中央の統制に服するよう説得に出かけた時には、現地参謀であった[[武藤章]]が「石原閣下が満州事変当時にされた行動を見習っている」と反論し同席の若手参謀らも哄笑、石原は絶句したという。<br> [[1937年]](昭和12年)の[[支那事変]]([[日中戦争]])開始時には[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]作戦部長であったが、ここでも作戦課長の武藤などは強硬路線を主張、不拡大で参謀本部をまとめることはできなかった。石原は無策のままでは早期和平方針を達成できないと判断し、最後の切り札として近衛首相に「北支の日本軍は山海関の線まで撤退して不戦の意を示し、近衛首相自ら南京に飛び、蒋介石と直接会見して日支提携の大芝居を打つ。これには石原自ら随行する」と進言したものの、近衛と風見章内閣書記官長に拒絶された。戦線が泥沼化することを予見して不拡大方針を唱え、[[トラウトマン工作]]にも関与したが、当時の関東軍参謀長・[[東條英機]]ら陸軍中枢と対立し、9月に参謀本部の機構改革では参謀本部から関東軍に参謀副長として左遷された。 === ふたたび関東軍へ・東條英機との確執 === [[Image:Manchukuo Decoration Diploma for Kanji Ishiwara.JPG|thumb|250px|1940年に満洲国から贈られた勲一位柱国章(日本の[[勲一等瑞宝章]]に相当)の勲記]] 昭和12年(1937年)9月に関東軍参謀副長に任命されて10月には新京に着任する。翌年の春から参謀長の東條英機と満州国に関する戦略構想を巡って確執が深まり、石原と東條の不仲は決定的なものになっていった。石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。以後、石原の東條への侮蔑は徹底したものとなり、「憲兵隊しか使えない女々しいやつ」などと罵倒、事ある毎に東條を無能呼ばわりしていく。一方東條の側も石原と対立、特に石原が上官に対して無遠慮に自らの見解を述べることに不快感を持っていたため、石原の批判的な言動を「許すべからざるもの」と思っていた。昭和13年([[1938年]])に参謀副長を罷免されて[[舞鶴要塞]][[司令官]]に補せられ、さらに同14年([[1939年]])には留守[[第16師団 (日本軍)|第16師団]]に着任して[[師団長]]に補せられるが、これは東條の根回しによるものと考えられる。しかし[[太平洋戦争]]開戦前の昭和16年([[1941年]])3月に現役を退いて[[予備役]]へ編入された。これ以降は教育や評論・執筆活動、講演活動などに勤しむこととなる。 === 立命館大学国防学研究所長 === 現役を退いた石原は昭和16年(1941年)4月に[[立命館]][[総長]]・[[中川小十郎]]が新設した国防学講座の講師として招待された。 日本の知識人が西洋の知識人と比べて軍事学知識が貧弱であり、[[政治学]]や[[経済学]]を教える大学には[[軍事学]]の講座が必要だと考えていた石原は、大学に文部省から圧力があるかもしれないと総長に確認したうえで承諾した。昭和16年の『立命館要覧』によれば国防学が軍人のものだという旧時代的な観念を清算して国民が国防の知識を得ることが急務というのが講座設置の理由であった。さらに国防論、戦争史、国防経済論などの科目と国防学研究所を設置し、この研究所所長に石原が就任した。講師には第一次世界大戦史の[[酒井鎬次]]中将、ナポレオン戦史の伊藤政之助少将、国体学の[[里見岸雄]]などがいた。週に1回から2回程度の講義を担当し、たまに乗馬部の学生の課外教育を行い、余暇は読書で過ごした。 しかし東條による石原の監視活動が憲兵によって行われており、講義内容から石原宅の訪問客まで逐一憲兵隊本部に報告されている。大学への憲兵と特高警察の圧力が強まったために大学を辞職して講義の後任を里見に任せた。送別会が開かれ、総長等の見送りを受けて京都を去り、帰郷した。この年の講義をまとめた『[[国防政治論]]』を、昭和17年([[1942年]])に聖紀書房から出版した。 === 評論・政治活動 === 太平洋戦争([[大東亜戦争]])に対しては「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、ついに受け入れられることはなかった。石原の事態打開の策は奇しくも最後通牒と言われる[[ハルノート]]とほぼ同様の内容であった(戦後石原は太平洋戦争に対しても、[[サイパン島|サイパン]]の要塞化、攻勢終末点の確立をすることにより不敗の態勢が可能である旨も語っている)。