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爵位
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'''爵位'''(しゃくい、英語:Royal and noble ranks,Title)とは主に[[古代]]から[[中世]]にかけての[[国家]]や現代における[[君主制]]に基づく国家において、[[貴族]]の[[血統]]による[[世襲]]または国家功労者への[[恩賞]]に基づき授与される[[栄誉称号]]のことである。別称として'''勲爵'''、'''爵号'''など。[[官職]]と爵位を総称して'''官爵'''ということもある<ref>[[尾形勇]][[編集|編]]『歴史学事典10 身分と共同体』([[弘文堂]]、[[2003年]]([[平成]]15年))299頁及び301頁、[[新村出]][[編集|編]]『[[広辞苑|広辞苑 第六版]]』([[岩波書店]]、[[2011年]](平成23年))1297頁および[[松村明]]編『[[大辞林|大辞林 第三版]]』([[三省堂]]、[[2006年]](平成18年))1156頁参照。ホームページ上では外部リンク [http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/jomin/pdf/sjpn-26-02.pdf 篠田賢「カバネ 「連」の成立について]参照。</ref>。 == 概要 == 爵位とは貴族の称号を序列化したものであり、国家が賦与する特権や栄典の制度である<ref name="daihyakka313">[[相賀徹夫]]編著『[[日本大百科全書|日本大百科全書11]]』([[小学館]]、[[1986年]]([[昭和]]61年))313頁、314頁参照。</ref>。 [[中国]]及びその影響圏における爵位は古くは中国の[[周]]にさかのぼり[[諸侯]]の[[封号]]として爵位が授けられ、その慣行は[[清]]代まで続いた。また近代の[[日本]]の[[華族]]でも用いられ、あるいは西欧の貴族称号の訳語として[[ヨーロッパ]]・[[ロシア]]の貴族についても用いられた。'''五爵'''(ごしゃく)或いは'''五等爵'''(ごとうしゃく)、'''公・侯・伯・子・男'''(こう・こう・はく・し・だん)などともいう。なお、[[タイ王国|タイ]]の爵位制度に関しては[[ラーチャウォン]]を参照。有爵者への敬称は「[[閣下]]」または「[[卿]]」。天から授かった徳を'''[[天爵]]'''というのに対して、爵位や位階官禄のことを'''人爵'''という。 君主の称号を爵位とみなすかどうかについては、その国の伝統や文化、さらに爵位に対する考え方の違いによって、差異がある。 * 日本の[[天皇]]の場合、天皇は爵位を与える(または認定する)主体であり、爵位を受ける側ではない。[[隋]]の九等爵の場合、その筆頭は「[[国王]]」であるがそれを与える者は隋の皇帝であり、皇帝は爵位を受ける側ではない。 * 一方、「'''王爵'''」「'''帝爵'''」という言葉が使われることもあり、「[[王]]」といった君主の称号即ち[[君主号]]も広義では爵位の一種とみなすこともある。中国の場合、上位の君主である皇帝が下位の君主である「王」を認定することがあり、その場合には「王」もまた皇帝の下にある爵位のひとつとみなされる。 * ヨーロッパの国においては歴史的な成立事情から[[公国]]、[[大公国]]、[[侯国]]といった名称を名乗るものがあり、そこでは有爵者を[[君主]]や[[国家元首]]とされている。このように、爵位が君主号の役割を果たしている場合もある。 今日、君主制ではない、いわゆる[[共和国]]ではもちろんのことであるが君主国の系譜を引く[[フランス]]や現在も君主国である日本などでも貴族制度、華族制度が廃止となるなど公式に爵位を定めない国もある。その場合においても特にフランスなどに代表されるように一部では慣習として爵位を私称し続けたり、その私称を継承し続けている旧貴族層も存在している。なお君主制あるいは自国に爵位制度が存在するかに関わらず外国の爵位が贈呈されることも少なくなく、国際親善や特定の国に利益をもたらした人物にその国から爵位が贈呈される場合もある。また一部には[[寄付]]により爵位を贈呈する国や自称国家もあるが、それらの中には[[詐欺]]まがいのものもあるのが現状である。 === 爵位等級 === 序列は以下のとおりとなる(英語名は青色が男性、赤色が女性)。 {| class="wikitable" !称号!!英語名 |- |[[皇帝]]<br> [[天皇]]||<span style="color:blue">Emperor</span>, <span style="color:red">Empress</span> |- |[[国王]]<br> [[天王]]||<span style="color:blue">King</span>, <span style="color:red">Queen</span> |- |[[親王]]||<span style="color:blue">Prince</span>, <span style="color:red">Princess</span> |} {| class="wikitable" !称号!!