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'''短歌'''(たんか)とは、[[韻文]]である[[和歌]]の一形式で五・七・五・七・七の五句体の歌体のこと。ただし短歌は古来より詠まれている歌体であるが、この項目では[[明治]]以降の短歌すなわち'''近代短歌'''と現代の短歌について取り上げる。 == 概要 == 短歌は[[記紀歌謡]]や『[[万葉集]]』初期の作品にはすでに見られるもので、古今を通じ広く行われ、[[長歌]]や[[旋頭歌]]が詠まれることがなくなるにつれて、和歌といえば短歌をさすようになった。五・七・五・七・七の五句体(31[[モーラ]])の詩形は、その時代に盛んであった長い詩形との関連で呼び名が変わった。[[奈良時代]]には長歌に対して短歌、[[平安時代]]以降は[[漢詩]]に対して和歌、[[明治]]時代後半からは[[新体詩]]に対して再び短歌と呼ばれて現在に至っている。<!--一人称の詩形、私性の詩、と呼ばれるほど、作者の主体性が強い表現形式である。-->[[狂歌]]とは文体を同にするが、定義では全く異なるものである。 和歌と近代以降の短歌は、その韻文としてのかたちは基本的には変わらぬものであるが、和歌はその中で使われたいわゆる[[序詞]]や[[縁語]]、また[[歌枕]]といった修辞を重要視し、のちのちまでそれらを伝えて詠まれたのに対し、近代以降の短歌ではそういったものは原則として否定されている。すなわち前代からの和歌とは違う思想に基づいて作歌されているということである。 == 短歌の歴史 == === 近代以前 === 短歌は上で触れたように近代以前は和歌と呼ばれることが多く、その和歌を詠む上で手本とされたのは『[[古今和歌集]]』をはじめとする[[勅撰和歌集]]に採られた和歌であった。『万葉集』に関しては全く取り上げないということではなかったが、歌人のあいだでは勅撰和歌集が重要視された。近世後期になると[[京都]]で和歌革新の動きが起こり、[[香川景樹]]らの[[桂園派]]が登場した。桂園派は明治時代初期まで[[歌壇]]に重きをなしたが、これも『古今和歌集』の歌風の流れを汲む一派であった。上代から明治以前の和歌の歴史については、和歌の[[和歌#歴史|歴史]]の項参照。<!-- === 上代 === [[感情]]の高まりから発せられた叫び・掛け声が次第に成長して、祭りや労働の際に集団でうたわれるうたとなったものを[[上代歌謡]]といい、『[[古事記]]』『[[日本書紀]]』にとられた上代歌謡を[[記紀歌謡]]という。この中に五・七・五・七・七の五句体の歌が見られる。長歌の末の[[反歌]]が独立してできたとも言われる。 その後、統一国家が確立してゆく中で、大陸から漢詩が入ってきた影響もあり、個人の気持ちを個々に表現する歌が盛んに作られるようになった。『[[万葉集]]』にはそういった歌が多く収録されている。集団でうたわれる歌謡においては、例えば[[旋頭歌]](五七七、五七七)は、[[片歌]](五七七)が集団の掛け合いで問答の形になったものだが、「五七七?」「五七七。」の問と答の末尾はしばしば同じであった。一人でうたうようになると、重複はさけられ「五七?」「五七七。」→「五七五七七」の短歌形式となった。このような歌体の変化から、『万葉集』では9割が短歌となっている。 === 中古 === [[平安時代]]初期には漢詩文が公的な文学として和歌を圧倒したが、平安時代中期には[[国風文化]]への自覚が高まり、[[仮名文字]]の発達とあいまって和歌が次第に公的な場に復活し、[[歌合]]も行われるようになった。 [[延喜]]5年([[905年]])[[醍醐天皇]]の勅命で、[[紀貫之]]・[[紀友則]]・[[凡河内躬恒]]・[[壬生忠岑]]の4人により、最初の[[勅撰和歌集]]『[[古今和歌集]]』が撰進された。理知的・観念的な歌風が特色である。それから半世紀のちの[[村上天皇]]の頃に『[[後撰和歌集]]』が、さらに半世紀後の[[一条天皇]]の頃に、『[[拾遺和歌集]]』が撰進された。前者は貴族の贈答歌が中心で、物語化の傾向があるのに対し、後者は典雅で格調正しい『古今和歌集』の[[伝統]]を受け継ぐものになっている。