中国東亜連盟の[[繆斌]]を通じ和平の道を探るが、[[重光葵]]や[[米内光政]]の反対にあい失敗した<ref>なお、この工作の失敗を機に、当時の内閣であった[[小磯内閣]]も瓦解している。</ref>。 独ソ戦に対しては、石原は1941年10月当時から、ドイツは地形の異なるバルカン半島においても西部戦線と同一の戦法を採っており、また東部戦線においてもその戦法に何ら変化の跡が見られないことから、ドイツはソ連に勝てないと断言していた。<ref>『敗因を衝く軍閥専横の實相』田中隆吉 山水社(1946年1月20日)74p</ref> 『[[世界最終戦論]]』(後、『最終戦争論』と改題)を唱え東亜連盟(日本、満州、中国の政治の独立(朝鮮は自治政府)、経済の一体化、国防の共同化の実現を目指したもの)構想を提案し、戦後の[[右翼]][[思想]]にも影響を与える。熱心な[[日蓮宗|日蓮主義]]者でもあり、最終戦論では戦争を正法流布の戦争ととらえていた事は余り知られていない。 最終戦争論とは、戦争自身が進化(戦争形態や武器等)してやがて絶滅する(絶対平和が到来する)という説である。その前提条件としていたのは、[[核兵器]]クラスの「一発で都市を壊滅させられる」武器と[[地球]]を無着陸で何回も周れるような兵器の存在を想定していた(1910年ごろの着想)。[[修辞技法|比喩]]として挙げられているのは[[織田信長]]で、[[火縄銃|鉄砲]]の存在が、日本を統一に導いたとしている。 === 東條英機の暗殺計画 === [[Image:Tatsukuma Ushijima.jpg|thumb|170px|東條英機を暗殺しようとした柔道家の牛島辰熊]] 昭和19年(1944年)6月、柔道家の[[牛島辰熊]]と[[津野田知重]]少佐が東條英機首相暗殺を企てた<ref>「秘録東条英機暗殺計画」津野田忠重</ref>。共に東亜連盟で石原莞爾に師事していた。 津野田が大本営参謀部三課の秘密文書を読み予想以上の日本軍の惨敗ぶりに愕然とし、牛島辰熊に相談してきた。「このままでは国民は全滅だ」と悟った2人は、東條を退陣させて戦争を止めるために皇族への「大東亜戦争現局に対する観察」という献策書を書き上げ、[[三笠宮]]、[[高松宮]]らを通じて直接お上へ渡してもらうことにした。 2人は献策書を持って石原が蟄居する山形県を訪ねた。石原は献策書を通読すると「一晩考えさせてくれ」と言って2人を泊まらせた。その献策書の欄外にははっきりと「非常手段、万止むを得ざる時には東條を斬る」と書かれていたからである。次の日の朝6時、津野田と牛島を座敷に通した石原は「今の状態では万事が手遅れだ」と言って赤鉛筆を取り、献策書末尾に「斬るに賛成」と書いた<ref>「東條英機暗殺の夏」吉松安弘</ref>。 石原の賛意を得た津野田と牛島は勇んで東京に戻り暗殺方法について話し合った。結果、習志野のガス学校で極秘開発されていた青酸ガス爆弾「茶瓶」を使い、牛島辰熊が実行することになったが、直前になって東條内閣が総退陣となった。しかし東條退陣後、どこで計画が漏れたのか、2人は9月に逮捕される。 後年、作家の[[増田俊也]]は著書「[[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]」の中で、この時牛島は弟子の[[木村政彦]]を鉄砲玉(実行犯)として使おうとしていたと記した。 === 戦後の活動 === 石原は、東條との対立が有利に働き、[[極東国際軍事裁判]]においては[[戦犯]]の指名から外れた。 戦後は東亜連盟を指導しながら[[ダグラス・マッカーサー|マッカーサー]]や[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]らを批判。また、戦前の主張の日米間で行われるとした「最終戦争論」を修正し、日本は[[日本国憲法第9条]]を武器として身に寸鉄を帯びず、米ソ間の争いを阻止し、最終戦争なしに世界が一つとなるべきとし、大アジア主義の観点から「我等は国共いづれが中国を支配するかを問わず、常にこれらと提携して東亜的指導原理の確立に努力すべきである」と主張した。 実生活においては自ら政治や軍事の一線に関わることはなく、庄内の「西山農場」にて同志と共同生活を送った。 元衆議院議員の[[加藤精三 (政治家)|加藤精三]]は[[従弟]]であり、その息子は元衆議院議員の[[加藤紘一]]。 ====東亜連盟==== [[Image:Kanji Ishiwara.jpg|thumb|200px|1945年頃の石原莞爾]] [[東亜連盟]]は[[日本人]]のみならず、[[中国人]]や[[朝鮮民族|朝鮮人]]からも多くの支持者がおり、東亜連盟等を通じて石原莞爾に師事したものに * [[福島清三郎]](柔道家、[[建国大学]]教授、武術専門学校師範。