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牧田吉明
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{{Infobox 人物 |氏名 = 牧田 吉明 |ふりがな = まきた よしあき |画像 = |画像サイズ = |画像説明 = |出生名 = |生年月日 = [[1947年]][[3月7日]] |生誕地 = [[静岡県]][[静岡市]] |失踪年月日 = |失踪地 = |現況 = |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1947|3|7|2010|5|29}} |死没地 = [[岐阜県]][[岐阜市]] |死因 = 病死 |遺体発見 = [[2010年]][[6月1日]] |墓地 = [[静岡県]][[静岡市]][[葵区]]大鋸町8-1 玄忠寺 |記念碑 = |住居 = |国籍 = {{JPN}} |別名 = |民族 = |市民権 = |教育 = |出身校 = [[成蹊高等学校]]、[[成蹊大学]]除籍 |職業 = [[民族主義|民族主義者]]、[[アナーキスト]]、[[新左翼]]活動家 |活動期間 = |雇用者 = |団体 = |代理人 = |著名な実績 = |業績 = |流派 = |影響を受けたもの = |影響を与えたもの = |活動拠点 = |給料 = |純資産 = |身長 = |体重 = |テレビ番組 = |肩書き = |任期 = |前任者 = |後任者 = |政党 = |政治活動 = |敵対者 = |取締役会 = |宗教 = 大本教 |宗派 = |罪名 = |有罪判決 = |犯罪者現況 = |配偶者 = |非婚配偶者 = |子供 = |親 = [[牧田與一郎]] |親戚 = [[保科正益]]、[[岩崎小弥太]]、[[岩崎久弥]]、[[調所広郷]] |コールサイン = |受賞 = |署名 = |署名サイズ = |公式サイト = |補足 = }}'''牧田 吉明'''(まきた よしあき、[[1947年]][[3月7日]] - [[2010年]][[5月29日]])は、[[日本]]の[[民族主義|民族主義者]]。かつて「爆弾屋」の通称を持つ[[アナーキスト]]、[[新左翼]]活動家として知られた。 == 経歴 == のちに[[三菱重工業]]社長として采配を振り'''牧田天皇'''と呼ばれた[[牧田與一郎]]の6人きょうだいの末子(4男)として[[静岡市]]に生まれる。[[1950年]]、[[東京都]][[新宿区]]諏訪町(現在の[[高田馬場]])の社宅に移り住み、[[1959年]]まで住み続ける。少年時代は昆虫好きの理科少年だった。のち家族と共に[[世田谷区]]下馬を経て[[港区 (東京都)|港区]]高輪へ転居。 [[1959年]]4月、[[新宿区立戸塚第二小学校]]を経て、[[三菱財閥]]系列の[[成蹊中学校・高等学校|成蹊中学校]]に入学。テニス部と生物部を経て登山部に入部。成蹊高等学校在学時代は学校に対して反抗的な態度を続けたため、同校卒業生中ただ一人[[成蹊大学]]への推薦を拒否され、[[1965年]]、一般入試で同大学[[政治経済学部]]と[[文学部]]に合格し、文学部文化学科に進む。入学と同時に三派系全学連の社会主義学生同盟(社学同)に参加<ref name="focus">『フォーカス』1982年6月4日号「『牧田吉明』爆弾証言までの軌跡──"御曹司"にして"テロリスト"の素顔」。</ref>。 [[成蹊大学]]自治会の執行委員として、文学部長[[金子武蔵]]と衝突。[[1965年]]の暮には国鉄運賃値上げ反対集会で機動隊員に暴行し、初めて[[逮捕]]される。家裁送致を経て2泊3日で釈放。[[風月堂 (東京都新宿区)|風月堂]]、どん底、ジャズビレッジに入り浸り、[[中上健次]]と交際。当時、[[吉本隆明]]の『固有時との対話』『転位のための十篇』を愛読し、密かに[[詩]]を書いていた<ref>中上健次『バッファロー・ソルジャー』p.76(福武書店、1988年)</ref>。小説を書き、同人誌の主宰を計画したこともある<ref name="nakagami77">中上健次『バッファロー・ソルジャー』p.77(福武書店、1988年)</ref>。