英語名 |- |[[大公]]||<span style="color:blue">Archduke</span>, <span style="color:red">Archduchess</span><br> <span style="color:blue">Grand duke</span>, <span style="color:red">Grand Duchess</span> |- |[[公爵]]||<span style="color:blue">Duke</span>, <span style="color:red">Duchess</span> |- |[[侯爵]]||<span style="color:blue">Marquess/Marquis</span>, <span style="color:red">Marchioness</span> |- |[[伯爵]]||<span style="color:blue">Earl/Count</span>, <span style="color:red">Countess</span> |- |[[子爵]]||<span style="color:blue">Viscount</span>, <span style="color:red">Viscountess</span> |- |[[男爵]]||<span style="color:blue">Baron</span>, <span style="color:red">Baroness</span> |} [[法王]]や[[カリフ]]などはその宗教的性格、および複数の王国の長という意味がないことなどから別格とされる。また[[プリンス|prince]]は王子と訳されることが多いが女王の夫([[王配]])をprince、姉妹を[[プリンセス|princess]]と呼ぶなど、親王が完全に対応するわけではないが近い訳である。 == 東洋の爵位 == === 中国における爵位 === ==== 秦以前の爵位 ==== 中国語における爵とは中国古代の温酒器を意味し、三本足の青銅器であり中国の古代王朝ではこの爵を人物の徳や身分を指す概念として用いるようになった。その起源は氏族制の時代に宴席での席次を定める習俗にあるとされる<ref name="daihyakka313"/>。『[[孟子]]』(告上篇)には「天爵なる者有り、人爵なる者有り」といい、孟子は忠・孝・仁・義などの人徳を指し'''天爵'''と呼び、社会的地位である通常の爵位を'''人爵'''と呼んで、制度としての爵位(人爵)を精神的な価値(天爵)の下に置く思想を唱導した。儒教の経典の主張するところによると[[夏 (三代)|夏]]王朝には'''公'''・'''侯'''・'''伯'''・'''子'''・'''男'''の五等があり、それが[[殷]]代には'''公'''・'''侯'''・'''伯'''の三等となり周代には再び五等となったとされる。また『[[書経]]』(王制篇)によると公侯伯子男の5位はその領地の大小広狭によって5段階に分けたものである。ただし、例外事項が少なくとも二つあり、第一に諸侯は爵位の上下にかかわらず自国の領内ではすべて'''公'''と自称・呼称されるのが礼とされた(爵位はあくまでも周王朝の朝廷における順位にすぎないのに対し、ここでいう'''公'''は爵位ではなく「領主」とか「殿様」ぐらいの意味)。第二に[[周礼]]によると異民族の国々の首長は領地面積の大小にかかわらずすべて'''子'''の爵位しか与えられなかったとされる(これも周王朝内部の建前であり、自国内では'''公'''または王を自称した)。この二項は現在残る歴史書の記述にも合致している(ただし異民族の首長が子爵を与えられていると自認していたという考古学的証拠はない)。さらに爵位とは別に「[[禄位]]」というものがあり、爵位と禄位が並行されていた。禄位とは'''公'''・'''卿'''・'''大夫'''・'''士'''であるが、これは仕える君主(諸侯)が五等爵位のどれであるかによって例えば同じ「大夫」であっても相互の地位の高さに違いがあったり、さらに細かく(例えば上大夫・下大夫のように)別れたりした。 しかし[[甲骨文]]、[[金文]]等の同時代資料を用いた歴史学の実証的な研究によりこれらの時代に実在した都市国家支配層や共同体の成員には爵位の原型とされる称号はあったものの五等爵のようにきれいに序列化され整理されたものではなかったことが明らかになっている。きれいに序列化された五等爵は戦国時代に過去の時代のありかたをもって当時の政権に正当性を与えるために諸子百家により整理され、序列化されたものではないかとする説が有力になってきている<ref name="daihyakka313"/>。 実際の爵位については、制度としてどこまで整理されたものかは不明だが、所謂爵位に該当または類似したものとして、 *'''婦'''(女性の爵位で巫女的な存在。最高位だったが周代では格下げされ[[士]]階層の配偶女性をさす言葉になった) *'''子'''(王族(王子)の意味で婦に次ぐ高位の都市の領主。周代には格下げされ都市共同体の[[大夫]]階層をさした) *'''公'''(周代、侯の中の特別に格付けされたもの。公と侯の字は当時も発音が同じだったと考えられる) *'''侯'''([[都市国家]]の首長) *'''伯'''(殷代、王権の親衛隊的存在だったが、周では都市国家に従属する小都市の長) *'''叔'''(諸侯の兄弟の意で、周代の都市国家に従属する小都市や村の長) *'''亜'''(亜の字は王を取り囲む者の意味で、殷王の親衛隊的存在。周王朝には無い) *'''男'''(殷の下層首長を管理する徴税官的存在。周では都市共同体の[[大夫]]階層) *'''田'''(殷代、下層の首長層。周王朝には存在せず) *'''方'''(「邦」の語源で、殷代には外国の王や異民族の首長をいう。『周礼』における子爵に該当) の存在が知られている。 ==== 秦・漢の爵位 ==== [[秦]]では[[商鞅]]の第一次変法により軍功褒賞制と爵位制が設けられ、[[二十等爵制]]として軍功により爵位を与えた。その爵位により、土地の保有量や奴婢数など生活水準が決められていた。 [[前漢]]には[[秦]]の軍功爵制を改め、軍功に限らず身分に応じて軍功爵の爵位を与えた。更に二十等爵の他に'''王爵'''を設けたが、これは次第に皇族に限られることとなった。また、爵位を持つ者は土地の保有を許可された<ref name="daihyakka313"/>。 二十等爵とは'''第二十級'''の'''徹侯'''(後に[[武帝 (漢)|武帝]]の[[避諱]]から'''通侯'''・'''[[列侯]]'''と呼ばれた)を筆頭に'''第十九級'''の'''[[関内侯]]'''、'''第十八級'''の'''大庶長'''、'''第十七級'''の'''駟車庶長'''、'''第十六級'''の'''大上造'''と続き以下'''少上造'''、'''右更'''、'''中更'''、'''左更'''、'''右庶長'''、'''左庶長'''、'''五大夫'''と続いた。