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王濬
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'''王 濬'''(おう しゅん、[[拼音]]:Wáng Jùn、[[206年]] - [[285年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]から[[西晋]]にかけての人物。西晋に仕えた武将。[[字]]は'''士治'''。[[弘農]]郡湖県([[河南省]][[霊宝市]])の出身。妻は[[徐バク|徐邈]]の娘。 ==生涯== 代々2千石の家柄で、若い頃から経籍に精通し、また容姿に優れていたが、名声を求める行いをしなかったため、郷里の有力者達から評価されなかった。後に意を改めて大志を抱き、[[州]]に招聘されて河東従事となった。この頃、当時の[[刺史]]<ref>「晋書」王濬伝より。王濬は[[司隷]]の人なので[[司隷校尉]]の誤りか</ref>であった徐邈の娘を妻とした。 [[羊コ|羊祜]]の参軍事となり、羊祜に優待された。羊祜の甥の羊暨が王濬のことを「志は大きいが奢侈で節義が無いので、専任すべきではありません」と進言したが、羊祜は王濬の才腕が必要だと考えたため取り合わなかった。 [[益州]]の巴郡[[太守]]・[[広漢]]太守に昇進し、当地の兵役を緩め恵みをもたらしたため、郡民に喜ばれた。刺史の皇甫晏が張弘の乱によって殺害されると、代わって刺史となり張弘を誅殺し、その後も蛮夷を懐柔して多数を帰属させた。この功績で宮廷に入り、右[[衛将軍]]、さらに[[大司農]]となった。しかし、王濬を奇略の持ち主と知る羊祜は、密かに上表して再び彼を益州刺史とさせた。王濬は蜀の旧臣である何攀を重用し、羊祜とも連絡を取り合い[[呉 (三国)|呉]]討伐の協議を進めた。 詔勅によって、討伐するための艦船を建造し、[[咸寧 (晋)|咸寧]]5年([[279年]])、龍驤将軍・監梁益諸軍事として、[[長江]]を下って[[晋が呉を滅ぼした戦い|呉に侵攻した]]。王濬は各地で呉軍を破り、翌[[太康 (晋)|太康]]元年([[280年]])2月、戦地で平東将軍・仮節[[都督]]益梁諸軍事に昇進して、[[建業]]へ迫った。 この時、先んじて建業近郊に到着して呉の中軍<ref>京師(首都)防衛の中央軍</ref>を破り、[[張悌]]を斬るという活躍をしていた[[王渾]]は、王濬に対してしばらく前進を待つように軍令を出した。しかし、王濬は船の帆を指して「風向きに利がある。泊まることは得策でない」と勝手に前進し、[[孫晧]]を降伏させた。王濬に続き建業に入ることになった王渾は、これを甚だ遺恨に思い、武帝([[司馬炎]])に対し王濬を弾劾上表した。王濬は征伐の大功によって罪は免れたが、このために王渾との不和は以後長期に亘り続くことになった。 呉を滅ぼした功績により輔国[[大将軍]]・領歩兵[[校尉]]となった。また最終的には、撫軍大将軍・開府儀同三司・[[特進]]・散騎常侍にまで昇り、[[襄陽市|襄陽]]侯に封じられた。太康6年(285年)死去した。享年80。[[諡]]は武侯とされ、柏谷山に葬られた。その垣根は周囲45里で四面に門を備え、松柏が生い茂ったといわれる。 == 注 == <references/> == 参考 == *[[:zh:s:晉書/卷042|晉書/卷042(中国語版ウィキソース)]] {{DEFAULTSORT:おう しゆん}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:206年生]] [[Category:285年没]]
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