当時の牧田について、中上健次は「俺らが新宿でフーテンしてて、毎日、毎日、ジャズばっかり聴いていた時代に、牧田はある時突然、登場したんだよね。まるで「[[風の又三郎]]」のように」「牧田は、突然、登場して、なんかワァーッと掻き回して、またスッと消える」と述べている<ref name="nakagami77" />。[[1966年]]、成蹊高校で2級下だった演劇部の娘に失恋、大学に退学届けを送りつけて[[四国]]に[[遍路]]の旅をするも、退学届けは不受理になり、その代わりに無届ビラ、立て看、集会、[[デモ活動|デモ]]、教師への暴言や唾棄といった学則違反ゆえに無期停学処分を受ける([[1966年]]3月)。このため処分撤回を要求して大学側と闘争、「大学は隠居学者を養うところじゃない」<ref name="sshincho1968">『週刊新潮』1968年7月20日「三菱重工副社長の意外な御曹司: 財界エリートと新宿フーテンエリート」。</ref>などの挑発的なアジビラを撒いて金子一派を罵倒し、[[1967年]]5月に除籍処分を受けた。これに対し、犬用の鎖を自分の首に巻き、それを大学構内の水道栓に結びつけて<ref name="focus"></ref>「処分粉砕」のハンストを17日間敢行し、1967年6月には『週刊バイタリーMATE』創刊号でカバーボーイとして取り上げられるなど、週刊誌の取材を受ける。後には除籍処分撤回を求めて成蹊大学を提訴し、法廷闘争を展開した<ref name="sshincho1968"></ref>。 同じ頃、[[アナーキスト]]組織[[背叛社]]に参加し、[[フーテン]]生活を送る。[[1968年]]には、新宿駅西口広場にて「爆弾」と大書した張り子を背中に担ぎ、裸で[[ハプニング]]をしていたこともある。同年[[6月29日]]、新宿で[[フーテン]]の決起集会を企画し、カンパを募っておきながらポスターと写真の売り上げを持ったまま雲隠れしたとみなされ騒ぎになったのもこの頃のことである(六・二九事件)<ref name="sshincho1968"></ref>。牧田はこの事件で首謀者の一人と見なされたが、当人はこれを否定している<ref name="sshincho1968"></ref>。また、フーテン仲間と東大の本郷キャンパスに押しかけ、東大元総長・[[浜尾新]]の銅像にペンキを塗ったこともある<ref name="focus"></ref>。この時期の牧田を2年近くにわたって撮影し続けたカメラマンの[[福島菊次郎]]は「生真面目で実に純粋だった。すれていないボンボンだから、調子のいい奴にずいぶんたかられてもいましたねえ……」と語っている<ref name="focus"></ref>。 [[1968年]][[2月24日]]の[[金嬉老]]逮捕に際しては、新宿駅西口に新聞紙で大きなダイナマイトのオブジェを作り、それに自らの身体を縛りつけ、テープレコーダーで金嬉老の声を流すというパフォーマンスを行う<ref name="sshincho1968"></ref>。同年[[3月4日]]、新宿の書店で本を万引きして逮捕され、「本が欲しかったのではなく、警察官の調書の書き方の中に彼らの意識構造を発見するため」と動機を語った(のち不起訴となる)<ref name="sshincho1968"></ref>。同年4月、「大学は除籍処分を撤回、牧田は自主退学」との形で成蹊大学と和解が成立。同年[[5月18日]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の第1回「木島則夫ハプニングショー」にユニットプロ(牧田はここでサイケ調のCMなどの製作を手伝っていた)の一員として出演、木島を[[新宿コマ劇場]]前の噴水に投げ込む計画を立てるも未遂に終わる<ref name="sshincho1968"></ref>。同年[[10月6日]]、背叛社火薬暴発事件が発生。友人が指名手配されたため、牧田も東京を後にして約1年間を関西で放浪。京都の左翼サロン「白樺」に出入りし、京大急進派グループの[[滝田修]]や[[高瀬泰治]]や[[田辺繁治]]と知り合う<ref name="sshincho1982">『週刊新潮』1982年6月10日号「『同志よ、卑怯だ』と告発するテロリスト牧田吉明の『生けるしるし』」</ref>。