ここまでが'''官爵'''であり十二等に分かれることから'''十二等爵'''ともいい、官吏に与えられた。'''第八級'''の'''公乗'''以下、'''公大夫'''、'''官大夫'''、'''大夫'''、'''不更'''、'''簪裊'''、'''上造'''、'''公士'''までを'''民爵'''といい民に与えられた。これらの上に[[諸侯王]]<ref name="daihyakka313"/>、さらには天子が君臨することから実質的には二十二等爵である<ref name="daihyakka313"/>。 漢武帝の代には軍事費調達のために売爵が行われ爵位の価値が低くなったため、軍功による爵位として別に武功爵が設定された。これは'''第十一級'''の'''軍衛'''を筆頭に'''第十級'''の'''政戻庶長'''、'''第九級'''の'''執戎'''、'''第八級'''の'''楽卿'''と続き以下'''千夫'''、'''秉鐸'''、'''官首'''、'''元戎士'''、'''良士'''、'''閒輿衛'''、'''造士'''といった。しかしこれらの武功爵も後に売爵の対象となった。 [[後漢]]代に入ると爵位の価値は更に軽くなり列侯、関内侯のみが爵とされ、列侯はさらに'''県侯'''、'''郷侯'''、'''亭侯'''などに細分された<ref name="daihyakka313"/>。 ==== 魏晋南北朝の爵位 ==== [[魏 (三国)|曹魏]]に至ると秦[[漢]]以来の十二等爵を廃止して、儒教経典の'''公・侯・伯・子・男'''を擬古的に復活させた。[[曹丕|文帝]]の黄初年間に'''王・公・侯・伯・子・男・県侯・郷侯'''(最初'''郷侯'''の下に'''亭侯'''が置かれていたが後に省かれる)'''・関内侯'''の九等の爵制が定められた。[[222年]]([[黄初]]3年)には皇子を王に封じ、王子を郷公に封じ、王世子の子を郷侯に封じ、公子を亭伯に封じていた。その後[[224年]](黄初5年)には諸王の爵位が皆'''県王'''に改められ、[[曹叡|明帝]]の[[232年]]([[太和 (魏)|太和]]6年)に再調整されて'''郡王'''となった。以上の九等の外に庶民や兵士に対しての賜爵もあり、'''関内侯'''の下には'''名号侯・関中侯・関外侯・五大夫侯'''が創立された。 [[西晋|晋]]の[[司馬炎|武帝]]の[[275年]]([[咸寧 (晋)|咸寧]]3年)に'''王・公・侯・伯・子・男・開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国伯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯'''の爵制が定められた。皇子でない者には王は封じらず[[宗室]]には'''公・侯・伯・子・男'''(郡公・県公・郡侯・県侯も与えられた場合もあった)があり、功臣には'''開国郡公・開国県公・開国郡侯・開国県侯・開国侯・開国子・開国男・郷侯・亭侯・関内侯・関外侯'''等があり、亭侯以上には封邑が与えられた<ref name="daihyakka313"/>。五等爵の上に「開国」の2字を加えるケースは[[西晋]]では少なかったが、[[東晋]]になると多く用いられるようになり常に古来からの五等爵と混称されることもあった。魏晋時代以降は民爵については有名無実化し、皇帝を頂点とした皇族と功臣の爵位制度となっていった<ref name="daihyakka313"/>。 南朝の[[梁 (南朝)|梁]]では、おおよそ魏晋代に倣った爵制を定めていた。[[陳 (南朝)|陳]]では'''郡王・嗣王・藩王・開国郡公・開国県公・侯・伯・子・男・沐食侯・郷亭侯・関中関外侯'''の十二等があった。 [[北魏]]の[[道武帝]]の[[396年]]([[皇始 (北魏)|皇始]]元年)に五等爵が定められたが、[[404年]]([[天賜 (北魏)|天賜]]元年)に五等から'''王・公・侯・子'''の四等に減らされた。王は大郡、公は小郡、侯は大県、子は小県が与えられた。その後、再び'''伯・男'''の二等が加えられた。皇子と功臣には王が封ぜられた。[[500年]]([[景明]]元年)には'''王・開国郡公・散公・侯・散侯・伯・散伯・子・散子・男・散男'''の十一等の爵制が定められた。[[九品官人法|官品]]との対応は下の表を参照。なお王には官品は適用されていない。 [[北斉]]では'''王・公・侯・伯・子・男'''の六等に分けられた。官品との対応は下の表を参照。なお王には北魏の場合と同様に官品は適用されていない。 [[北周]]の爵位には全て「開国」が加えられている。爵位は'''王・郡王・県王・国公・郡公・県公・県侯・県伯・県子・県男・郷男'''の十一等が定められた。 ==== 隋・唐・宋・遼・金・元の爵位 ==== [[隋]]の[[文帝 (隋)|文帝]]の開皇年間に'''国王・郡王・国公・郡公・県公・侯・伯・子・男'''の九等爵が設けられた(但し「国王」については、従属国・[[朝貢貿易]]の相手国の君主に対して与える[[封号]]としてのみ用いられ、本稿で述べる君主が臣下に与える爵位とは異なる)。この他文献には、'''郡王・嗣王・藩王・開国郡県公・開国郡・県侯・開国県伯・開国子・開国男・湯沐食侯・郷侯・亭侯・関中・関外侯'''なども見られる。 中国の爵位は隋代以降基本的には'''王・公・侯・伯・子・男'''をベースにしたものとなり[[唐]]・[[宋 (王朝)|宋]]代に完成した。その後[[金 (王朝)|金]]・[[元 (王朝)|元]]を経て、徐々に簡素化し[[明]]代には殷や周のころのように五等や三等であった。[[清]]代も基本的に五等爵を基本としていたが、等級を設けていた。 {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto" !官品!!日本¹!!北魏!!北斉!!隋²!!唐・遼³!!宋<sup><small>4</small></sup>!!金!!