東亜連盟のサロンとして機能した義方会道場において後述の牛島、大山、曹の師にあたる人物であった) * [[牛島辰熊]](全日本2連覇の柔道家で、柔道史上最強といわれる[[木村政彦]]の師匠) * [[曺寧柱]]([[在日本大韓民国民団]]会長、[[剛柔流]][[空手道]]師範、[[大山倍達]]の師匠) * [[大山倍達]](空手家。[[極真会館]]創設者) * [[武田邦太郎]](農政と平和研究所所長、[[参議院議員]]) * [[橘樸]]([[ジャーナリスト]]・中国研究家、中国社会研究の先駆者) * [[木村武雄]]([[政治家]]、[[建設大臣]]) * [[小澤開作]]([[歯科医師]]、[[大陸浪人]]、指揮者[[小澤征爾]]の父、ミュージシャン[[小沢健二]]の祖父) * [[辻政信]](陸軍参謀、参議院議員) 等がいる。 ====東京裁判での主張==== 東京裁判には証人として山形県酒田の出張法廷に出廷し(これは病床の石原に尋問するために極東裁判所が特設したものである)、重ねて、満州事変は「支那軍の暴挙」に対する本庄関東軍司令官の命令による自衛行動であり、侵略ではないと持論を主張した<ref>「人類後史への出発 石原莞爾戦後著作集」石原莞爾平和思想研究会編</ref>。 また、よく法廷において「軍の満州国立案者にしても皆自分である。それなのに自分を、戦犯として連行しないのは腑に落ちない」と述べたと書かれることが多いが、実際には『石原莞爾宣誓供述書』によると「満州建国は右軍事的見解とは別個に、東北新政治革命の所産として、東北軍閥崩壊ののちに創建されたもので、わが軍事行動は契機とはなりましたが、断じて建国を目的とし、もしくはこれを手段として行ったのではなかったのであります」と満州事変と満州国建国について、自分が意図したのではないと述べ、自らが戦犯とされるのをさけるとともに、板垣・土肥原の弁護につながる発言をしていた。 東條との確執についての質問には、「私には些細ながら思想がある。東條という人間には思想はまったくない。だから対立のしようがない」といい、ここでも東條の無能さをこきおろした。 なお、[[柳条湖事件]]が関東軍の謀略であるという確たる証言が得られたのは、板垣・石原の指示で爆破工作を指揮した関東軍参謀[[花谷正]]が昭和30年(1955年)に手記を公表してからである <ref>(講談社『写真秘録 東京裁判』、中央公論社 児島襄『東京裁判』、「石原莞爾宣誓供述書」(石原莞爾平和思想研究会編「人類後史への出発 石原莞爾戦後著作集」展転社に収録)</ref>。 == エピソード == 幼少の頃からその秀才と奇抜な行動がエピソードとして残っている。<ref>阿部博行『石原莞爾(上)(下) 生涯とその時代』(法政大学出版局、2005年)を参考にした。</ref> * 明治28年([[1895年]])、子守のため姉二人が石原を[[学校]]に連れて行ったところ教室で暴れた。矢口校長が石原に試験をやらせてみると1年生では1番の成績であったため、1年間自宅で準備学習していたという名目で同年に2年生に編入することとなった。 * 仙台幼年学校では総員51人中最高の成績であり、[[代数学]]・[[植物学]]・[[ドイツ語]]が特に高得点であり、三年間第二位を大きく引き離して一番の成績を維持した。 * 当時、将校には[[スケッチ|写生]]の技能が必要であり、授業があった。同期生一同がこれに困っていると、石原は自分の[[男根]]を写生し、「便所ニテ毎週ノ題材ニ苦シミ我ガ宝ヲ写生ス」と記して提出し、物議を醸して石原退学まで検討された。この時は校長が石原の才能を惜しんで身柄を一時預かるということで一応解決した。 * 石原は学校の勉強よりも戦史、政治、哲学などの文献を読み、夏休みも帰省せずに勉強した。これは両親、特に父親との関係が不仲であったことが理由とされている。 * 自分の意見は、たとえそれが上司であっても大声で直言したと伝えられる。言われた側もその意見に従わざるを得ない不思議な気迫と雰囲気を持っていたという<ref>[[半藤一利]]、[[保坂正康]]2008『昭和の名称と愚将』文藝春秋:174</ref>。 * 陸軍士官学校でも[[軍事学]]よりも[[歴史学]]や[[哲学]]の勉強に励んだ。一方で軍事雑誌をよく読んで興味深い戦術問題が掲載されると答案を送り、次回に示される講評や出題者意見を興味深く読んでいた。 * 石原は[[酒]]や[[喫煙|タバコ]]をたしなまなかった。将校団の[[宴会]]の席で連隊長から三度飲酒を強要された時に「飲まん」と大声で怒鳴りつけた。以後、連隊長に気に入られることはなかった。