『古今和歌集』『後撰和歌集』『拾遺和歌集』の三集を[[三代集]]と呼ぶ。 平安時代後期には『[[後拾遺和歌集]]』『[[金葉和歌集]]』『[[詞花和歌集]]』が撰進された。貴族社会が変化する中で、三代集の伝統を乗り越えるための苦悶の半世紀であった。源平の争乱の後、[[後白河院]]の命で[[藤原俊成]]が『[[千載和歌集]]』を撰進し、平安時代末期の和歌を一つの高みに導いた。『古今和歌集』から次代の『[[新古今和歌集]]』までの8つの勅撰集を[[八代集]]という。 === 中世 === [[鎌倉時代]]に入ると、政権を奪われた貴族たちは伝統文化を心の拠り所にしたため和歌は盛んに詠まれた。鎌倉への対抗意識もあって和歌に非常な熱意を示した[[後鳥羽院]]の命で撰進されたのが『[[新古今和歌集]]』である。技巧化は更に進み、現実の体験ではなく、頭の中で作り上げた世界を詠んだものがほとんどを占める一方で、自然への愛や[[人生観]]を詠んだ[[西行]]、万葉調の[[源実朝]]も尊ばれた。『新古今和歌集』編纂の中心人物だった[[藤原定家]]とその子の[[藤原為家|為家]]が亡くなると、家系も歌壇も[[二条派]]・[[京極派]]・[[冷泉派]]の三派に分かれた。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]頃から、和歌は僧侶や武士を中心に詠まれるようになるが、形式主義に流れた和歌は衰退していく。 === 近世 === [[俳諧]]に比べて伝統的・貴族的な和歌の革新は遅れがちであった。[[元禄]]期には因襲性の批判から伝統への反省が生まれ、日本の古代精神を明らかにする[[国学]]が発生した。近世後期になると[[京都]]でも和歌革新の動きが起こり、[[香川景樹]]らの[[桂園派]]が登場した。桂園派は[[明治]]時代初期まで[[歌壇]]に重きをなした。 --> === 明治・大正 === [[明治]]時代初期の歌壇は前代に引き続き、桂園派を主とする[[御歌所派]]が中心となって貴族的・伝統的な文化人たちが担っていたが、和歌改良を志す人々はその題詠による作歌・風雅な趣向を批判し、自由と個性を求める近代短歌を開いた。[[浅香社]]が結成され、主観を重視する浪漫的な短歌を目指し、[[与謝野鉄幹]]らを輩出した。明治33年([[1900年]])、鉄幹は『[[明星 (文芸誌)|明星]]』を創刊し、[[与謝野晶子]]を擁して浪漫主義短歌の全盛時代を築いた。明治40年代には『明星』から出た耽美派の[[北原白秋]]、自然主義的な[[若山牧水]]、社会主義的傾向を示した[[石川啄木]]らの個性が開花した。 一方、[[正岡子規]]は明治31年([[1898年]])に『[[歌よみに与ふる書]]』を発表。[[万葉]]への回帰と[[写生]]による短歌を提唱して[[根岸短歌会]]を起こし、[[伊藤左千夫]]・[[長塚節]]らを育てた。根岸短歌会の機関紙として明治41年([[1908年]])に創刊された『[[アララギ]]』からは、独自の歌風を確立してアララギ派を主導した[[島木赤彦]]や、自我を見つめて生命感ほとばしる歌を詠んだ[[斎藤茂吉]]が出た。『アララギ』は赤彦が編集を担当した大正期に歌壇主流と言っていい発展を遂げるが、よりストイックな歌風を特色とするその美学と結社的束縛は一部で反発を招き、[[大正]]13年([[1924年]])に[[古泉千樫]]、[[折口信夫|釈迢空]]、[[石原純]]が新雑誌『日光』の創刊に参加して『アララギ』を離脱するなど、『アララギ』の分裂を生み出す。茂吉は「写生」に「生を写す」と言う解釈をほどこし、大正15年([[1926年]])島木赤彦の没後は『アララギ』の編集を担い、中心人物として昭和初期にかけて活躍する。 === 昭和 === [[昭和]]短歌の前奏曲として、大正12年([[1923年]])、歌誌『日光』が、『[[アララギ]]』を脱退した[[古泉千樫]]、[[折口信夫|釈迢空]]、[[石原純]]や、[[北原白秋]]、[[前田夕暮]]、[[吉植庄亮]]らによって創刊された。短歌[[結社]]ではなくゆるやかなサロン的結合による雑誌であったが、おのずから反アララギ的色彩を帯び、アララギ系―反アララギ系という座標軸はここから始まったといってよい。