元 |- |正一品||||開国郡公||||colspan="5"|王 |- |従一品||公||開国県公・散公||開国郡公||郡王・国公・開国郡公・開国県公||colspan="2"|嗣王・郡王・国公||郡王|| |- |正二品||侯||開国県侯||散郡公・開国県公||開国侯||開国郡公||郡公・開国郡公||rowspan="2"|郡公||国公 |- |従二品||伯||散侯||散県公・開国県侯||||colspan="2"|開国県公||郡公 |- |正三品||rowspan="2"|子||開国県伯||散県侯・開国県伯||開国伯||colspan="2"| ||rowspan="2" colspan="2"|郡侯 |- |従三品||散伯||散県伯||||開国県侯||開国侯 |- |正四品||rowspan="2"|男||colspan="2"|開国県子||開国子||開国県伯||開国伯||rowspan="2"|郡伯・県伯||rowspan="2"|郡伯 |- |従四品||散子||散県子||colspan="3"| |- |正五品||rowspan="2"| ||colspan="2"|開国県男||開国男||開国県子||開国子||colspan="2"|県子 |- |従五品||散男||開国郷男・散県男||||開国県男||開国男||colspan="2"|県男 |- |colspan="9" style="text-align:left"|<small> ;Notes: :1) 日本については品階ではなく[[位階]]であるが、類似した制度なため参考として載せた。この爵位と位階の対応は'''位階令'''([[1926年|大正15年]]勅令第325号)による。 :2) 煬帝の時代には王・公・侯は保留された。 :3) 遼は唐の制度をそのまま用いた。 :4) その後、嗣王・郡公・開国公は保留された。</small> |} ==== 明代の爵位 ==== [[明]]代になると[[皇族]]たる宗室と功臣や[[外戚]]との爵位が異なるようになった。宗室以外の者に与えられる爵位は当初古来からの五等であったが、後に'''子・男'''は保留されて'''公・侯・伯'''の三等となった。 一方、宗室に与えられた爵位はより複雑なものとなっている。太祖の時代に襲封の制度が定められた。皇子は'''親王'''に封ぜられ、親王の嫡長子で10歳に達した者は'''王世子'''に立てられ嫡長孫は'''王世孫'''に立てられ均しく一品が与えられた。10歳に達した諸子は'''郡王'''に封ぜられ郡王の嫡長子は'''長子'''に、嫡長孫には'''長孫'''に立てられ均しく二品が与えられた。諸子には'''鎮国将軍'''が授けられ従一品が与えられ孫には'''輔国将軍'''と従二品、曾孫には'''奉国将軍'''と従二品、玄孫には'''鎮国中尉'''と従四品、来孫には'''輔国中尉'''と従五品、六世以下には皆'''奉国中尉'''と従六品が授けられた。 ==== 清代の爵位 ==== [[清]]代の爵位も明代と同様に宗室のものと[[モンゴル]]貴族のものと功臣・外戚のもとと分かれていた。宗室のものは'''和碩親王'''(ホショイしんのう)・'''多羅郡王'''(ドロイぐんおう)・'''多羅貝勒'''(ドロイベイレ)・'''固山貝子'''(グサイベイセ)・'''奉恩鎮国公'''(ほうおんちんこくこう)・'''奉恩輔国公'''(ほうおんほこくこう)・'''不入八分鎮国公'''(ふにゅうはちぶんちんこくこう)・'''不入八分輔国公'''(ふにゅうはちぶんほこくこう)・'''鎮国将軍・輔国将軍・奉国将軍・奉恩将軍'''があった。一般に爵位は世襲であるが、父の爵位より一級下のものとなる。ただし功勲などにより例外もあった。 [[ハーン]]やモンゴル貴族には'''親王・郡王・貝勒・貝子・公・一等-四等台吉'''(タイジ)'''・一等-四等塔布嚢'''(タブナン)が授けられていた。タイジは本来は'''太子'''の意で[[チンギス・カン|チンギス・ハーン]]の子孫の称号であった。タブナンはカラチン三旗とトメット左翼旗でタイジに相当する地位として用いられていた。 下の表は功臣・外戚の爵位の変遷である。 {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto; font-size:95%" !官品!![[1620年]]([[天命 (後金)|天命]]5年)!![[1634年]]([[天聡]]8年)!![[1643年]]([[順治]]元年)!![[1736年]]([[乾隆]]元年)!![[1751年]](乾隆16年) |- |rowspan="3"|超品||五備御之総兵官||一等公||colspan="3"|一等-三等公 |- |rowspan="2" colspan="2"| ||一等-三等侯||colspan="2"|一等侯兼一雲騎尉・一等-三等侯 |- |一等-三等伯||colspan="2"|一等伯兼一雲騎尉・一等-三等伯 |- |正一品||一等-三等総兵||一等-三等昂邦章京||一等-三等精奇尼哈番||colspan="2"|一等子兼雲騎尉・一等-三等子¹ |- |正二品||一等-三等副将||一等-三等梅勒章京||一等-三等阿思哈尼哈番||colspan="2"|一等男兼一雲騎尉・一等-三等男¹ |- |rowspan="2"|正三品||一等-二等参将||rowspan="2"|一等-三等甲喇章京||rowspan="2"|一等-三等阿達哈哈番||rowspan="2" colspan="2"|一等軽車都尉兼一雲騎尉・一等-三等軽車都尉¹ |- |游撃 |- |正四品||備御||一等-二等牛録章京||一等-二等拜他喇布勒哈番||colspan="2"|一等騎都尉兼一雲騎尉・一等-二等騎都尉¹ |- |正五品||colspan="2"| ||拖沙喇哈番||colspan="2"|雲騎尉¹ |- |正七品||colspan="4"| ||恩騎尉 |- |colspan="9" style="text-align:left"|<small> ;Notes: :1) [[満州語]]での名称は順治元年と同じ。</small> |} ==== 外命婦の封号(女性の爵位)==== 女性に与えられる爵位に順ずる封号は古来から存在したが、基本的に皇族女子や夫・子によって授けられることが多かった。 