ただしかなりの甘党で、菓子を食べながら議論や勉強をすることを好んでいた。 * 戦時下、東條の命令を受けて憲兵隊や特高警察に監視されていたが、憲兵隊や特高警察の中には監視にあたって石原に挨拶にいくものも少なくなかった。ところが彼らの多くが、石原の優れた見識に驚いて石原を尊敬するようになってしまい、東條への報告書を加減して提出するようになってしまった。 * 第65連隊から一人も陸大に入学した者がおらず不名誉だとして陸士成績が最優秀だった為に石原を受験させることが本人の意思とは関係なく決められた。石原はこれを断ったが、連隊長命令によって受験させられることになった。しかし石原は一日中部隊勤務に励んでおり、同僚はいつ勉強しているのかと不安に思っていた。石原はどうせ受からないのだから勉強は不要だとして試験期間に入ってからも一切勉強しなかった。5日間の試験期間中も試験の解答をさっさと提出して勉強せずに受験会場となった駐屯地の部隊の訓練を見学した。しかし連隊からは石原だけが合格した。 * 陸大入試の口頭試問で「[[機関銃]]の有効な使用法」を聞かれ、「[[飛行機]]に装備して敵の縦隊を射撃する」と解答した。更にその詳細については[[黒板]]に図を書いて「酔っぱらいが歩きながら小便をするように連続射撃する」と答えた。当時、機関銃を飛行機に装備する着想はまだなかった。 * 陸大では他兵科の運用についても学習するため夏休みには他兵科部隊勤務が実施された。その一環で砲車を車庫から出してこれを編成して行軍し、陣地に侵入するために砲列で射撃し、また車庫に収めるまでの行動を一人ずつ試験された。学生は複雑な号令で指揮することになる。ところが最後の番であった石原は指揮官の定位置について指揮刀を抜刀し、「いつも通りにやれ」と命令した。 * 陸大学生時代は成績は本来は首席であったが、何らかの都合で点数が変更されたため2位であった。これについては冬でも薄汚れた夏服を着用する石原を天皇の前で講演させることに抵抗があったと言う説や、石原の講演内容について大学の注文を石原が拒否したためと言う説、朝敵であった庄内藩出身であったためと言う説があり、明らかではない。 * [[ドイツ]]滞在中は、どこに行くのも[[羽織]][[袴]]で押し通したとされているが、あくまで正装のときであり、普段はスーツを着用していた。また、当時ドイツ国内でも「誰も見向きもしない」と評された[[ライカ]]の[[カメラ]]を購入し愛用していた。 * 石原はその奇行が面白おかしく脚色されることもあったが、とは言え相当な変わり者であったことも確かで、東條英機の副官を務めた[[西浦進]](陸士34期)は「石原さんはとにかく何でもかんでも反抗するし、投書ばかりしているし、何といっても無礼な下戸だった。軍人のくせに酒を飲まずに周りを冷たい眼で見ている、だから嫌われるのも当然だ」と評した<ref>[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]2007年6月号「昭和の陸軍 日本型組織の失敗」112頁 座談会 [[半藤一利]]の発言より。</ref>。しかしその反面、宗教教祖的なカリスマがあったことも事実であり、多くの信奉者が存在した。[[辻政信]]や[[服部卓四郎]]、[[花谷正]]などは初対面のときから石原の存在感に圧倒され、生涯を通じての石原崇拝者になった(『蒋介石の密使 辻政信』渡辺望 祥伝社新書 2013年) * [[歩兵第4連隊]]([[第2師団 (日本軍)|第2師団]]所属。本拠地は[[仙台]])長に就任すると、貧しい[[東北]]出身の兵が満期除隊後に生活の一助となるよう、厩舎でアンゴラ[[ウサギ]]の飼育を教え、除隊する兵にお土産として持たせた。また内務班の私的制裁を撲滅するために、同じ出身地同士の兵を中隊に集めた。連隊長自身が、兵食を食べて食事内容と味の向上を図り、浴場に循環式の洗浄装置を設置して清潔なお湯を供給し、[[酒保]]を改善するなど、兵士の生活改善に尽力したと言われる。 * 聨隊長時代、二年兵が満期除隊を迎えるのを見送っていた。羽織袴姿で並ぶ満期兵を前にして、かつての中隊長が長々と訓示をしている。突然、にわか雨が降ってきても、中隊長は訓示を止めない。そのとき、石原は「中隊長のバカヤロー、紋付きは借り物であるぞ!」と怒鳴った。<ref>{{Cite book |author=本城廣信 |year=1936 |title=非常時! 陸軍を擔ふ人々 |format= |publisher=普及社 |pages=14–15 |language=日本語 |url=http://openlibrary.org/works/OL13849686W/Hijoji!