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'''甲陽鎮撫隊'''(こうようちんぶたい)は、[[慶応]]4年([[1868年]])に[[新選組]]が旧[[江戸幕府|幕府]]より[[甲斐国|甲州]]鎮撫を命ぜられた後の名称である。 == 名称について == 当時、甲陽鎮撫隊の名称を用いた文献は存在しない。[[大正]]年間に[[佐藤彦五郎]]の長男[[佐藤俊宣|俊宣]]が記した『[[今昔備忘記]]』に初出が確認され、それを参考資料として[[子母沢寛]]が『[[新選組始末記]]』で発表したことから定説化した。但し、俊宣自身が隊に関与しており、一概に隊名の批判はできない。 == 沿革 == [[鳥羽・伏見の戦い]]以来、陸軍軍事総裁[[勝海舟]](供述書では[[大久保一翁]])は前将軍[[徳川慶喜]]から全権を委任されて事態の収拾に当たっていたが、[[官軍]]が[[江戸]]へ入る前に脱走歩兵等の鎮撫が必要だった。当初、市中取締の[[彰義隊]]に打診したが、頭取の[[渋沢成一郎]]に拒否されたことから、当時、上野で前将軍警護に従事していた新選組に白羽の矢が立った。 慶応4年3月、幕府は局長[[近藤勇]]に甲州鎮撫を命じた。一説によれば、[[江戸城無血開城]]を実現しようとする勝が、抗戦派と目された新選組を江戸から排除するための策であったとされる。新選組は甲陽鎮撫隊と改称し、新規募集の隊士を合わせた約200名を従え、[[大砲]]2門・[[小銃]]500挺・軍資金5000[[両]]で甲州へ進軍した。幕命により、近藤は'''大久保大和守剛'''、[[土方歳三]]は'''内藤隼人'''と称した。 当初は[[甲府城]]を目指したが、進軍の遅れにより城は官軍(東山道軍)に占拠される。その後、東山道軍と勝沼字柏尾([[山梨県]][[甲州市]]、旧[[勝沼町]])において交戦した。鎮撫隊は兵力・武力とも官軍と比べ脆弱で、わずか1日の交戦で壊滅した([[甲州勝沼の戦い]])。鎮撫隊の残党は上野原(現[[山梨県]][[上野原市]])まで退却後、各自勝手に江戸まで撤退した。 == 新選組と弾左衛門との関係 == 近藤は当初、幕府より5000両の資金と大砲2門(6門だったが重かったので2門にした)と銃500挺を受領する。しかし、新選組は相次ぐ戦闘や[[脱走兵|脱走]]による兵力の減少が著しく、兵力の補強が急務であったため、浅草新町の[[弾左衛門]]に協力を要請する。弾左衛門の配下は関東一円から甲州・伊豆にかけて10万人ともいわれ、かねてから身分の引き上げを念願にしており、幕府[[御典医]][[松本良順]]は弾左衛門の隠居(12代目)が疫病にかかったのを往診したことから親しくなっていた。 3月1日、70余人の新選組は弾左衛門配下200人を加えて甲府へ進軍する。 == 鎮撫隊の敗因 == 隊は各地で酒宴を催したため進軍に遅れたとされるが実際は普通に行軍していた。まだ残雪の残る道を大砲を携えていく行軍では早い方である。しかし、先に到着した[[官軍|東山道軍]]に甲府城は占拠される。そのため、兵力差があるもやむなく[[野戦]]を行なった結果、大敗を喫したとされる。 == 参考文献 == *[[松浦玲]] 『新選組』 岩波文庫 == 関連項目 == *[[新選組]] {{DEFAULTSORT:こうようちんふたい}} [[Category:幕末諸隊]] [[Category:新選組]]
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