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畠山義綱
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{{Otheruses|[[畠山家#能登畠山家(匠作家)|能登畠山家]]の当主|[[二本松氏|奥州畠山氏]]の当主|二本松義綱}}{{基礎情報 武士 | 氏名 = 畠山義綱 / 畠山義胤 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]] | 生誕 = 不明 | 死没 = [[文禄]]2年[[12月21日 (旧暦)|12月21日]]([[1594年]][[2月11日]]) | 改名 = 次郎([[幼名]])→義綱→義胤→義綱 | 別名 = 徳栄([[戒名]])、畠山義則 | 戒名 = 興禅院華岳徳栄大居士 | 墓所 = | 官位 = [[修理大夫]] | 幕府 = | 主君 = | 藩 = | 氏族 = [[畠山氏]]([[能登畠山家]]) | 父母 = 父:[[畠山義続]]、母:不明 | 兄弟 = '''義綱'''、[[畠山義春|義春]] | 妻 = 正室:[[六角義賢]]女 | 子 = '''[[畠山義慶|義慶]]'''、[[畠山義隆|義隆]] | 特記事項 = }} '''畠山 義綱'''(はたけやま よしつな)は、[[能登国|能登]]の[[戦国大名]]。能登[[畠山氏]]の第9代当主。 == 生涯 == === 家督継承 === 第8代当主・[[畠山義続]]の子として生まれる。 [[天文 (日本)|天文]]21年([[1551年]])、父義続が前年に起きた[[能登天文の内乱]]での責任を取って隠居したことで、義綱は家督を譲られ継承した。しかし、義綱政権の初期では、義続が後見人となっていたため、義綱の主体的な行動は弘治元年(1555年)まであまりみられない。 === 大名専制支配の確立 === [[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])、重臣たちの政治合議組織で大名権力を傀儡化させた「[[畠山七人衆]]」を崩壊させるため、中心人物である[[温井総貞]]を義続・義綱父子らは暗殺した。この暗殺事件をきっかけに温井氏と、温井氏と親しい三宅氏が[[加賀一向一揆]]を味方につけ大規模な反乱を起こし、一時は外浦を占領された([[弘治の内乱]])。しかし、この内乱も[[永禄]]3年([[1560年]])頃までには義綱方が鎮圧した。この内乱の過程で義綱方は士気が高まり、大名専制支配を確立した。 この内乱が終息した永禄3年([[1560年]])から永禄9年([[1566年]])の時期は、末期の能登畠山家にしては安定した時期と言える。能登国内での家臣たちの戦争や内乱は起こらなかった。また、将軍家への贈答を永禄4年([[1561年]])に再開したり、気多社の造営を朝廷の許可を得て実行している。さらに、永禄5年([[1562年]])には[[上杉謙信]]に攻められた[[神保長職]]に仲介を頼まれ争いを調停し合意させるなど、外交活動が活発化している。また、同じ年には[[正親町天皇]]の勅許を奉じて[[気多大社|能登一宮]]の再建にあたり、自らも朝廷や幕府を介して銭7千疋という多額の寄進を行っている。 === 永禄九年の政変とその後 === しかし、義綱中心の大名専制支配に反発した[[長続連]]、[[遊佐続光]]、[[八代俊盛]]などの重臣が永禄9年(1566年)にクーデターを起こして義続・義綱父子らを追放した([[永禄九年の政変]])。このため、義綱らは縁戚関係にあった[[六角氏]]の領地である[[近江国|近江]]坂本に亡命した。 能登奪回を目指す義綱らは、[[六角氏]]の支援と上杉謙信や神保長職らの連携により、[[永禄]]11年([[1568年]])に能登に侵攻したが、失敗して敗退した。その後も復権するために画策するが叶わなかった。 後に[[豊臣秀吉]]の家臣になったという史料もあるが定かではない。義綱は文禄2年(1593年)12月21日に近江伊香郡([[余呉町]])の余吾浦で死去した。 == 人物・逸話 == *北陸の能登という地方でありながら、[[六角義賢]]や[[足利義昭]]とも交遊があり、中央の政権にも関わっていた。 *義綱は[[永禄九年の政変]]後に一時、「'''義胤'''」(よしたね)と改名したが、数年で元の「義綱」に名を戻している。また、近江坂本に同行した側近の[[富来綱盛]](とぎ つなもり)はこれに倣って富来'''胤'''盛(- たねもり)と改名している<ref name="kerai">[http://www15.ocn.ne.jp/~nanao/souran/souranindex.html 能登畠山家武将総覧]より。</ref>。 *義綱は「長家家譜」などの後世に書かれた書物には「'''義則'''」(よしのり)と記されることが多いが、古文書などの良質な一次史料に「義則」の名は見えない。 *義綱の花押は、祖父[[畠山義総]]に非常に似ているものを書いている。 *義綱の近臣に[[飯川光誠]]がいる。義綱政権にあっては年寄衆を務め義綱を補佐し、近江に亡命した後は、義綱のために外交などで常に一線で活躍している。 *義綱の二人の息子である[[畠山義慶]]・[[畠山義隆]]は、傀儡君主として重臣たちに擁立され、そのうえ父より早く死去した。 == 偏諱を与えた家臣 == *[[今井綱秀|今井'''綱'''秀]](いまい つなひで)<ref name="kerai" /> *[[佐脇綱盛|佐脇'''綱'''盛('''綱'''隆)]](さわき つなもり/つなたか)<ref name="kerai" /> *[[神保総誠|神保'''綱'''誠]](しんぼう つなのぶ)- [[神保長誠]]の子、[[神保慶宗|慶宗]]の弟とされる。第2次[[畠山七人衆]]の一人。初めは[[畠山義総]]からの[[偏諱]]の授与により総誠と名乗っていた。[[弘治の内乱]]で戦死。 *[[神保綱親|神保'''綱'''親]](しんぼう つなちか)<ref name="kerai" /> *[[平綱知|平 '''綱'''知]](たいら つなとも)- 長綱連の従兄弟、父は[[平続重]]。 *[[長綱連|長 '''綱'''連]](ちょう つなつら) *[[富来綱盛|富来'''綱'''盛('''胤'''盛)]](とぎ つなもり/たねもり)<ref name="kerai" /> - 前述の通り、永禄九年の政変で義綱が追放されると、近江坂本に同行して側近として活動、義綱が改名の際には同時に改名している。 *[[温井綱貞|温井'''綱'''貞]](ぬくい つなさだ)<ref name="kerai" />- [[温井続宗]]の叔父。 *[[畠山綱盛|畠山'''綱'''盛]](はたけやま つなもり)- 畠山氏一門? *[[畠山綱隆|畠山'''綱'''隆]](はたけやま つなたか)- 畠山氏一門? *[[馬淵綱重|馬淵'''綱'''重]](まぶち つなしげ)<ref name="kerai" /> *[[三宅綱賢|三宅'''綱'''賢]](みやけ つなかた)- [[三宅氏#能登三宅氏|能登三宅氏]]一族。第2次[[畠山七人衆]]の一人。 *[[三宅綱久|三宅'''綱'''久]](みやけ つなひさ)<ref name="kerai" />- 能登三宅氏一族。 *[[遊佐盛光|遊佐'''綱'''光]](ゆさ つなみつ)- のち盛光に改名。 == 脚注 == {{Reflist}} ==関連項目== *[[畠山氏]] {{能登畠山家当主||9代|1551年 - 1566年}} {{DEFAULTSORT:はたけやま よしつな}} [[Category:畠山氏|よしつな]] [[Category:戦国大名]] [[Category:能登国の人物]] [[Category:生年不明]] [[Category:1594年没]]
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