_Rikugun_o_ninau_hitobito |accessdate=2012-09-17}} </ref> * 上層部や上官の多く対して嫌悪感と敵対心を顕わにした石原だが、[[阿南惟幾]]は数少ない別格で、「阿南さんが言うなら……」とその指示に素直に従ったという。 * 戦後、病で動けなくなっていた石原は、昭和21年([[1946年]])東京飯田橋の逓信病院入院中、検事から尋問を受けたが、終始毅然とした態度を崩さず検事の高圧的な態度に怒りをもって抗議し、相手を睨みつけた。同席した米記者[[マーク・ゲイン]]は「きびしく、めったに瞬きもせず、私たちを射抜くような眼」と評した。<ref>保坂正康『昭和陸軍の研究』P・127~128 朝日文庫 朝日新聞社2006年</ref> *酒田出張法廷に出廷するため、リヤカーに乗って酒田へ出かけたが、この時のリヤカーをひいていたのが、曺寧柱と大山倍達だと言われている。 * その東京裁判出張法廷では判事に、歴史をどこまでさかのぼって戦争責任を問うかを尋ね、「およそ[[日清戦争|日清]]・[[日露戦争]]までさかのぼる。」との回答に対し、「それなら、[[マシュー・ペリー|ペルリ(ペリー)]]をあの世から連れてきて、この法廷で裁けばよい。もともと日本は鎖国していて、朝鮮も満州も不要であった。日本に略奪的な帝国主義を教えたのはアメリカ等の国だ。」と持論を披露した。 * 東條を嫌っていたが、[[真崎甚三郎]]も毛嫌いしていた。石原が満州からの参謀本部への転勤を命じられたとき、真崎甚三郎が「君は素晴らしい逸材だ。君の新しい部署を決めるのに三月もかかったのだ」とほめちぎった。真崎が自身を満州国から引き離す黒幕と気づいていた石原は、「陸軍の人事は私の関知するところではありません」と握手を拒み、その後も真崎の酒席の誘いを拒むなど徹底的に嫌った。 *[[二・二六事件]]のとき、石原は[[東京警備司令部]]の一員でいた。そこに[[荒木貞夫]]大将がやって来たとき、石原は「バカ!おまえみたいなバカな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけた。荒木は「なにを無礼な!上官に向かってバカとは軍規上許せん!」とえらい剣幕になり、石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ?」とさらに言い返した。そこに居合わせた[[安井藤治]]東京警備参謀長がまぁまぁと間に入ってその場をなんとかおさめたという。<ref>『岡田啓介回顧録』毎日新聞社(1950年12月25日)166p</ref> == 年譜 == * [[明治]]22年([[1889年]])[[1月18日]]、誕生。 * 明治28年([[1895年]])、温海尋常高等小学校尋常科に2年に編入。 * 明治30年([[1897年]])、狩川尋常高等小学校尋常科4年に転入。 * 明治31年([[1898年]])、狩川尋常高等小学校高等科1年に入学。 * 明治32年([[1899年]])、藤島高等小学校2年に転入。 * 明治33年([[1900年]])、鶴岡朝暘高等小学校3年に転入。 * 明治34年([[1901年]])、山形県立荘内中学校(現・[[山形県立鶴岡南高等学校]])に入学するも同年に中退。 * 明治35年([[1902年]])9月、仙台[[陸軍幼年学校|仙台陸軍地方幼年学校]]に入校。(第六期) * 明治38年([[1905年]])9月、東京[[陸軍中央幼年学校]]に入校。 * 明治39年([[1906年]])、慢性胃カタルに罹る。 * 明治40年([[1907年]]) ** 5月、中央幼年学校を卒業。(第6期) ** 6月、士官候補生として山形[[歩兵第32連隊]]附。入営中に胃腸病で自宅療養。 ** 10月、秋季演習で分隊長を務め、その後軍曹に昇進。 ** 12月、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]]に入校。 * 明治42年([[1909年]]) ** [[5月27日]]、陸軍士官学校を卒業。(第21期) ** [[12月25日]]、陸軍[[歩兵]][[少尉]]・若松[[歩兵第65連隊]]附。 * 明治43年([[1910年]])4月、韓国守備のため春川に駐屯。6月には漢城へ移動。 * 明治45年([[1912年]])4月、朝鮮から帰国。第4中隊付。 * [[大正]]2年([[1913年]])2月、陸軍歩兵[[中尉]]に進級。 * 大正4年([[1915年]])11月、[[陸軍大学校]]に入校。 * 大正5年([[1917年]])7月、清水泰子と結婚するも9月に離婚。 * 大正7年([[1918年]])11月、陸軍大学校卒業。(第30期)原隊復帰。 * 大正8年([[1919年]]) ** 4月、陸軍歩兵[[大尉]]・歩兵第65連隊[[中隊]]長。 ** 7月、[[教育総監部]]附勤務。 ** 8月、国府銻子と結婚。 * 大正9年([[1920年]] ** 4月、中支那派遣隊司令部附。国柱会会員となる。 ** 5月、漢口に着任する。 * 大正10年([[1921年]]) ** 5月、帰国。 ** 7月、陸軍大学校兵学教官に任命。 * 大正11年([[1922年]]) ** 8月、陸軍大学校附仰付。(ドイツへ出張) ** 9月、ドイツ駐在。 * 大正12年([[1923年]])2月、ベルリンに到着。 * 大正13年([[1924年]])8月、陸軍歩兵[[少佐]]。 * 大正14年([[1925年]])10月、陸軍大学校教官になり、古戦史を担当。 * [[昭和]]3年([[1928年]]) ** 8月、陸軍歩兵[[中佐]]。 ** 5月、中耳炎が悪化して[[陸軍軍医学校|軍医学校]]付属病院に入院し、7月に退院。 ** [[10月10日]]、[[関東軍]]の作戦主任参謀。 * 昭和6年([[1931年]]) ** 9月18日、[[満州事変]]勃発。東北三省の制圧を指揮。 ** [[10月5日]]、関東軍作戦課長。 ** 10月8日、司令機に搭乗して錦州爆撃を指揮。 ** 11月4日、[[馬占山]]軍との戦闘で作戦指導。 * 昭和7年([[1932年]])[[8月8日]]、陸軍[[歩兵]]大佐。[[陸軍兵器本廠]]附。([[ジュネーブ会議]]随員)欧州滞在中に血尿悪化。 * 昭和8年([[1933年]]) ** [[8月1日]]、[[仙台]]の[[歩兵第4連隊]]長となる。 ** 10月、膀胱内の乳頭腫摘出のため入院。 * 昭和10年([[1935年]])[[8月1日]]、[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]作戦課長となる。 * 昭和11年([[1936年]])[[二・二六事件]]で戒厳司令部参謀兼務で処理に当たる。 ** [[6月19日]]、参謀本部戦争指導課長。 * 昭和12年([[1937年]]) ** [[1月7日]]、参謀本部第1部長心得。 ** [[3月1日]]、[[陸軍少将]]。参謀本部第1部長。 ** [[盧溝橋事件]]に際して、不拡大方針を唱え9月27日関東軍参謀副長に転出。 * 昭和13年([[1938年]]) ** [[8月18日]]、兼[[満州国]]在勤帝国[[大使館]]附陸軍武官。満州支配方式について参謀長東條英機[[中将]]を批判し、罷免される。 ** [[12月5日]]、[[舞鶴要塞]]司令官。 * 昭和14年([[1939年]]) ** [[8月1日]]、任[[陸軍中将]]・留守[[第16師団 (日本軍)|第16師団]]司令部附。 ** [[8月30日]]、第16師団長。 * 昭和16年([[1941年]])参謀総長[[東條英機]]に罷免されて[[3月1日]]待命。 ** 4月、[[立命館大学]]講師、国防学研究所所長に就任し、国防学を教える。 ** [[8月31日]][[予備役]]編入。 ** 9月、立命館大学講師を辞職。 * 昭和19年([[1944年]]) ** 11月、「怪文章事件」に関連して軍法会議に召喚される。 ** 12月、東條暗殺未遂事件に関連して軍法会議に召喚される。 * 昭和20年([[1945年]])8月15日、[[東久邇宮内閣]]組閣本部の近衛と[[緒方竹虎]]からの内閣顧問就任要請を断る。 * 昭和21年([[1946年]]) ** 1月、治療を受けるため上京。東京帝大病院に入院。 ** 2月、東京逓信病院に入院。 ** 3月、東京軍事裁判に関連して連合国検事による臨床尋問を受ける。 ** 4月、戦犯最終リストから除外される。 ** 8月、退院して帰郷。 ** 10月、[[山形県]][[飽海郡]]高瀬村(現在、[[遊佐町]])に転居。手術とワクチン投与を受ける。 * 昭和22年([[1947年]])鶴岡市の荘内病院で手術を受ける。 ** [[5月1日]]から[[5月2日]]にかけて東京裁判[[酒田市|酒田]]出張法廷に証人として出廷。 * 昭和23年(1948年)1月、軍国主義者として公職追放される。 * 昭和24年([[1949年]])春に[[肺炎]]になり、[[肺水腫]]や[[膀胱癌]]などを併発。病状は悪化。 ** [[8月15日]]、死去。 墓所は山形県飽海郡遊佐町菅里に所在。 == 著作資料 == * 『石原莞爾選集 全10巻』 玉井禮一郎編(1985-86年)、『戦術学要綱』国防研究会編 (1985年11月) たまいらぼ *『人類後史への出発 石原莞爾戦後著作集』石原莞爾平和思想研究会編 [[展転社]] 1996年 *『永久平和の使徒 石原莞爾』武田邦太郎・菅原一彪編 [[冬青社]] 1996年 *『東亜聯盟期の石原莞爾資料』野村乙二朗編 同成社、2007年 *『[[戦争史大観]]』 [[中公文庫]]BIBLIO、2002年 ISBN 4122040132 *『[[最終戦争論]]』 中公文庫BIBLIO20世紀、2001年 ISBN 4122038987 *『世界最終戦争』 毎日ワンズ、2008年、増訂版2011年 *『戦略論大系10 石原莞爾』 中山隆志編 芙蓉書房出版、2007年 *『石原莞爾資料 国防論策篇』、『同 戦争史論』 <明治百年史叢書17.18> [[原書房]] *『永久平和』 石原莞爾平和思想研究会編 2013年 == 石原莞爾が登場する作品 == ;ノンフィクション *『秘録東条英機暗殺計画』津野田忠重 *『東條英機暗殺の夏』吉松安弘 *『[[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]』[[増田俊也]] ;小説 * 『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』[[福田和也]] * 『英雄の魂 小説石原莞爾』阿部牧郎 * 『夕陽将軍 小説・石原莞爾』杉森久秀 * 『馬賊戦記』朽木寒三 * 『ねじの回転 FEBRUARY MOMENT』恩田陸 ;漫画 * 『[[龍-RON-]]』[[村上もとか]] * 『[[虹色のトロツキー]]』[[安彦良和]] * 『[[ジパング (かわぐちかいじ)|ジパング]]』[[かわぐちかいじ]] * 『[[国が燃える]]』[[本宮ひろ志]] * 『[[木島日記]]』[[大塚英志]]原作、[[森美夏]]画 ;アニメ * 『[[閃光のナイトレイド]]』[[アニプレックス]] ;映画 * 『[[戦争と人間 (映画)|戦争と人間]]』第1部・第2部(1970年・1971年、演:[[山内明]]) * 『[[落陽 (映画)|落陽]]』(1992年、演:[[嵐圭史]]) * 『[[グッド・バッド・ウィアード]]』(2008年、演:[[白竜 (俳優)|白竜]]) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist|2}} == 参考文献 == ;評伝研究 * 『石原莞爾 - 生涯とその時代 上巻』 [[阿部博行]] (法政大学出版局 2005年) ISBN 4-588-31615-X * 『石原莞爾 - 生涯とその時代 下巻』 阿部博行 (法政大学出版局 2005年) ISBN 4-588-31616-8 * 歴史群像シリーズ『満州帝国』(学研、2006年)<br> ※他にも伝記は多数あるが、以下は文庫版や近年の刊行。 *『石原莞爾と満洲帝国』 「[[歴史読本]]」編集部編([[新人物往来社]]〈新人物文庫〉、2010年) *『石原莞爾 国家改造計画』 早瀬利之 ([[光人社]]文庫、2010年) *『石原莞爾 満州国を作った男』 「[[別冊宝島]]」編集部編 (宝島SUGOI文庫、2008年) *『石原莞爾』 [[青江舜二郎]] (中公文庫 1992年)。初刊は[[読売新聞社]] *『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』 [[福田和也]] (文藝春秋、2001年/文春文庫(上下) 2004年) *『石原莞爾の時代』、『石原莞爾と小沢開作』 [[田中秀雄]] (芙蓉書房出版 2008年) *『板垣征四郎と石原莞爾』 [[福井雄三]](PHP、2009年) *『秘録東条英機暗殺計画』津野田忠重(河出書房新社、1991年) *『東條英機 暗殺の夏』吉松安弘(新潮社、1989年) *『[[木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか]]』 [[増田俊也]] (新潮社、2011年) ;資料目録 * 酒田市立図書館編『石原莞爾旧蔵書目録』酒田市立図書館、1988年 * 鶴岡市郷土資料館編『諸家文書目録 3』鶴岡市郷土資料館、1982年 <small>(石原莞爾資料)</small> * 鶴岡市郷土資料館編『石原莞爾資料目録』鶴岡市郷土資料館、2005年 <small>(付・石原莞爾関係図書一覧,庄内地方の石原莞爾関係史蹟。