リアリズムに近い立場に立ちながら、[[窪田空穂]]、[[松村英一]]らは、『アララギ』には批判的であり、英一やその門人である[[山本友一]]は[[土屋文明]]系の[[渋谷嘉次]]と論争を行い、文明に代表される『アララギ』の作風のぎこちなさを批判する。 明治から試みられていた[[口語]]・[[自由律]]や、[[石川啄木]]にまでさかのぼれるプロレタリア短歌の運動が起こったのも昭和に入ってからである。前者は前田夕暮の「詩歌」を中心に一大勢力となり、後者は[[プロレタリア文学]]の一環としての存在を主張するようになる。 口語派は夕暮の一門あげての定型復帰により、[[香川進]]、[[前田透]]といった歌人が文語定型を排除しない方向に転じたことで、力を減じていった。 プロレタリア派は、当初、文学理論が先行し、短歌を短詩に解消するべきだという意見が有力になったり、あるいは三十一音を大幅にはみ出す作品が出たりして、国家による弾圧以前にも問題を抱えていた。 昭和3年([[1928年]])、新興歌人連盟が発足。口語派、シュールレアリスム派、プロレタリア派、生活派が連合して歌壇の革新に努める。[[前川佐美雄]]、[[坪野哲久]]、[[筏井嘉一]]らにより、後に[[新風十人]]でその美学を示した。昭和10年([[1935年]])、[[北原白秋]]が『[[多磨]]』を創刊。[[宮柊二]](『[[コスモス]]』)、[[木俣修]](『[[形成]]』)といった戦後結社につながる歌人がここから輩出する。 歌壇の一大勢力に成長した『[[アララギ]]』では、斎藤茂吉の指導を受けた[[佐藤佐太郎]](『歩道』創刊)・山口茂吉、土屋文明の指導を受けた[[五味保義]]、[[近藤芳美]](『[[未来 (短歌結社)|未來]]』創刊)、[[高安国世]](『[[塔 (短歌結社)|塔]]』創刊)、[[相澤正]]、[[樋口賢治]]、[[落合京太郎]]、[[吉田正俊]]、[[柴生田稔]]らが育つ。 === 戦後 === 日本の敗戦から、[[桑原武夫]]『第二芸術論』など短歌否定論が大反響を呼んだが、短歌否定論に対抗し、戦後歌壇を樹立する目的の下に、昭和22年([[1947年]])[[新歌人集団]]という運動体が結成された。[[近藤芳美]]や[[宮柊二]]などは戦後歌壇の大きな存在となるとともに、現代短歌の基盤を作っていった。 昭和23年([[1948年]])には、日本歌人クラブが、[[斎藤茂吉]]・[[土屋文明]]・[[釈迢空]]・[[尾上柴舟]]・[[佐佐木信綱]]・[[窪田空穂]]・[[土岐善麿]]・[[前田夕暮]]を始めとする183名の発起人、[[太田靑丘]]・[[渡辺順三]]・近藤芳美・[[佐藤佐太郎]]・[[木俣修]]・宮柊二・[[香川進]]ら当時の中堅歌人らによって結成され、歌壇最大の超結社団体として、現在に至るまで活発な活動を続けている。 昭和24年([[1949年]])には[[中井英夫]]が『[[短歌研究]]』を創刊し、[[葛原妙子]]・[[中城ふみ子]]・[[塚本邦雄]]・[[寺山修司]]ら多くの新人を見い出した。 昭和31年([[1956年]])には歌人の職能的性格を持つ団体として「現代歌人協会」が、[[生方たつゑ]]・[[扇畑忠雄]]・尾上柴舟・香川進・[[鹿児島寿蔵]]・木俣修・窪田空穂・近藤芳美・佐佐木信綱・佐藤佐太郎・[[柴生田稔]]・土屋文明・[[坪野哲久]]・土岐善麿・[[松村英一]]・[[會津八一]]・宮柊二・[[山口茂吉]]・[[山本友一 (歌人)|山本友一]]など62名の発起人により結成された。 昭和30年代になると[[前衛短歌運動]]が起こった。現代短歌は前衛短歌から始まったとも言われる。前衛短歌運動は、[[塚本邦雄]]の衝撃的な表現から始まり、「短歌研究」編集長[[中井英夫]]の賛同を得、[[岡井隆]]・寺山修司といった同志を獲得し、歌壇全体に影響を及ぼした。前衛短歌は、比喩の導入、句またがり、記号の利用といった技法上の特徴が数多くあるが、作品の主人公と作者が異なる、虚構を詠っている点が最大の特徴である。この表現方法は明治期の西洋化で失われたが、古典ではよく見られた形式であるため、短歌の[[ルネサンス|ルネッサンス]]と言われる。 