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畠山持国
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 畠山持国 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[室町時代]] | 生誕 = [[応永]]5年([[1398年]]) | 死没 = [[享徳]]4年[[3月26日 (旧暦)|3月26日]]([[1455年]][[4月12日]]) | 改名 = 持国→徳本(法名) | 別名 = | 戒名 = 光孝寺殿立源徳本 | 墓所 = | 官位 = [[従四位|従四位下]]、[[衛門府|左衛門督]]、[[従三位]] | 幕府 = [[室町幕府]][[管領]]、[[河内国|河内]]・[[紀伊国|紀伊]]・[[越中国|越中]]・[[山城国|山城]][[守護]] | 主君 = [[足利義教]]→[[足利義勝|義勝]]→[[足利義政|義政]] | 氏族 = [[畠山氏]] | 父母 = 父:[[畠山満家]] | 兄弟 = '''持国'''、[[畠山持永|持永]]、[[畠山持富|持富]] | 妻 = | 子 = 養子:''持富'' (実弟、初め嫡子のち廃嫡)<br />実子:'''[[畠山義就|義就]]'''(庶子、のち嫡子) | 特記事項 = }} '''畠山 持国'''(はたけやま もちくに)は、[[室町時代]]の[[守護大名]]。[[室町幕府]][[管領]]、[[河内国|河内]]・[[紀伊国|紀伊]]・[[越中国|越中]]・[[山城国|山城]]守護。[[足利氏]]一門の[[畠山氏]]出身。[[畠山満家]]の嫡男。[[畠山義就|義就]]の父。 危機的状況を脱して管領に就任、勢力拡大を目指すも晩年に[[お家騒動]]を発生させ、畠山氏衰退の元を生み出してしまった。 == 生涯 == === 隠居から復活 === 応永5年(1398年)、[[畠山満家]]の[[嫡男]]として生まれた。第4代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義持]]より[[偏諱]]を受けて'''持国'''(「国」は祖父・[[畠山基国|基国]]などが使用した畠山氏の[[通字]])と名乗る。 父・満家と同じく室町幕府に出仕、[[正長]]2年([[1429年]])に第6代将軍[[足利義教]](義持の弟)の[[元服]]式では法体である父の代わりを務め、[[永享]]5年([[1433年]])の父の死により家督相続、幕府の重臣として会議に参加した。永享4年([[1432年]])の[[大和永享の乱]]で[[大和国|大和]]へ出兵、永享6年([[1434年]])に義教が[[延暦寺]]に軍勢を派遣させて包囲すると諫言して両者を和睦させ、翌永享7年([[1435年]])に再度大和に出陣、大和[[宇智郡]]守護に任命された。 三管四職家のうち、主に第3代将軍[[足利義満]]の時代に取り立てられ勢力を躍進させたのは[[赤松氏]]、[[一色氏]]、そして持国の畠山氏であったが、義満時代に有力な守護大名であった[[斯波氏]]や[[山名氏]]が弱体化すると、上の三家が将軍権力の障害となるようになった。特に三管領の一角を占める畠山氏は幕政の中核をしめ、代々の将軍にとって目の上のたんこぶであった。 6代将軍足利義教は畠山満家の死後、「万人恐怖」と評される恐怖政治を敷き、特に上記三家に対する干渉を強めるようになった。義教は[[赤松満祐]]の同族・[[赤松貞村|貞村]]を重用し、永享12年([[1440年]])には[[一色義貫]]・[[土岐持頼]]が殺害されている。[[嘉吉]]元年([[1441年]])には義教の矛先は畠山氏に向けられ、持国は[[結城合戦]]の出陣を拒んだことから家督を弟[[畠山持永|持永]]に譲らされ隠居を余儀なくされる。 しかし、持国以上に義教の行動に恐怖を覚えた満祐が、同年6月に義教を[[暗殺]]する事件が勃発する([[嘉吉の乱]])。持国はただちに挙兵して持永を討ち、家督を奪回した。