『諸家文書目録 3』(1982年刊)の増補改訂)</small> * 『日本人の技術はどこから来たか』石井威望 (PHP研究所、1999年) == 関連項目 == ; 人物 : [[板垣征四郎]] : [[斎藤元宏]] : [[樋口季一郎]] : [[安江仙弘]] ; 対立人物 : [[東條英機]] : [[甘粕正彦]] : [[古海忠之]] ; 側近 : [[浅原健三]] : [[辻政信]] : [[宮崎正義]] * [[Portal:大東亜共栄圏]] * [[特務機関]] * [[国柱会]] * [[満州国協和会]] * [[満州事変]] * [[日蓮宗]] * [[遊佐町]] - [[吹浦駅]] - [[吹浦漁港]] - [[道の駅鳥海]] * [[世界最終戦論]] == 外部リンク == * [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/ishiharakannji1.html 国立国会図書館 憲政資料室 石原莞爾関係文書(所蔵)] * [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/ishiharakannji2.html 国立国会図書館 憲政資料室 石原莞爾関係文書(MF:鶴岡市立図書館蔵)] * [http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person230.html 石原 莞爾:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) ** [http://www.aozora.gr.jp/cards/000230/card1154.html 『最終戦争論・戦争史大観』:新字新仮名]([[青空文庫]]) * [http://homepage1.nifty.com/SENSHI/study/isihara-1.htm 石原莞爾はかく語りき] * [http://www.sunrain.jp/chojin_club/map_ishiwara_kanji.html 石原莞爾将軍墓所] {{Start box}} {{s-mil}} {{Succession box | title = [[関東軍]]参謀副長 | years = 第5代:1937年9月27日 - 1938年12月5日 | before = [[笠原幸雄]] | after = [[矢野音三郎]] }} {{Succession box | title = [[舞鶴要塞]]司令官 | years = 第25代:1938年12月5日 - 1939年8月1日 | before = [[加藤守雄 (陸軍軍人)|加藤守雄]] | after = [[北島驥子雄]] }} {{Succession box | title = [[第16師団 (日本軍)|第16師団長]] | years = 第16代:1939年8月30日 - 1941年3月1日 | before = [[藤江恵輔]] | after = [[森岡皐]] }} {{End box}} {{DEFAULTSORT:いしわら かんし}} [[Category:大日本帝国陸軍将官]] [[Category:満州事変の人物]] [[Category:関東軍の人物]] [[Category:満州国の人物]] [[Category:日本の軍事学者]] [[Category:戦前日本の学者]] [[Category:戦前日本のアジア主義の人物]] [[Category:北進論の人物]] [[Category:二・二六事件の人物]] [[Category:十月事件の人物]] [[Category:日中戦争の人物]] [[Category:立命館大学の教員]] [[Category:山形県出身の人物]] [[Category:1889年生]] [[Category:1949年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Cite book
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:End box
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:S-mil
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Start box
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Succession box
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 軍人
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:脚注ヘルプ
(
ソースを閲覧
)
石原莞爾
に戻る。
検索
検索
石原莞爾のソースを表示
話題を追加