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[[Image:Motoyahagi-castle,katori-city,japan.JPG|thumb|right|200px|矢作藩があった本矢作城跡]] '''矢作藩'''(やはぎはん)は、[[下総国]](現在の[[千葉県]][[香取市]]本矢作)に存在した[[藩]]。藩庁は[[大崎城]](通称:[[矢作城]]、ただし支城の[[岩ヶ崎城]]とする説もある)。 == 藩史 == [[小田原征伐]]後、[[関東]]に移封された[[徳川家康]]は、[[国分氏 (下総国)|国分氏]](下総国分氏)の居城のあった下総矢作に[[鳥居元忠]]を4万石で入封させた。これが矢作藩の立藩である。これには[[常陸国|常陸]]の[[佐竹義重 (十八代当主)|佐竹義重]]らに対する牽制の意味があったといわれている。[[慶長]]4年([[1599年]])には領内において総[[検地]]が行われている。無類の忠臣であった元忠は、その愚直さゆえに誤りがあってはならないと徹底的な検地を行ったために領民が悲鳴をあげたと言われている。だが、翌年の慶長5年([[1600年]])に発生した[[関ヶ原の戦い]]の緒戦である[[伏見城]]攻防戦で元忠は戦死してしまった。家康は戦後、元忠の武功を賞してその子・[[鳥居忠政]]を[[陸奥国|陸奥]][[磐城平藩]]に加増移封されたため、矢作藩は廃藩となり、[[天領]]となった。 [[元和 (日本)|元和]]4年([[1618年]])、[[三浦正次]]がこの地にて780石の[[旗本]]として入封するが、正次は次第に出世して加増を受けて石高も5000石にまで昇進する。[[寛永]]7年([[1630年]])、ついに正次は5000石の加増を受けて1万石の[[大名]]として諸侯に列したことから、ここに矢作藩が再立藩された。寛永16年([[1639年]])、正次は[[下野国|下野]][[壬生藩]]に移封となったため、矢作藩は廃藩となったのである。 == 歴代藩主 == === 鳥居(とりい)家 === [[譜代]]。4万石。 #[[鳥居元忠]](もとただ) #[[鳥居忠政]](ただまさ) === 三浦(みうら)家 === 譜代。1万石。 #[[三浦正次]](まさつぐ) == 関連項目 == *[[藩の一覧]] {{DEFAULTSORT:やはきはん}} [[Category:藩]] [[Category:鳥居氏|藩]] [[Category:三浦氏|藩]] [[Category:香取市の歴史]]
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