昭和30年代半ばには、前衛短歌は社会的影響力を持ち始めたため敬遠する出版会の動きがあったことと、方法意識が出尽くしたことから停滞した。そこで登場したのが[[安保闘争]]に参加した若者、西の[[清原日出夫]]、東の[[岸上大作]]であった。 安保闘争後、前衛短歌が行き詰まりを見せ、新たな表現方法への移行も出来なかったこともあり、短歌は目標や思想を喪失していった。[[歌壇]]は孤立化し、内部(歌人)と外部(新聞短歌・セミナー短歌)の棲み分けが始まった。そのような中、[[三島由紀夫]]に定家の再来と言われてデビューした[[春日井建]]が、時代性や社会性の意識は見られない絶対なる美的表現を追求した。 昭和40年代初め、前衛短歌の停滞後初めて本格的に近代短歌に向き合う動きが出てきた。自然派の[[前登志夫]]、古典派の[[馬場あき子]]・[[山中智恵子]]などである。他にも、自らの表現形式を持って短歌を作る歌人が活躍し始めた。「男歌」の[[佐佐木幸綱]]、「ただごと歌」の[[奥村晃作]]、実験的な歌風の[[高瀬一誌]]、戦後の青年像を示した夭折歌人の[[小野茂樹]]などである。昭和50年代には、[[村木道彦]]・[[小池光]]・[[阿木津英]]など、風俗・実生活を繊細に描写する歌人が現れた。 昭和60年代には、都市文化を基調としたヴィジュアルな表現が登場する。[[坂井修一]]や、新古典派と呼ばれる[[紀野恵]]・[[水原紫苑]]などが平成のニューウェーブの先駆けとなる。[[俵万智]]『[[サラダ記念日]]』がミリオンセラーを記録、短歌はそれまでの硬いイメージから開放され、コピー言語のように読まれるようになった。 === 平成 === [[平成]]に入って最大の衝撃は、正岡子規以来の写生を受け継ぐ『[[アララギ]]』の終刊(平成9年([[1997年]])12月)とアララギ派の分裂であろう。時を同じくして[[加藤治郎 (歌人)|加藤治郎]]・[[荻原裕幸]]・[[穂村弘]]ら'''ニューウェーブ'''と呼ばれる歌人が登場した。『サラダ記念日』([[俵万智]])で決定的に大衆化した短歌の状況に困惑する旧来の歌人をよそに、イメージと感性で歌い上げる彼らの表現は斬新だった。それまでの短歌は個人的内容であっても、普遍性や生への問いかけがあった。しかし[[バブル経済]]の表層的文化で育った口語性と都会性、脱私性により、前衛短歌以来の近代短歌からの脱出が図られたのである。 現在は[[インターネット]]の普及も影響して、[[枡野浩一]]・[[高杉碧]]など歌壇に全く属さない歌人も登場している。 昭和末期から[[東洋大学現代学生百人一首]]という短歌を使用したコンテストが開催されている。現在では全国各地の学校がこのイベントへ参加しており、短歌を通じた教育ならびに現代の学生が短歌を詠むことで現代人の感性を知ろうというひとつの試みとなっている。 == 短歌の技法 == === 定形の文字数、句数による制約 === 短歌の定形は、31文字(みそひともじ)、5句であるが、それを守る方法と変化を付けることによって表現の幅を広げようとする方法とがある。歌のどの部分を強調するかに対して各種の慣用的呼び方がある。 *[[句切れ]] **初句切れ **二句切れ **三句切れ **四句切れ **無句切れ(句切れなしとも言う) *句割れ *句跨り *破調 **字余り **字足らず === 使用する表記 === [[文語]]による短歌は[[歴史的仮名遣]]([[旧仮名遣]])によって書かれることが原則であるが、日常生活で[[口語]]が用いられている現在は各種の表記法が混在している。 *文語と歴史的仮名遣 *文語と[[現代仮名遣]] *口語と歴史的仮名遣 *口語と現代仮名遣 *[[漢語]]、[[外来語]]・[[片仮名|カタカナ]]語・話し言葉 *[[句読点]] *[[和字間隔|字空き]] *[[わかち書き|分かち書き]] *[[散らし書き]] === 修辞技法 === 近代以降の短歌においては、韻文全般に用いられる技法の中から効果があるとされるものが選択的に用いられている。<!-- *[[枕詞]] *[[序詞]] *[[掛詞]] *[[縁語]]--> *反復法 *対句法 *[[倒置]]法 *[[押韻]] *[[反語]] *[[引用]]、援用 *[[体言止め]]<!