唐代には皇伯叔母に'''大長公主'''、皇姉妹には'''長公主'''、皇女には'''[[公主]]'''、皇太子の娘には'''郡主'''、王の娘には'''県主'''、王の母や妻には'''妃'''が授けられた。皇室以外では夫や子の品階や爵位によって授けられた。一品及び国公の母・妻には'''国夫人'''が、三品以上の母・妻には'''郡夫人'''が、四品以上の母・妻には'''郡君'''が、五品以上の母・妻には'''県君'''が、散官や同職事には'''郷君'''がそれぞれ封ぜられた。 宋代では当初は唐とほぼ同様の制度が用いられていたが、公主から'''帝姫'''に一時期変更されていたことがあった。また郡君を'''淑人・碩人・令人・恭人'''に、県君を'''室人'''(後更に'''宜人''')'''・安人・孺人'''に分けるようになった。 明代では公の母・妻は'''国夫人'''、侯の母・妻は'''侯夫人'''、伯の母・妻は'''伯夫人'''が授けられた。また、一品は'''夫人'''が授けられていたが、後には'''一品夫人'''と呼ぶようになった。二品は'''夫人'''、三品は'''淑人'''、四品は'''恭人'''、五品は'''宜人'''、六品は'''安人'''、七品は'''孺人'''がそれぞれ授けられた。 なお、母・祖母などには「太」の字が加えられた(国太夫人や郡太君、伯太夫人など)。これは、皇太后・太皇太后などの用例と同じものだと考えられる。 === 日本における爵位 === ==== 古代の爵位:カバネ ==== 日本では東洋・西洋諸国に定められる、いわゆる爵位制度を正式に定めるのは[[明治]]時代以降のことである。しかし古くは[[氏姓制度]]の中で[[大臣]]や[[大連 (古代日本)|大連]]、[[臣]]、[[連]]など[[豪族]]の[[氏]]に対して与えられる称号である[[カバネ]]が日本独自の爵位制度として存在していた<ref>[[篠田賢]]著「[http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/jomin/pdf/sjpn-26-02.pdf カバネ「連」の成立について]」[[成城大学]][[大学院]]文学研究科編『日本常民文化紀要 第二十六輯』(成城大学、[[2006年]](平成18年))35頁参照。</ref>。しかし[[飛鳥時代]]に入ると中国王朝への朝貢と服属によらず対等な国づくりを目指した[[聖徳太子]]により[[十七条憲法]]と行政機構の整備が進められ国内統治の根幹をなす官僚の身分秩序として[[冠位十二階]]が制定され、従来の氏族の序列による氏姓制度に取って替わるようになった。まさにこの冠位こそ中国の爵位を意識して整備されたものであり、実質的に爵位としての機能を果たした<ref>[[聖徳太子]]の伝記である『[[上宮聖徳法王帝説]]』によれば冠位十二階について「爵十二級、大徳、少徳、大仁、少仁、大礼、□□大信、少信、大義、少義、大智、少智」と解説し、さらに『日本書紀』でも冠位を爵位、官位を官爵と別称している。</ref>。ただし、中国の爵位制度や古代日本の[[八色の姓]]が冠位十二階と異なるのは前者が有力氏族の血筋を階級化する'''人爵'''であったのに対し後者の冠位は孟子の唱えた'''天爵'''、即ち仁・義・忠・信の人徳を備えた人物像を尊ぶ[[五行思想]]に基づくものであった。冠位十二階は、冠位への登用は氏族の出自によらず人物の器識徳量に応じて登用するという今日の能力主義の見地に立った身分制度であった。一方で、従来のカバネは消滅することなく存続し天武天皇の代に八色の姓として再編された。氏族の出自は官人の選考要件のひとつとして看做されてはいたが[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年)の[[大宝令]]、[[718年]]([[養老]]2年)の養老令で冠位制度に代わり[[位階]]や[[勲等|勲位]]がしかれていく中で出自により細分化されていたカバネも次第にほぼ[[朝臣]]の姓に集約されていくようになり、カバネ自体の等級的な性格は次第に失われていった。 ==== カバネの形骸化:位階制と家格 ==== 制度面では氏族の序列であるカバネが形骸化し能力主義を基底とした冠位十二階が位階制として発展していく一方で、政治の実態はむしろ能力主義による天爵の精神から氏族の出自により登用される人爵としての性格に回帰していった。当初は様々な氏族が登用されてきた位階制も次第に政争を通じて、藤原氏に代表される上級貴族に高位高官が占められるようになった。とりわけ新たな位階制の下では[[皇親]]たる[[親王]]の品階を一品から四品と定め、それ以外の親王を無品親王とし諸王の位階を正一位から従五位下までの十四階に分けた。さらに人臣に対しては正一位から少初位下までの三十階に分けられたがこの位階のうち国司の長官に相当する従五位下以上がいわゆる貴族と位置付け、従五位下を別称して'''松爵'''、'''栄爵'''といわれるようになり[[従五位|従五位下]]に叙せられることを叙爵と称されるようになったが、特に大宝令の中で特徴的であるのが[[蔭位]]の制でこの制度では高位者の子弟を貴族または貴族に準ずる官位に叙する仕組みが整えられ、貴族政治の色彩が強まったのである。さらに、平安時代以降になると有力氏族ごとに叙位任官者を推薦枠を保障される[[氏爵]]が設けられるようになった。年度ごとに同一氏族の一門同士で叙位任官者を推挙する[[年爵]]や一門を順送りに叙位任官させる[[巡爵]]といった慣行も行われるようになったのはその例である。まさに、朝廷の位階制度は有力な[[院宮王臣家]]に独占されていくことになった。やがて同一氏族の中でも[[嫡流]][[庶家|庶流]]の別はもちろん、母の身分、父祖の官位に応じて個々の家系ごとに昇ることができる官位の上限、すなわち極位極官が固定化していくことになり[[鎌倉時代]]以降、公家、武家とも家格が細分化されていくことになったのである。 [[平安時代]]から鎌倉時代以降、貴族は主に公卿を中心とした公家と武士を中心とした武家に分かれたが公家の序列は[[藤原摂関家]]の子孫を中心とした[[摂家]]を筆頭に[[清華家]]、[[大臣家]]、[[名家 (公家)|名家]]、[[半家 (公家)|半家]]に分けられ、家々で任ぜられる極位極官が定められた。