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田島圭蔵
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'''田島 圭蔵'''(たじま けいぞう、[[天保]]14年([[1843年]]) - [[明治]]32年([[1899年]]))は、日本の[[武士]]・[[薩摩藩]]士。新政府軍軍監。[[北海道]]開拓大主典。[[北海道製麻会社]]取締役。[[北海道炭坑鉄道会社]]のオーナー。'''敬蔵'''とも。通称は'''友右衛門'''。諱は'''盛繁'''。旧姓は'''永山'''。 == 経歴 == 薩摩藩士[[永山盛秀]]の3男として生まれたが、[[戊辰戦争]]勃発前後に脱藩。 新政府軍艦[[第二回天|高雄丸]]の艦長に任ぜられて明治元年([[1868年]])10月に[[箱館]]へ寄港したところ、[[榎本武揚]]を総裁とする旧幕府軍によって拿捕された。箱館が旧幕府軍に占領されていることを知らなかった田島は、副艦長[[井上干城]]と共に約1か月半投獄されたが、[[イギリス]]商人ポーターの計らいにより斬罪を免れ[[青森]]への帰還を許されたと言う。 明治2年([[1869年]])5月、[[箱館総攻撃]]が決定的な局面を迎えると征討軍軍監を任ぜられる。[[黒田清隆]]参謀の命を受けて13日、14日と[[弁天台場]]や[[五稜郭]]へ降伏勧告を出した。弁天台場は15日に降伏を決定。しかし総裁榎本武揚は五稜郭の降伏を拒否したため攻撃を続行。18日に五稜郭もやむなく降伏する。 維新後は[[開拓使]]を務め、北海道開拓大主典に就任する。明治20年([[1887年]])には北海道製麻会社取締役に就任して、北海道炭坑鉄道会社のオーナーとなるなど、北海道とは極めて縁が深い。 明治32年、死去。[[享年]]57。 [[箱館戦争]]終結後、旧幕府軍の遺体は賊軍として放置されたままだった。しかし箱館の侠客[[柳川熊吉]]が[[明治政府]]の咎めを恐れず遺体を回収し、[[実行寺]]や[[函館山]]に埋葬していた。明治政府官吏である田島は本来なら柳川を捕縛しなければならなかったのだが、一度旧幕府軍には助命された恩があったからか柳川の行動に感動して、あえて黙殺していたという。 {{DEFAULTSORT:たしま けいそう}} [[Category:幕末薩摩藩の人物]] [[Category:箱館戦争の人物]] [[Category:戦前北海道史の人物]] [[Category:日本の実業家]] [[Category:1843年生]] [[Category:1899年没]]
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