同じ頃、[[永山則夫連続射殺事件|連続射殺魔事件]]の重要容疑者として捜査一課殺人係の訪問を受けるも、真犯人の[[永山則夫]]の逮捕により容疑が晴れる。 [[1969年]]には京都の[[立命館大学]]に乗り込んで[[日本民主青年同盟|民青]]と闘争を展開。[[共産主義者同盟|ブント]]や[[革命的共産主義者同盟全国委員会|中核派]]や[[全学共闘会議|全共闘]]の裏切りに遭って民青から反撃され、田辺繁治と共にリンチを受けた挙句に逮捕されたが、[[ベトナムに平和を!市民連合|ベ平連]]を装って釈放された。翌日帰郷し、慈恵医大病院に20日間入院。 [[1969年]]12月、「転向祝い」と称して父親関係の会社から資金を集め<ref name="focus1991122027">『フォーカス』1991年12月20日・27日号「『ピース缶爆弾』対『小樽市役所』──ブドウ園を守るために戦う元過激派『牧田吉明氏』」</ref>東京渋谷にライブスペース「ステーション'70」を設立、社長を務め、[[阿部薫 (サックス奏者)|阿部薫]]、[[吉沢元治]]、[[高柳昌行]]たちに活動の場を提供、無名時代の[[三上寛]]を初めて出演させたのも牧田であった<ref>三上寛『怨歌に生きる』p.40-41(彩流社、2000年)</ref>。フーテンの先輩から牧田に紹介された三上寛は、「ステーション'70」について「店内は、四方の壁が鏡張りになっていて、無数のテレビ画面が埋め込まれていた」、「サイケデリックアーティストの[[宮井陸郎]]氏が設計したという驚くほどモダンな造りだった」、「日本の『アンダー・グラウンド・ミュージック・シーン』史上において、画期的なライブ空間で、三十年経った今でも、あれほど凝縮されたミュージック・シーンにはこれまでもまだ出会ったことがないと思えるほどだ」、「最初に貰ったギャラの多さに驚いた」と語っている<ref>三上寛『怨歌に生きる』p.38-40(彩流社、2000年)</ref>。 1970年秋、「ステーション'70」が赤字により閉店したため<ref name="focus"></ref><ref name="usijima" />、父親のつてで三菱グループのPR誌の製作を請負う広告会社を設立し社長となったが、[[1974年]]9月、大麻所持ならびに吸引で逮捕、108日間拘留される<ref name="focus"></ref>。この間、同年10月、京都地方公安調査局爆破事件に絡む爆発物取締罰則違反でも逮捕され、懲役1年10月、執行猶予3年の有罪判決を受けて<ref>当時牧田の弁護人をつとめた[[佐々木哲蔵]]によると、このとき爆発物取締罰則違反に問われた行為とは、ピース缶爆弾を所持していた牧田がそれを捨てさせる目的で別の青年に渡したというものだったという(『週刊新潮』1982年6月10日号「『同志よ、卑怯だ』と告発するテロリスト牧田吉明の『生けるしるし』」)。</ref>1975年に会社は解散となる<ref name="focus"></ref>。 裁判中の[[1975年]]3月、2歳下の女性活動家(東京出身で立命館大学全共闘メンバー<ref name="usijima">牛嶋徳太朗「指揮官先頭あるいは左翼の解体─放蕩息子たちのファシズム:<ピース缶爆弾>と牧田吉明の場合」(西日本短期大学法学会発行「西日本短期大学大憲論叢」40(1), p.54, 2002年3月)。</ref>)と結婚、同年11月に長男誕生。[[長野県]][[北安曇郡]][[小谷村]]千国蕨に転居し、父親の遺産で会員制の民宿「ぐゎらん洞」を経営<ref name="focus"></ref>していたが1978年に別居し、1979年暮に離婚<ref name="sshincho1982"></ref>。その後しばらくしてから山小屋の経営を他人に委ねて東京に移住し、荻窪で自然食を販売<ref name="sshincho1982"></ref>。この間、1980年から1981年にかけて「共産同遠方から派」と交際。1980年代以降は[[新右翼]]に接近。[[野村秋介]]との交友も知られており、[[阿部勉 (民族主義者)|阿部勉]]や[[牛嶋徳太朗]]、[[鈴木邦男]]とも交流があった。 