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[[ファイル:構造式 Tetrodotoxin.PNG|right|200px|thumb|'''テトロドトキシン構造式''' 田原の死後1964年に3人の研究者が独立に発表した]] '''田原 良純'''(たはら よしずみ、[[1855年]][[8月18日]]([[安政]]2年[[7月6日 (旧暦)|7月6日]]) - [[1935年]][[6月3日]])は、日本の[[薬学]]者。日本最初の[[薬学博士]]である。 ==経歴== [[佐賀藩]]士の田原卯源次の長男として生まれる。[[1870年]]、明治政府の公募を受けて、後の[[東京大学|東京帝国大学]]を構成する[[大学南校]]ドイツ語科に入学。鉱山学部を卒業し、[[工部省]]鉱山寮に勤めていたが、[[1876年]]に職を辞して[[東京医学校]]製薬学科に入学。[[1881年]]に卒業して[[内務省 (日本)|内務省]][[衛生局]]東京司薬場に勤め、薬品試験を担当する。 [[1882年]]、オランダ人監督のエイクマン (Johan Frederik Eijkman) の指導を受け、日本国産食品の栄養化学分析を始める。約160種類の食品を分析した。栄養分析表を作成し、欧米の食品と比較、国民栄養基準を作る。 [[1883年]]、司薬場が改組した東京試験所検明部長となる。食品のほか、大気や水の分析、試験を続ける。当時の[[長井長義]]所長と協力して[[漢方薬]][[牡丹]]皮に含まれる[[ペオノール]]の研究を進めた。このとき、欧米で研究が進んでいる植物成分に比べ、動物成分の研究が遅れていることに気づき、[[フグ]]毒に着目。フグ毒の成分分析を始める。 [[1887年]]、内務省[[国立医薬品食品衛生研究所|東京衛生試験所]]所長となる。 [[1890年]]から[[1892年]]まで3年間ドイツに留学する。まず[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]にのバイヤー教授に師事し、主にペオノールの構造を分析した。その後、[[アルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク|フライブルク大学]]に移り、ペオノール合成と[[アドニン]]の研究を進めた。アドニンとは[[フクジュソウ]]の配糖体の一種である。[[1893年]]に帰国し、フグ毒の研究を再開する。 [[1899年]]、日本国最初の薬学博士となる。以後、東京衛生試験所所長を続けながら、[[専売特許局]]技師、内務技師を兼務。 [[1907年]]、分離に成功したフグ毒を、フグ科の学名 Tetraodontidae(4枚の歯板を持つものの意)と、毒を意味するトキシン toxin から、[[テトロドトキシン]]と命名。その後、テトロドトキシンの薬理作用を解明し、鎮痛効果を実証した。 [[1914年]]、[[第一次世界大戦]]が始まると、海外からの医薬品の輸入が途絶える。これを受け、衛生試験所内に臨時の製薬所を設け、200種類以上の薬品の製造方法を研究、日本製薬工業の基礎を固めた。 [[1921年]]、帝国学士院から桂公記念賞を受ける。1935年に死去、[[多磨霊園]]に葬られた。 {{DEFAULTSORT:たはら よしすみ}} [[Category:日本の薬学者]] [[Category:日本の化学者]] [[Category:戦前日本の学者]] [[Category:日本の内務官僚]]<!--技官ですが?--> [[Category:国立医薬品食品衛生研究所の人物]] [[Category:1855年生]] [[Category:1935年没]]
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