-- *[[本歌取|本歌取り]]--> *[[転義法|比喩]] **直喩 **暗喩([[隠喩]]) **寓喩 **[[擬人]]法 *[[擬音]]語 *擬態語 == 短歌の分類 == 近代以降の短歌は自然に触れ、生活の場で、また社会の流れの中にあって、人間の心の在り様を表現したものであり、すべてが抒情であるとも言える。しかし、短歌の世界では対象の捉え方を、[[叙景歌]](自然の風景等を詠んだ歌)、[[叙事歌]](事実をありのままに述べた歌)、[[抒情歌]](感情、感動を述べ表した歌)という分け方をしてきた。便宜上直接的に短歌の対象となった事柄を捉えて、何々詠という呼び方をしている。 代表的なものを次に掲げることにする。これら以外に何々詠と付けられた分類も見かける。また、今後、さまざまな呼び方がされる新たな分野が登場してくる可能性はある。 {| class="wikitable" !種類||内容 |- |[[自然詠]]||山川草木、[[花鳥風月]]などの自然を主体に詠んだ歌 |- |季節詠||[[春夏秋冬]]、すなわち[[四季]]を詠んだ歌。広くは自然詠に含まれる |- |動物詠||動物を詠んだ歌 |- |植物詠||植物を詠んだ歌 |- |愛国詠||国の末永い平和や繁栄を祈る歌<!--[[君が代]]が有名--> |- |人事詠||人間社会の出来事、人間関係、または個人個人のことを詠んだ歌 |- |生活詠||生活の実感を詠い人の在り方に迫ろうとする歌 |- |官能詠||肉体的快感、特に性的感覚を通して得られる快さを詠んだ歌 |- |職場詠・職業詠||職場や職業を詠んだ歌 |- |境涯詠||自分の人生を振り返って詠んだ歌 |- |病床詠||病床にあって詠んだ歌 |- |家族詠||家族という集団を意識しながらその構成員を詠んだ歌 |- |[[相聞歌]]||男女の間の恋愛感情を詠んだ歌 |- |[[挽歌]]・[[鎮魂歌]]||死者を弔い、死を悲しむ歌 |- |旅行詠||旅行途上で接した風物に寄せて感慨を詠んだ歌 |- |山岳詠||登山体験を詠んだ歌 |- |海外詠||海外での長期滞在、居住、永住等の体験を詠んだ歌。戦前からの移民等の歌も含む |- |[[社会詠]]||人の生活する場である社会と社会に対する批判等を含む認識を詠んだ歌 |- |時事詠||時事問題を詠んだ歌。社会詠の一種である |- |時局詠||現在の時局に題材を得た歌。広くは社会詠に含まれる |- |安保詠・学園闘争詠||[[安保闘争#60年安保|60年安保闘争]]・[[1970年]]前後の[[大学闘争|学園紛争]]を詠んだ歌 |- |震災詠||[[関東大震災]]や[[阪神・淡路大震災]]を詠んだ歌 |- |戦争詠||戦争に直接参加した兵士たちが前線で詠んだ歌 |- |戦時詠||戦時下の社会と人間を詠んだ歌。戦争詠とは異なる |- |農民詠||「農民文学運動」に端を発し、農村に関して詠んだ歌 |- |思想詠||[[哲学]]、[[思想]]、[[主義]]、主張に基づき人間と社会を詠んだ歌 |- |都市詠||人間社会の縮図である都市の社会状況、人間の在り方を詠んだ歌 |} == 参考文献 == *『近代短歌を学ぶ人のために』-[[安森敏隆]]・[[上田博]]編(1998年5月、[[世界思想社]])ISBN 978-4790707059 *『短歌講座第1巻 歌史歌體篇』-(1931年、改造社) == 関連項目 == *[[歌人一覧]] *[[口語短歌]] *[[夜はぷちぷちケータイ短歌]](NHK第一ラジオの番組) *[[NHK短歌]](NHK教育テレビの番組) *[[歌壇]] *[[アララギ]] *[[結社]] *[[琉歌]] *[[サダキチ・ハートマン]] - Tanka and Haika: Japanese Rhythms (1916) を著し、北米に短歌を紹介した最初期の人物。 *短歌雑誌→[[専門雑誌#短歌総合誌]]<!-- == 外部リンク == {{節stub}}--> {{DEFAULTSORT:たんか}} [[Category:和歌]] [[Category:短歌の賞|*]]
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