1982年、生協で働いていた29歳の女性と再婚し、「ぐゎらん洞」に復帰<ref name="sshincho1982"></ref>。1985年<ref name="sshincho2008">『週刊新潮』2008年5月1日・8日号「『ピース缶爆弾男』牧田吉明の『チベット暴動』予言」</ref>に「ぐゎらん洞」を売却して<ref name="focus1991122027"></ref>小樽郊外の原野を坪1000円で買い取り、1ヘクタールのブドウ園を開き、「山猫農場」を名乗って葡萄農家や養鶏業を営み、自家製葡萄で作ったワインを1990年から「山猫ワイン」のオリジナルブランドで販売していた<ref name="tsunashima">[[綱島理友]]『ぼくらは愉快犯―Who's Afraid of Battlefields?』([[双葉社]]、[[1994年]])p.185</ref>。1985年に長女が誕生。このころ、大繁殖したネズミにより自らの畑のブドウが損害を受けたのは畑付近の小樽市のゴミ処理場が原因であるとし<ref name="tsunashima"></ref>、[[1991年]]11月から12月にかけ、[[小樽市]]の廃棄物焼却場建設とゴルフ場誘致に抗議して小樽市役所の玄関前にライトバンを停め、ハンストを行う<ref>『噂の眞相』1992年3月号 牧田吉明「汚樽市長・賊吏新谷昌明の暴政に抗する"わが闘争"」</ref><ref>『フォーカス』1991年12月20日・27日号「『ピース缶爆弾』対『小樽市役所』──ブドウ園を守るために戦う元過激派『牧田吉明氏』」</ref>。翌[[1992年]][[1月6日]]、小樽市のゴミ行政を批判して同市の廃棄物処理場の入口の市道にトラックを停めて道路を封鎖し、往来妨害の現行犯で逮捕された<ref>『讀賣新聞』1992年1月6日夕刊 「小樽 ぶどう農家、ごみ搬入阻止」</ref>。同年、[[風の会]]の参院選進出に際して阿部勉から立候補を勧められ承諾するも、内部からの反対で立候補を取りやめ、推薦人として風の会に協力<ref name="usijima" />。 小樽での事業に失敗して離婚した後、2001年から札幌市琴似で居酒屋「KAZE」を経営したがやはり失敗、車上生活を経て[[大本教]]に入信し、京都に移住したこともある。 晩年は[[岐阜県]][[白川郷]]付近の[[御母衣ダム]]のほとりに丸太小屋を借りて自炊生活を送っていた<ref name="sshincho2008"></ref>。このころ「1カ月の生活費は7万円、冬場は灯油代がかかるので10万円です」<ref name="sshincho2008"></ref>「今年(2008年)3月まで親族から仕送りがあったのですが、ネットに私のブログを載せて、カンパを募ろうと考えています」<ref name="sshincho2008"></ref>とも発言している。 2009年7月から長野県の[[白樺湖]]畔の観光ホテルに勤務し、ホテルの寮に住み、月給手取り6万円程度で<ref>[http://blog.goo.ne.jp/tosotuten567/e/0ffd171e2da6e19047ae16069cb1204b 牧田吉明ブログ 2009-07-23 00:26:27 ・・かなり慣れてきました ・・・・部屋はガラガラ ・・・・・]</ref>庭仕事を担当していたが<ref>[http://blog.goo.ne.jp/tosotuten567/e/b63fa862c6e649b6cf07be2422f7f276 牧田吉明ブログ 2009-06-21 20:10:40 ・・・拾う神もあり・・・・]</ref>、2010年3月に解雇され<ref>[http://blog.goo.ne.jp/tosotuten567/e/6b2e444e11ca3fedd1cee737cfd3b561 牧田吉明ブログ 2010-03-09 23:15:03 ・・ホテル クビになりました・・・・]</ref>岐阜市内に転居、一間のアパートで[[生活保護]]を受給して暮らすようになった。かねてより糖尿病と心臓病を患い、2010年5月15日に[[心筋梗塞]]で緊急入院したが5月22日に脱走して帰宅<ref>[http://blog.goo.ne.jp/tosotuten567/e/616b0bef32e73ac9e29299459d34e513 牧田吉明ブログ 2010-05-22 05:08:56 ・・五・一五 深夜心筋梗塞 発作 緊急入院・・・]</ref>。