武家における家格は政治の実権を長く握っており、多くの家臣を統率する観点から公家の格式以上に複雑なものとなった。武家の血統では武家政治の時代を通じて将軍家の一門、有力家臣の家系、姻戚関係が重視され、鎌倉時代は将軍と同じ[[清和源氏]]の一門のうち特に認められた者を[[門葉]]と称し足利将軍家の一門は足利一門として徳川将軍家の一門は[[家門大名]]と称され、叙位任官など格式や人事面で優遇された。将軍の一門については足利一門が政治の実権を握った室町時代を除いて政治への参画は敬遠され、ただ将軍家の[[連枝]]として格式のみ保障されることが多かった。一方、人事面で政治の要職に登用されたのはそれぞれの時代で幕府草創に功労のあった武家であった。鎌倉時代はともに有力御家人であった三浦氏、和田氏、安達氏との政争に勝利した北条氏が[[執権]]職を世襲し、その他の役職も北条氏及び姻戚関係にある有力御家人で守護・地頭職が占められるようになり[[室町時代]]は足利一門及び有力守護の家系で構成された三管領四職七頭の格式が整い、特定の武家に幕府の役職が世襲された。[[江戸時代]]以降となると武家の格式がさらに複雑化することとなり将軍の家臣は直参とされ、1万石以上の武家を[[大名]]、将軍御目見え以上を[[旗本]]、御目見え以下の直参を[[御家人]]といい、大名の家臣を[[陪臣]]といった。また大名についてはその身分格式が細かく、将軍一門の家門大名、徳川古参の家臣たる[[譜代大名]]、それ以外の[[外様大名]]に分けられ幕政への参画の道は譜代大名にのみ開かれた。特に、幕府職制の最高職たる[[大老]]は[[井伊氏]]、[[酒井氏]]、[[堀田氏]]などに限られ、[[老中]]には幕府の中で[[京都所司代]]や[[若年寄]]など重職を経た譜代大名が登用されたのである。 一連の鎌倉時代から江戸時代までの変遷の中で武家の格式もかなり細分化が進み、室町時代以降は特に足利一門や有力守護に対しては将軍の通字である「義」または当代の将軍の諱の文字の一字を賜る[[偏諱|将軍偏諱]]という新たな栄典が生まれ、足利姓を称する一門は[[鎌倉公方]]や[[足利満直|篠川御所]]、[[足利満貞|稲村御所]]など[[公方|公方号]]や[[御所|御所号]]を称するようになり、また有力守護に対しては[[屋形|屋形号]]及び[[白傘袋毛氈鞍覆]]の使用が与えられ守護代には[[唐傘袋毛氈鞍覆]]の他、[[塗輿]]などが免許されるなど家系の序列に応じた栄典が整っていった。とりわけ将軍偏諱と御所号、屋形号の免許については江戸時代に室町時代からの名家や国主大名に与えられる恩典として踏襲されていった。さらに[[安土桃山時代]]に[[豊臣秀吉]]から[[豊臣氏]]や[[羽柴氏|羽柴姓]]が大名に下賜される慣例が生まれ、江戸幕府の下では将軍家から国主大名や将軍の寵臣に対し[[松平氏|松平姓]]が下賜されるなど武家に対する栄典が拡充されていった。加えて江戸幕府の下では大名の家柄や石高に応じ[[伺候席]]が定められ、御三家や百万石を領する加賀藩などの[[大廊下]]を筆頭に[[大広間]]、[[溜間]]、[[帝鑑間]]、[[柳間]]、[[雁間]]、[[菊間広縁]]に分けられた。官位への任免は大名をはじめ上級旗本、御三家の上級家臣に限られ、外様大名では加賀藩家老の本多氏のみ従五位下への叙爵のみ許されるなど江戸時代にはその身分制度もかなり複雑化されていくようになった。 ==== 近代における華族制度 ==== 一連の複雑な身分制度にとって大きな転換期となったのは、[[明治維新]]である。[[幕末]]、西欧列強による外圧が日本に忍び寄る中で[[王政復古]]の大号令の下、薩長を中心とした雄藩によって江戸幕藩体制が崩壊すると天皇を元首とする近代国家が目指されるようになった。そこで行われたのが[[版籍奉還]]であり、かつての大名を[[藩知事]]として処遇し、段階的に大名の統治機構を明治政府の下に吸収していった。その過程で明治政府は江戸時代以前の身分制度を[[四民平等]]の下で廃止する一方で華族制度を創設し、天皇に代々仕えた公家と三百諸侯として全国に割拠した大名を天皇の藩屏に組み込んでいったのである。[[1884年]](明治17年)[[7月7日]]、明治政府により「華族授爵ノ詔勅」が下され[[華族]]に列せられていた元公卿・元諸侯等と国家功労者の家の戸主に'''公・侯・伯・子・男'''の五爵が授けられ、ここに華族制度に基づく爵位が成立することになった<ref>日本の華族制度とその中で位置づけられる爵位の制定に際しては中国や西欧の爵位制度が参考にされたが日本の爵位が西欧の爵位と異なるの点としては日本の爵位が西欧の爵位のように個人に対して授けるものではなく、家の戸主に与えられるものであるということにある。</ref>。 ==== 1884年(明治17年)7月7日の叙任 ==== 華族授爵の詔勅による叙任者は以下の通り({{Small|1884年(明治17年)[[7月8日]] [[官報]]に記載された順による}}</small><ref>{{Cite book|和書|editor=大蔵省印刷局|title=官報|date=1884年7月8日|publisher=日本マイクロ写真|year=1884|location=|page=1-5|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2943511|id={{近代デジタルライブラリー|2943511|}}|location=華族ヘ榮爵ヲ賜ル(明治十七年七月七日/叙任(明治十七年七月七日))}}</ref>)。 {| class="wikitable" style="margin:0 auto" ![[公爵]]!!colspan="2"|[[侯爵]]!!colspan="4"|[[伯爵]]!![[子爵]] |- style="vertical-align:top" | ;授公爵 {{Small|従一位勲一等}} :[[九条道孝]] {{Small|正五位}} :[[鷹司熙通]] {{Small|従五位}} :[[二条基弘]] :[[近衛篤麿]] :[[一条実輝]] {{Small|従三位}} :[[徳川家達]] ;{{Small|依偉勲特授公爵}} {{Small|従一位大勲位}} :[[三条実美]] {{Small|正二位勲一等}} :[[島津久光]] {{Small|従二位勲二等}} :[[毛利元徳]] :[[島津忠義]] | ;授侯爵 {{Small|正二位}} :[[広幡忠礼]] :[[醍醐忠順]] {{Small|正二位勲一等}} :[[徳大寺実則]] {{Small|正二位勲二等}} :[[浅野長勲]] {{Small|正二位}} :[[徳川茂承]] {{Small|従二位勲三等}} :[[蜂須賀茂韶]] {{Small|正三位勲四等}} :[[久我通久]] {{Small|正三位勲三等}} :[[西園寺公望]] {{Small|従三位勲三等}} :[[佐竹義堯]] :[[細川護久]] :[[鍋島直大]] :[[山内豊範]] :[[池田章政]] | {{Small|従四位}} :[[前田利嗣]] :[[菊亭修季]] {{Small|正五位}} :[[池田輝知]] {{Small|従五位}} :[[徳川篤敬]] :[[黒田長成]] :[[徳川義礼]] {{Small|(位階なし)}} :[[花山院家|花山院]]忠遠 :[[大炊御門家|大炊御門]]幾麿 ;{{Small|依勲功特授侯爵}} {{Small|従一位勲一等}} :[[中山忠能]] ;{{Small|依父[[木戸孝允|孝允]]勲功特授侯爵}} {{Small|従五位}} :木戸正次郎 ;{{Small|依父[[大久保利通|利通]]勲功特授侯爵}} {{Small|従五位}} :大久保利和 | ;授伯爵 {{Small|正二位}} :[[中院家|中院]]通富 {{Small|正三位}} :[[山科言縄]] :[[飛鳥井家|飛鳥井]]雅望 {{Small|従三位}} :油小路隆晃 :[[三条西家|三条西]]公允 :[[園家|園]]基祥 {{Small|従三位勲四等}} :[[橋本実梁]] {{Small|従三位勲二等}} :[[柳原前光]] {{Small|正四位}} :[[松平茂昭]] :[[滋野井家|滋野井]]公寿 {{Small|正四位勲二等}} :[[四条隆謌]] {{Small|正四位}} :[[鷲尾隆聚]] :[[津軽承昭]] | {{Small|従四位}} :[[井伊直憲]] :[[松平頼聡]] :[[冷泉為紀]] :[[葉室家|葉室]]長邦 :[[正親町実正]] :[[伊達宗徳]] :[[藤堂高潔]] :[[上杉茂憲]] :[[柳沢保申]] {{Small|従四位勲五等}} :[[万里小路家|万里小路]]通房 {{Small|従四位}} :[[坊城家|坊城]]俊章 :[[清閑寺家|清閑寺]]盛房 :[[前田利同]] :[[甘露寺家|甘露寺]]義長 :[[勧修寺家|勧修寺]]顕允 :[[中御門家|中御門]]経明 :[[酒井忠篤 (庄内藩主)|酒井忠篤]] :[[溝口直正]] {{Small|正五位}} :[[嵯峨公勝]] :[[姉小路家|姉小路]]公義 :[[室町家|室町]]公康 :[[南部利恭]] :[[戸田氏共]] | {{Small|従五位}} :[[堀田正倫]] :[[奥平昌邁]] :烏丸光亨 :[[阿部正桓]] :[[中川久成]] :[[小笠原忠忱]] :[[伊達宗基]] {{Small|従五位勲六等}} :[[広橋家|広橋]]賢光 {{Small|従五位}} :[[清水篤守]] :[[酒井忠道]] :[[立花氏|立花]]寛治 :[[日野家|日野]]資秀 :[[徳川達孝]] :[[有馬頼万]] :[[久松定謨]] :松平直亮 :[[清水谷実英]] :[[一橋徳川家|徳川]]達道 {{Small|(位階なし)}} :[[松木家|松木]]保丸 :[[庭田家|庭田]]重直 :[[松平基則]] | ;{{Small|依勲功特授伯爵}} {{Small|正三位勲二等}} :[[東久世通禧]] {{Small|従三位勲一等}} :[[黒田清隆]] {{Small|正四位勲一等}} :[[大木喬任]] :[[寺島宗則]] :[[山県有朋]] :[[伊藤博文]] :[[井上馨]] :[[西郷従道]] :[[川村純義]] :[[山田顕義]] :[[松方正義]] :[[大山厳]] :[[佐々木高行]] 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これら華族制度の創設に際して焦点となったのは華族の対象及び爵位の等数、そして叙爵の判断基準であった。とりわけ華族の対象については公家や武家といった旧来の貴族階級に限定し、旧武士たる士族には別途爵位を創設すべしとする[[岩倉具視]]と爵位をあくまで華族に限定しつつ公家や武家に加え国家功労者も華族に加えよと唱える[[伊藤博文]]の間で大きな議論を呼んだが結果的に岩倉の急逝に伴って伊藤の案が採用され、華族は旧公卿即ち公家などにより構成する堂上華族、旧将軍家・連枝や大名諸侯などの武家により構成する武家華族、そして国家功労者により構成される勲功華族、さらに南北朝時代、正当とされた南朝の忠臣の子孫により構成された忠臣華族、かつての権門寺社の世襲門跡による神職・僧侶華族によって幅広く構成されるようになったのである。 そして、これらの華族を如何に序列化していくか、即ち叙爵の判断基準については特に鎌倉時代から江戸時代までの家格に重きをおきつつ複雑に細分化された格式は考慮の対象外とするなど合理的な判断基準が採用された。とりわけ華族の中核たる堂上華族については清華家に次ぐ格式を誇る大臣家の格式が無視され、半家同様と位置付けられた。武家においても石高を重視する一方で伺候席の序列や[[室町幕府]]由来の格式が無視され、これらのことから一部の公家や武家からの反発を生み処遇を不満とした華族当事者やその旧家臣から陞爵運動が起きた。また爵位の授与対象として検討されながらその恩典に与らなかった士族については族称のみ相続が許され、反対に[[士族授産]]や[[廃刀令]]により逆に身分的特権が剥奪されていくことになり国内各地で[[士族反乱]]が発生することとなった<ref>[[浅見雅男]]著『華族誕生 名誉と体面の明治』([[中央公論]]、[[1999年]](平成11年))71〜74頁参照。</ref>。 