8月に[[京都市|京都]]で[[嘉吉の徳政一揆|嘉吉の土一揆]]が蜂起した時、鎮圧に反対して管領の[[細川持之]]と対立する。一揆構成員の中に山城の畠山氏[[被官]]が紛れていた事が理由だった。 7代将軍に義教の嫡子の[[足利義勝]]が就任し、赤松氏が討伐されると持之は管領を辞任し、持国が管領となる。同年、出家し'''徳本'''(とくほん)入道と名乗る。翌年に満祐が擁立していた[[足利義尊]]を討ちとり、嘉吉3年([[1443年]])に義勝が病死すると[[足利義政]]の8代将軍就任に運動する。[[禁闕の変]]に対処したり、嘉吉4年([[1444年]])に嘉吉の乱平定の功労者だった[[山名宗全]]を懐柔するため、満祐の従弟の[[赤松満政]]が領有する[[播磨国|播磨]]東三郡を宗全に与え、[[伊勢貞親]]と義政の擬似父子関係を取り結んだりもしている<ref>桜井、P171、P196 - P197、P268 - P277、川岡、P219 - P222、石田、P34 - P38、P62 - P75。</ref>。 === 細川氏との勢力争い === 持国は義教によって家督を追われた者達を復権させ、同時に自らも勢力拡大を狙っていたが、これに[[細川氏]]が対抗、義教に取り立てられた側に肩入れして各大名の[[お家騒動]]を誘発させた。 [[信濃国|信濃]]守護・[[小笠原氏]]は当主の[[小笠原宗康]]と従兄の[[小笠原持長 (信濃小笠原氏)|小笠原持長]]が対立、[[文安]]3年([[1446年]])に宗康が戦死して弟の[[小笠原光康|光康]]が後を継いだ。持国の2回目の管領在任期の[[宝徳]]3年([[1451年]])には持長が守護になっており、それまでは光康が守護だった事から、持国は持長を、細川氏は光康を立てていた事が分かる。 [[加賀国|加賀]]でもお家騒動が発生、嘉吉元年に[[富樫教家]]が義教の怒りを恐れて出奔、弟の[[富樫泰高|泰高]]が[[還俗]]して守護となったが、直後に義教が暗殺、泰高は教家派の[[守護代]]・[[本折氏]]に攻め込まれた。持国はこの紛争でも教家を支持して嘉吉2年([[1442年]])に守護を泰高から教家の子[[富樫成春|成春]]に変えた。しかし、実際は加賀を掌握していて、且つ[[細川勝元]](実際は勝元の叔父[[細川持賢|持賢]])に支援された泰高が有利であり、決着が着かないまま[[文安]]4年([[1447年]])6月に京都で土一揆が発生、両派共に止む無く妥協、加賀を北と南に2分割して、成春・泰高に分け与えた。 更に文安2年([[1445年]])、元[[近江国|近江]]守護[[六角満綱]]が嫡男の[[六角持綱|持綱]]と共に次男の[[六角時綱|時綱]]を擁立した家臣団に自殺に追い込まれる事件が発生。持国は何故か武力介入をしなかったが、勝元が管領に就任すると幕府は3男の[[六角久頼|久頼]]を[[還俗]]させて同族の[[京極持清]]と共に時綱一派を壊滅させた。 大和では大和永享の乱で没落した[[越智家栄]]を復帰させ、義教の怒りを買った前[[大乗院]][[門跡]]・[[経覚]]も復権、先の大乱で幕府方の[[成身院光宣]]・[[筒井順永]]兄弟と交戦中の嘉吉3年に経覚についた[[古市胤仙]]・[[豊田頼英]]・[[小泉重弘]]に大和の支配権を委ねた。しかし、勝元の後援の元、光宣も反撃するに及んで戦況は一進一退、古市胤仙の急死もあって享徳3年([[1454年]])に和睦した。 なお、[[関東]]では[[鎌倉公方]]に復帰した[[足利成氏]]には好意的な対応を取っていた。成氏の復権に尽力し、宝徳2年([[1450年]])の[[江の島合戦]]でも仲裁に当たった。また、宝徳2年に守護領国となった山城で守護支配を貫こうとして荘園横領や課税を行い南山城に影響力を持つ[[興福寺]]や山城[[国人]]と対立、興福寺門跡の[[尋尊]]は持国の権勢を評して宝徳3年[[9月1日 (旧暦)|9月1日]]条の[[大乗院日記目録]]に「近日、畠山権勢無双也」と表現している<ref>桜井、P277 - P279、川岡、P186 - P187、石田、P78 - P109、P114 - P120。</ref>。 === お家騒動と晩年 === 宝徳2年に将軍義政が乳母[[今参局]]の介入で元[[尾張国|尾張]][[守護代]][[織田郷広]]の復帰を図り、母の[[日野重子]]の反対に遭い撤回したが、持国は義政の提案を受け入れている。これについては、義政が守護への対抗上、今参局を通して畠山氏を抱きこむ狙いがあった。 一方、持国には嫡出の男子が無く、弟の[[畠山持富|持富]]を後継としていたが、文安5年([[1448年]])に庶子の義夏(のちの義就)を召し出し持富を廃して後継とする。しかし、一部の家臣の反対に遭い、新たに甥で持富の子の[[畠山政久|弥三郎(政久)]]が後継者に擁立され家臣団は弥三郎派と義就派に分裂、ついには義就派の[[遊佐氏]]([[遊佐国助]]など)が弥三郎派の[[神保氏]]([[神保国宗]]など)の屋敷を襲撃する事件が享徳3年に勃発し、血で血を洗う内紛が始まることになる。 当初は義就派が優勢であったが、畠山氏の弱体化を狙う細川勝元と山名宗全により弥三郎派が盛り返し、[[8月21日 (旧暦)|8月21日]]に屋敷を焼き討ちされ、義就は失踪、持国は[[8月28日 (旧暦)|28日]]に隠居したが、義政の介入で[[12月13日 (旧暦)|12月13日]]に義就が上洛、弥三郎は没落した。翌享徳4年(1455年)に死去、[[享年]]58。家督は義就が継いだ<ref>桜井、P281 - P285、川岡、P240 - P244、石田、P109 - P111、P160 - P161。</ref>。 === 死後 === 持国と細川氏の代理戦争で各大名家でお家騒動が頻発したが、畠山氏も内紛を起こし、弥三郎の死後も弟の[[畠山政長|政長]]を擁立する弥三郎派(政長派)と義就派の抗争は止まず、[[足利将軍家]]や[[斯波氏]]の家督相続問題([[武衛騒動]])と関係して[[応仁の乱]]が発生する。大和でも[[国人]]が2派に分かれて激突、応仁の乱終結後も続いていく事になる。 また、関東では勝元が管領に就任すると幕府が採った厳しい対応に危機感を抱いた成氏が[[関東管領]][[上杉憲忠]]を暗殺、[[享徳の乱]]を勃発させる。 == 偏諱を与えた人物 == *[[神保国宗|神保'''国'''宗]](じんぼう くにむね、?-1454、[[神保氏]])- 家臣・守護代。持国の後継者問題(前述参照)では弥三郎政久を推すが、義就派の追討を受け没落し、1454年に謀殺された。子とされる[[神保長誠|長誠]]も政久およびその弟・政長に属す。 *[[遊佐国助|遊佐'''国'''助]](ゆさ くにすけ、?-1460) - 家臣・守護代。持国の後継者問題(同)では義就を推して神保国宗らと対立。その後も義就派として活動するが、居城を政長軍に攻められた際に戦死。詳しくは[http://kotobank.jp/word/%E9%81%8A%E4%BD%90%E5%9B%BD%E5%8A%A9 こちら]を参照。 == 脚注 == <references/> == 参考文献 == * [[桜井英治]]『日本の歴史12 室町人の精神』[[講談社]]、2001年。 * [[川岡勉]]『室町幕府と守護権力』[[吉川弘文館]]、2002年。 * [[石田晴男]]『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』[[吉川弘文館]]、2008年。 == 関連項目 == *[[文安の麹騒動]] *[[加賀両流文安騒動]] {{管領}} {{先代次代|[[畠山氏|河内畠山氏]]|畠山持国|[[畠山満家]]|[[畠山持永]]}} {{先代次代|[[畠山氏|河内畠山氏]]|畠山持国|[[畠山持永]]|[[畠山政長]]/[[畠山義就]]}} {{DEFAULTSORT:はたけやま もちくに}} [[Category:畠山氏|もちくに]] [[Category:管領]] [[Category:守護大名]] [[Category:1398年生]] [[Category:1455年没]]
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