2010年6月1日、自宅で病気により亡くなっているのが発見された<ref>{{Cite news|url=http://mainichi.jp/select/jiken/news/20100603ddm012040154000c.html|title=ピース缶爆弾事件:製造を証言、牧田吉明氏死亡|newspaper=毎日新聞|date=2010-06-03|accessdate=2010-06-15}}</ref>。本人のブログの最終更新日は2010年[[5月27日]]だが、成蹊会の訃報では牧田の死亡日を5月29日と伝えている<ref>[http://www.seikei-alumnet.jp/obituary/h22/20100607-03.html 社団法人 成蹊会 訃報-H22 | 牧田 吉明氏(高16回・S40年) 逝去]</ref>。 ===ピース缶爆弾事件=== [[登山]]の趣味があった牧田は奥多摩の林道工事現場にダイナマイト庫が存在することに注目し、[[共産主義者同盟叛旗派|共産同叛旗派]]に爆弾闘争を提案<ref name="knuckles"></ref>。そして1969年9月中旬、牧田ら5人は自動車で奥多摩の工事現場からダイナマイト1箱を盗み出した。同じ頃、牧田は大企業から父に贈られた[[藤田嗣治]]のエッチングなど5-6点を自宅から盗み出し、同志の現[[ミヅマアートギャラリー]]代表[[三潴末雄]]<!--テロリストにつき[[WP:DP#B-2]]により実名を記載する-->(当時[[成城大学]]在学中)の仲介で大手画廊に売却し、200万円の現金を得た<ref name="sshincho1982"></ref>。 この200万円とダイナマイトを使い、[[共産主義者同盟叛旗派|共産同叛旗派]]グループの桂木行人<!--テロリストにつき[[WP:DP#B-2]]により実名を記載する-->(当時[[東京農工大学]]在学中)らが爆弾教本『[[栄養分析表]]』復刻版などを参考にして[[爆弾]]約100個<ref name="sshincho198263">『週刊新潮』1982年6月3日号「『真犯人』名乗り出たテロリスト『牧田吉明』のスクープと計算」</ref>を製造。この爆弾を牧田らが[[1969年]][[10月21日]]までに赤軍派中央軍、[[共産主義者同盟戦旗派|共産同戦旗派]]など3つのグループに提供<ref name="sshincho198263"></ref>し、京都地方公安調査局爆破事件で使用された他、立命館大学や中央大学で使用され<ref name="knuckles">『実話GON!ナックルズ』2007年5月号 星野陽平「老いた"爆弾屋"ピース缶爆弾事件38年後の全真相」</ref>、さらに[[土田・日石・ピース缶爆弾事件|警視庁第8・第9機動隊宿舎爆破未遂事件やアメリカ文化センター爆破事件]]が引き起こされた(なおピース缶爆弾製造と同じ頃、牧田は吉田喜重監督の映画『煉獄エロイカ』でテロリスト役を演じている)。また、このピース缶爆弾は10・21国際反戦デーにおける街頭戦で赤軍派による自衛隊攻撃に使用されたものの、全てが不発に終わった<ref name="knuckles"></ref>。これは、爆弾の組立を担当した赤軍派のメンバーが誤って導火線の根元に接着剤をつけ、火がダイナマイトまで届かなかったためである<ref name="knuckles"></ref>。 その後、警視庁第8・第9機動隊宿舎爆破未遂事件やアメリカ文化センター爆破事件を含む一連の爆弾テロ事件の容疑者として、[[1973年]]3月、極左活動家の増淵利行ら18人が起訴されたが、公判継続中の[[1982年]]5月、牧田みずから自分こそが真犯人と名乗り出たため大騒ぎになった。