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王権神授説
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{{君主主義}} '''王権神授説'''(おうけんしんじゅせつ)とは、「[[王権]]は[[神]]から付与されたものであり、王は神に対してのみ責任を負い、また王権は[[人民]]はもとより[[ローマ教皇]]や[[神聖ローマ皇帝]]も含めた神以外の何人によっても拘束されることがなく、[[国王]]のなすことに対しては人民はなんら反抗できない」とする[[政治思想]]のことである。 [[ヨーロッパ]]の[[絶対王政]]期において、長らく「神の代理人」とされてきた[[ローマ教会]]の権威・権力からの王権の独立と、[[国民]]に対する絶対的支配の理論的根拠となった。代表的な論者に、[[フランス王国|フランス]]の[[ジャン・ボダン|ボダン]]や[[ジャック=ベニーニュ・ボシュエ|ボシュエ]]、[[イングランド]]の[[ロバート・フィルマー|フィルマー]]などがいる。 == ヨーロッパにおける王権神授説 == === 前史 === ヨーロッパでは、[[中世]]を通じて王権は[[キリスト教]]的な至上権から普遍的な支配権を主張する皇帝権・教権に対抗しうる神聖性や[[霊性]]を民衆の心性のうちに獲得しようとし、また、実際に王権はある種の霊威、あるいは超自然的権威をみずから位置づけることに成功した。このような霊威は当初、偉大な王の個性に基づいて「一代限り」のものであると考えられていたが、徐々に[[世襲]]されるようになり、[[儀礼]]も備えて王権とそれを世襲する王家に一種の[[カリスマ]]を付与することになった、と[[マルク・ブロック]]は指摘した<ref>より厳密に言うならば、[[マルク・ブロック]]の研究においては、王家の正統なる男系君主が事例に則していると思われる。すなわち「王家」というよりは「王権」の、それも「男系の王権」に備わる霊威であるとする。ただし家門に付随する血統霊威という観点を導入すれば、王家に霊性の根拠を求める見方も採りうる。マルク・ブロックの見解にあっても、示される霊威について血統の観念は否定されていない。</ref>。こうした霊威は、王権が教権に対して一定の自立性を示す根拠となった<ref>この節は全体的に[[マルク・ブロック]]『王の奇跡』に依拠している。</ref>。 {{See also|政教分離の歴史}} === 王権神授説の提唱 === ヨーロッパの中世末、[[封建領主]]のもとに隷属する[[農奴]]を主たる[[労働力]]としてきた[[荘園]][[経済]]はゆきづまりを見せてきた。危機に陥った貴族や聖職者などの封建領主層はさまざまなかたちで巻き返しを図ったが、他方では[[アメリカ大陸]]から[[銀]]が大量に流入することなどによって[[貨幣経済]]が進行し、新興の[[ブルジョアジー|市民階級]]が台頭してきた。しかし、その市民階級も単独で政治や社会を動かす力はなかった。こうしたなかで、[[王権]]は市民階級の力を一部取り込み、封建領主を臣僚化し、国外的には[[常備軍]]を設けて教権や皇帝権に対抗しながら国内的には封建勢力の抵抗を抑えようとした。このようにして展開された[[絶対王政]]であったが、実際には微妙な均衡の上に立っており、みずからの支配権は神によって授けられたものであるという王権神授説によって、自己の権力の正当化をはかった。 王権神授説を信奉した君主としては、[[イングランド]]の[[ジェームズ1世 (イングランド王)|ジェームズ1世]]([[スコットランド]]王としてはジェームズ6世)やフランスの[[ルイ14世 (フランス王)|ルイ14世]]がいる。なかでもジェームズ1世はみずから『自由なる君主国の真の法』([[1598年]])という論文を書いており、ここでいう「自由なる君主国」とは、王は[[議会]]からの何の助言や承認も必要なく、自由に法律や勅令を制定することができるという意味である<ref>ジェームズ1世は、[[1609年]]の[[イングランド議会]]でも「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力をふるっているからである。……王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外のなにものにも責任を負わない」と演説した。大野(1975)</ref>。 [[ファイル:Jacques-Bénigne Bossuet 2.jpg|right|150px|thumb|ボシュエ司教像]] 王権神授説をはじめて唱えたのは、[[16世紀]]フランスの[[法学者]]・[[経済学者]]として知られる[[ジャン・ボダン]](1530 - 1596)であった。フランス国内を二分した[[宗教戦争]]である[[ユグノー戦争]](1562-98年)のさなかにボダンが著した『国家論』([[1576年]])では王権神授説をふくむ近代的な[[主権]]論が説かれている。 イングランドにおいても[[ロバート・フィルマー]]([[:en:Robert Filmer|Robert Filmer]])が『父権論(Patriarcha)』([[1680年]])において「国王の絶対的支配権は人類の祖[[アダム]]の子どもに対する父権に由来する」との論を展開している。 [[ジャック=ベニーニュ・ボシュエ]]([[:en:Jacques-Bénigne Bossuet|Jacques-Bénigne Bossuet]]、1627 - 1704)は、フランス教会の独立を擁護し、『哲学入門』・『世界史叙説』・『棺前説教集』等の著書で知られる思想家であり、宮廷説教師として知られる。その概要は、ルイ14世の王太子に講義した一節に端的にあらわれるとされており、『世界史叙説』([[1685年]])においても、「神は国王を使者としており、国王を通じて人びとを支配している。……国王の人格は神聖であり、彼にさからうことは神を冒涜することである」との記述が見られる。この王権神授説の理論的根拠としては、[[新約聖書]]の『[[ローマの信徒への手紙|ローマ人への手紙]]』13章が考えられている。 {{See also|絶対王政}} === 社会契約説の登場と王権神授説の影響 === [[17世紀]]のイギリスでは[[清教徒革命]]や[[名誉革命]]などの[[市民革命]]の結果、[[立憲君主制|議会王政]]が確立した。また、こうした情勢のなかで、君主の支配権は国民との[[契約]]によって認められたものであるとする[[社会契約説]]が[[トマス・ホッブズ]]や[[ジョン・ロック]]によって唱えられて、王権神授説はしだいに否定されていった<ref>ロックの『[[統治二論]]』([[1690年]])のうちの第一論は、フィルマーの唱えた王権神授説に対する反論であった。</ref>。社会契約説はフランスにも伝わり、[[ジャン=ジャック・ルソー]]は[[人民主権]]の概念を打ちたてるにいたった。ロックやルソーの思想は[[フランス革命]]や[[アメリカ独立戦争]]にも大きな影響をあたえた。 ただし、今日においても、王権神授説は[[イギリス王室]]の[[戴冠式]]において、新国王に聖油をつける[[儀式]]などにその名残りが見受けられるとする指摘がある<ref>(注)「油を塗られた者」というのが「[[メシア]]」という語の意味であるように、《聖油を塗る》という行為は一般に[[神]]と関連づけられた[[宗教]]的行為あるいは[[象徴]]的行為である。</ref>。王権神授説はまた、主権者無答責の原則の原初的な現れとして把握することができ、行政権が[[法の支配]]を受けるようになった近・現代史においても国家無答責の原則そのものは長く採用されてきた経緯がある<ref>[[国家賠償]]の観点からは、[[19世紀]]後半にフランスで[[コンセユ・デタ]](行政裁判所)の[[判例]]によって公役務過失ないし危険責任の理論により、国家の賠償責任を肯定するようになった。</ref>。 <!--1910年には、ドイツで官吏責任法が制定され国の代位責任が肯定されるようになった。1946年にはアメリカで連邦不法行為請求権法が制定され従来の主権免責が改正されたが、今日でも一部の州ではなお国家無問責の原則が維持されている[要出典]。イギリスでは1947年に国王訴訟手続き法が制定され、主権免責原則を放棄した。--><!--以上[[国庫]]の記事から--> == メソポタミアの王権神授 == [[画像:Milkau Oberer Teil der Stele mit dem Text von Hammurapis Gesetzescode 369-2.jpg|thumb|150px|right|ハンムラビ法典(頂部)]] 古い文明の一つ[[メソポタミア文明]]では、王は「神の代理人」とされ、これは同じ[[古代オリエント]]文明でも現人神である[[古代エジプト|エジプト]]の[[ファラオ]]とは対照的であった。