この時、弁護団の中心人物として牧田に証言させたのが[[仙谷由人]]であった<ref>[http://blog.goo.ne.jp/tosotuten567/e/14fd76951ea6f9ae7ce31e97ed81febf 牧田吉明ブログ 2009-09-21 22:18:20 ・ガンバレ・・仙谷由人・・・]</ref><ref>[http://news.nifty.com/cs/headline/detail/postseven-20110619-23422/1.htm NEWSポストセブン 2011年6月19日(日)16時0分配信 キングメーカー仙谷由人氏 爆破事件実行犯を無罪にした人脈]</ref>。 [[1983年]][[5月19日]]、東京地裁は増淵ら統一組被告人たちに全員無罪を言い渡した<ref name="hi">『杼』第4号p.118、エディションR、1985年4月25日発行</ref>。判決は増淵らの自白調書の信用性を否定しつつ、一方では"疑いが強く残るが犯罪の証明がない"との判断を示し、また若宮・牧田証言についても「証言内容が大ざっぱだったり不自然な点が多い」と退けた<ref name="hi"></ref>。また、[[1984年]][[3月22日]]、東京地裁は分離組の被告人たちにも自白の信用性は認められないとの判断を示し、全員無罪を言い渡した<ref name="hi"></ref>。若宮・牧田証言については「両名がそれぞれの事件に関与している疑いは相当強い」としつつ「全面的には信用し難い」と無罪の根拠には採用しなかった<ref name="hi"></ref>。これに対して東京地検は控訴したが、[[1985年]][[12月13日]]、東京高裁が地裁判決を支持し、増淵らの無罪が確定した。一方で、牧田の行為については既に[[公訴時効]]が成立していたため、検察は牧田を逮捕起訴することが叶わず、大失態となった。この裁判に関しては、もともと増淵らの被疑事実を裏付ける証拠に決め手が乏しく、検察側の立証にも粗が目立つため、裁判の行方が大いに注目を集めていた<ref name="focus"></ref>。 この「真犯人騒動」の頃、[[テレビ朝日]]の番組で牧田にインタビューを行った[[田原総一朗]]は「左翼というよりは、むしろ民族派的な体質が感じられた。彼は[[共産主義]]でも[[社会主義]]でもなく、アナーキスト的色彩はありながら、日本について強く憂えていると、私は感じ取った」「あるいは三菱の"天皇"だった父親への強烈な反発ということもあったのかもしれない」<ref>『映画芸術』2010年秋号所載、田原総一朗「国を憂えていたアナーキスト」</ref>と述べている。 == 家族・親族 == 母は[[岩崎小弥太]]の娘(庶子)で、箱根[[底倉温泉]]の老舗旅館「つたや」の経営者[[沢田鋓義]]の養女<ref name="kusa2">草柳大蔵『実力者の条件』p.201(文藝春秋社、1970年)</ref>。小弥太は自分の娘の一人を與一郎に娶らしめたとき「浮気をしてもよいという条件でオレの娘を妻にせんか」と言ったとされる<ref name="kusa2"/>。母方の祖母は[[上総国|上総]][[飯野藩]]第10代藩主・[[保科正益]]の娘。従って[[三菱財閥]]の3代目総帥・[[岩崎久弥]]は吉明の義理の大叔父にあたり(久弥の妻・寧子は保科正益の長女)、元[[三菱銀行]]頭取・[[田実渉]]は吉明の母の従姉妹の夫という関係にあたる(田実の義父・楠田咸次郎は保科正益の娘婿)。故に牧田家は[[三菱グループ|三菱]]の創業者一族・[[岩崎家]]及び三菱と縁の深い田実家と姻戚関係で結ばれている。 なお、三兄・牧田安夫の妻紀美は調所一郎([[日本国有鉄道]]理事中部支社長、[[鉄道弘済会]]理事、[[男爵]])の次女で、[[調所広郷]]の玄孫。 ==語録== *「私の思想について、人は、アナキストというが、アナキストかどうか、自分でいったことはない。少なくともマルクス主義者ではない。ただ、田辺(繁治)さんなんかに代表されるような"京大官学左翼"になんらかの落しまえをつけなければならないことだけは、確かです」<ref name="sshincho1982"></ref> *「冤罪事件でやられたのは、滝田修さんを除いた京大とか東大にはあまりいないんです。やられたのは二、三流の私学でしょ。その人たちが捕まったって、だれも騒いでくれなかった。例えば京大の人はつぶしがきくけど、立命館など二、三流私学の、いつもゲンコツや足に使われた人は、どこで浮かばれるんですか。田辺さんは京大全共闘の幹部だった。