よく知られた『[[ハンムラビ法典]]』では王[[ハンムラビ]]が神[[シャマシュ]]より王権の象徴の輪と聖杖を授ける図が描かれている。その下に彫られているのが「目には目を、歯には歯を」で有名な条文である。このように法治を託された(あるいは為政者が仮託した)という面もあるが、代理人たる王を通した神への民衆の信仰心が大きかったことがうかがえる。 == 日本での場合 == [[小室直樹]]によれば<ref>小室直樹『日本人に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する』ワック出版、2005年12月14日。ISBN4-89831085-0 pp189-233</ref>、<!--現代の日本には機軸となるべき宗教の教化力が存在しておらず、民主主義が漂流しているとする。-->明治の初年、[[伊藤博文]]は立憲政治の前提として「宗教なるものありて之が機軸を為し、深く人心に浸潤して人心此に帰一」(明治二十一年(1888年)憲法草案審議)することが必要であるとし、立憲政治、民主主義政治はその機軸に宗教がなければ機能しないと理解していたとする。日本はペリーにより開国させられ不平等条約を結ばされたが、外国と対等に付き合うため日本を近代化すべく立憲政治へ移行したいが、日本には一神教といえるほどの宗教が無かった。小室の理解によれば、世界の植民地は独立するに際して、どの植民地もデモクラシー憲法を制定したにも関わらず、そのほとんどが[[軍部独裁]]や[[先軍政治]]へなだれ込んでしまった原因は、その機軸に一神教を設定しなかったからである。伊藤は「我国に在て機軸とすべきは独り皇室あるのみ」(同上)とし、皇室をもって立憲政治の機軸たる一神教へ昇華させ、日本人の心を一つにまとめて日本近代化の礎石にしようと考えた。皇室を「ヨーロッパ文化千年にわたる機軸を成してきたキリスト教の精神的代用品」(同上)と捉えたのである<ref>明治初年の当時はまだ天皇の知名度は低く、民衆は天皇の存在を知らないばかりか、知っていても天皇をインド渡来の低位神である天王と誤解していたり、天皇が我ら日本国民になにかしてくれた事があるのかなどと嘯く者の出るありさまであった。宗教が発祥するためには奇跡が必要である。その後、日本は日清戦争に勝ち、日露戦争に勝つこととなる。日本より文化的に優れていると信じ込んでいた中国に勝ち、日本の20倍も強いロシア軍を降して勝利した。この奇跡によって日本国民は天皇を天照大神の子孫であり最高神の一柱であるとして信仰するようになり、明治の初めには一部の尊皇家だけのものであった尊皇思想は全国民に行き渡り、伊藤博文の目論見どおり天皇教が宗教として成立し、大正には日本はすでに近代先進国家の一員としての道を歩んでいたのである。 ところが昭和に入り大東亜戦争と太平洋戦争に敗れ、GHQの占領統治で天皇の人間宣言が指令されるに至って、神たる天皇と日本国民との絆は断ち切られることとなる。日本は立憲政治の基盤を失い、国民は精神的支柱を失って、日本人全体が[[アノミー|急性アノミー]]を引き起こし、この精神疾患の特徴的症状として、日本人の独立自尊の精神はアメリカ依存自虐へと正反対に転向してしまった、と指摘する。(小室直樹「日本人に告ぐ」)</ref>。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} <div class="references-small"><references /></div> == 出典 == *[[マルク・ブロック]]著、井上泰男・渡辺昌美訳『王の奇跡―王権の超自然的性格に関する研究/特にフランスとイギリスの場合』刀水書房、1998年11月。ISBN 4887082312 *大野真弓『世界の歴史8 絶対君主と人民』中央公論社〈中公文庫〉、1975年2月。 ==関連項目== *[[王権]] *[[絶対王政]] *[[現人神]] *[[神政政治]] *[[政教分離]] *[[政教分離の歴史]] *[[エウヘメリズム]] *[[君主崇拝]] *[[足利義教]] *[[天命]](東洋での思想) {{DEFAULTSORT:おうけんしんしゆせつ}} [[Category:古代メソポタミア]] [[Category:ヨーロッパ史]] [[Category:イギリスの歴史]] [[Category:フランスブルボン朝]] [[Category:君主主義]]
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