そういう人はそれなりの責任の取り方があるでしょう」<ref>『週刊朝日』1982年6月11日号「牧田証言で崩れる!? 連続爆弾事件『虚構』の原点」</ref> *「私が何やかにやと活動を続けてこられたのは、実家から金を引っ張り出せたからだ、という人もいるかもしれないが、金ってものは、天下の回りもの。何かをするには必要なもの。政治でも何にしても、いろんなところから引っ張り出して来る。私の場合、それが実家から取ったということだろうと思う。そういうことは20歳ぐらいのときから割り切っていた。私は別に倫理運動をしていたわけではありませんから」<ref name="sshincho1982"></ref> *「確かに[[大日本帝国]]は[[中国]]や[[朝鮮]]で悪いことをしました。でも、[[ロシア]]や[[アメリカ]]や[[イギリス]]がやってきたことに対して、少なくとも等価ですよ。中国が周辺国家に対してやってきたことと等価なんです。日本だけが極め付けに悪いわけではない。ところが戦後の日本の左翼は、日本が全面的に悪うございました論ね。日本人の底の底にはそういうことをする悪い根があるから鞭打とう、という一億総懺悔運動に変わってくるわけですよ。津村って野郎([[津村喬]])は[[華青闘]]の中国人学生に向って『俺は中国人にはナグラれても絶対にナグリ返さない』て言ったっていうだな(ママ)。それこそ差別主義だよ」<ref>[[絓秀実]]との対談「特集 政治の言語・言語の政治 炸裂するピー缶」における発言(『杼』第4号、エディションR、1985年4月25日発行) </ref> *(冤罪で起訴された増渕に悪いと思わなかったかとの質問に)「申し訳ないなんて気持ちは全然ないよ。過激派である以上、官憲から弾圧されるのは当たり前のことじゃないの」<ref name="knuckles"></ref> *「10・21でピース缶爆弾が炸裂していれば、[[機動隊]]の指揮系統が崩れ、[[自衛隊]]が出動していたでしょう。ただ、[[革命]]なんてものが成功するはずはなくて、過激派は徹底的に鎮圧され、運動は有終の美を飾ったと思う。そうなっていれば、[[連合赤軍事件]]のような陰惨な内ゲバ事件も起こっていなかったでしょう。69年以降は爆弾テロで犠牲者が何人も出て、ピース缶爆弾事件でも冤罪で多くの人が捕まった。僕が真犯人だと名乗り出ようと思ったのは、そうした陰性の時代の気分を変えたいという気持ちがあったんだよ」<ref name="knuckles"></ref> == 著書 == *『我が闘争 スニーカーミドルの爆烈弾』(1984、山猫書林 私家版) *[[野村秋介]]、[[内藤国夫]]との共著『時代に反逆する』(1988、河出書房新社) == 関連書籍 == *[[清水一行]]『燃え盡きる』(1972、徳間書店。1995、[[集英社文庫]])父・牧田與一郎の伝記小説。吉明も登場する。 == 映画出演作 == *『[[煉獄エロイカ]]』(1970, 監督:[[吉田喜重]], 現代映画=日本ATG) == 外部リンク == *[http://plaza.rakuten.co.jp/yaneko666/ 牧田吉明ブログ(更新停止)] *[http://blog.goo.ne.jp/tosotuten567 牧田吉明 最期の遠吠え 近代合理文明の大崩壊から復活へ(新ブログ)] ==脚注== {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|3}} {{DEFAULTSORT:まきた よしあき}} [[Category:1947年生]] [[Category:2010年没]] [[Category:静岡市出身の人物]] [[Category:サブカルチャー]] [[Category:新左翼活動家]] [[Category:日本の右翼活動家]] [[Category:日本の政治運動家]] [[Category:日本のテロリスト]] [[Category:日本の無政府主義者]] [[Category:日本の社会運動家]]
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牧田吉明
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