以降、華族制度は近代日本、とりわけ大日本帝国の下で天皇・皇室の藩屏として存立してきたが[[富国強兵]]を達成していく中で[[日韓併合]]により旧[[大韓帝国]]皇室を[[王公族]]として迎え、さらに朝鮮貴族令([[1910年|明治43年]]皇室令第14号)を発して大韓帝国の廷臣であった[[両班]]階級を[[朝鮮貴族]]とし華族と同様に爵位を授けるようになった。 叙爵は[[宮内大臣]]によって奉行され、[[国務大臣]]の責任には属さない。授爵がいかなる原因によるかは法律上特段の制限がないが実際は[[皇族]]で臣籍に降下したもの、旧公卿、旧将軍および旧大名、旧幕臣および旧大名の家老、大華族の次男以下の分家したもの、国家に勲功のあったものの6種で血統または勲功のいずれかの原因にのみ基づいた。爵は世襲の権利で男子たる家督相続人が襲ぐが女性は有爵者たり得る権利はなく、男子を養子にすることによって爵を襲がせることができた。 華族は皇族から特別の礼遇を受け、皇室の特別の監督を受ける。 失爵の原因は死刑または懲役の宣告を受け、その判決が確定したとき、懲役の刑に処せられ爵の返上を命じられたとき、品位を保つことができないため宮内大臣を経て爵の返上を請願し勅許されたとき、国籍を失ったときの4つである。 家督相続人が襲爵することができないために爵が絶えるのは国籍喪失により家督相続が開始したとき、家督相続の開始のときから3箇年または相続の開始を知ったときから6ヶ月内に宮内大臣に家督の届出をしなかったとき、家督相続人が女性であるとき、家督相続人が死刑または懲役刑の確定判決を受けたとき、華族の体面を汚辱する失行があったため華族の族称を除かれたとき、家督相続人の身分について宮内大臣の認許を要する場合その認許を得なかったため宮内大臣が勅裁を経て襲爵をさせなかったときの5つである(華族令第9条から第26条まで)。 爵を授けられるのは[[内地]]人たる日本人に限り、朝鮮貴族に賜わる爵は朝鮮人に限るとされた。 一連の華族・朝鮮貴族制度が成立する中、日本の軍部の力が強化されていった。それにより従来の華族の有様も大きく変わり、明治維新の元勲とその子孫で構成された勲功華族に戦功を挙げた高級軍人が次々叙爵され、帝国軍人として華族となった者が増加していった。しかし、日本と米英両国との間に起きた[[アジア・太平洋戦争|太平洋戦争]]にて敗戦すると、進駐軍の[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の占領統治の下で民主化が進められた結果、華族は解散へと向かい[[1947年]]([[昭和]]22年)[[5月3日]]、[[日本国憲法]]施行に伴い、華族制度と共に日本の爵位は廃止されることとなった([[法の下の平等]]を定め貴族の存在を認めない[[日本国憲法第14条|第14条]]に基づく)。以降、日本国内において爵位が国の制度や社会に果たす役割は完全に消滅したといえる。しかし、戦後も国内外で功績ある日本国民に対して諸外国から爵位に叙せられる例がある。なお、正式な爵位・称号を授かってもいないのにこれを詐称することは[[軽犯罪法]]第1条の15に禁ずる行為となる<ref>軽犯罪法第1条の15「官公職、位階勲等、学位その他法令により定められた称号若しくは、外国におけるこれらに準ずるものを詐称又は資格がないのにかかわらず、法令により定められた制服若しくは勲章、記章その他の標章若しくはこれらに似せて作つた物を用いた者」は拘留又は科料の対象となる。</ref>。 === 琉球王国の爵位 === 琉球王国には身分序列に応じて'''[[王子]]'''(おーじ)・'''[[按司]]'''(あじ・あんじ)・'''[[親方 (沖縄)|親方]]'''(うぇーかた)・'''[[親雲上]]'''(ぺーちん・ぺーくみー)・'''[[里之子]]'''(さとぅぬし)・'''[[筑登之]]'''(ちくどぅん)など、爵位に準じた称号がある。 女性については王妃を'''[[佐敷按司加那志]]'''(さしきあじがなし)、側室を'''阿護母志良礼'''(あぐんしたり・あごもしられ)、王の乳母などの女官を'''阿母志良礼'''(あんしたり・あもしられ)などと称した。また、臣下に嫁した王女および王子の妃は'''翁主'''(おうしゅ)と呼んだ。 琉球王国の称号および位階については、詳しくは[[琉球の位階]]を参照されたい。 === 朝鮮における爵位 === 朝鮮では主に[[王族]]、[[外戚]]、[[功臣]]に対して勲爵、爵号が授与される。王族のうち国王の[[嫡出子]]は[[大君]]、[[庶子]]は[[君]]。王婿には[[尉]]の爵号が授けられた。また国王の実父は[[大院君]]の号が贈られるが、王舅または王世子の舅には[[府院君]]、また功臣も正一品の位階にある臣下は府院君または君の爵号を授けられた。 === タイにおける爵位 === {{main|タイの階級}} [[タイ王国|タイ]]では国王、王族、外戚を対象とした複雑な階級とそれに伴う称号があり、それを'''ラーチャウォン'''と呼ぶ。 === カンボジアにおける爵位 === [[カンボジア]]では国家の経済発展に貢献した経済人に対し、[[勛爵]]の爵位を授けている。この爵位獲得には、最低でも10万米ドルの寄付を要件としている<ref>[[野澤知弘]][[著作|著]] [http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Ajia/pdf/2006_12/02.pdf 「カンボジアの華人社会 --プノンペンにおける僑生華人および新客華僑集住区域に関する現地調査報告--」] [[日本貿易振興機構]]アジア経済研究所[[編集|編]]([[2012年]](平成24年)2月 第53巻第2号)32頁参照。</ref>。 == 西洋の爵位 == === ヨーロッパにおける爵位 === ==== 成立過程 ==== ヨーロッパの爵位は総じて一定の行政区域の支配を担当する[[官職]]が、[[中世]]に[[地方分権]]の過程で世襲化されたものである。その中には[[ローマ帝国]]の官職に由来する場合([[公爵]]、[[伯爵]]など)もあれば、封建制の進行過程で新たに創設された場合([[辺境伯]]、[[男爵]]など)もある。これらの「爵位」と呼ばれる役職は当初ローマなどと同様に任期制の官職として用いられたものが、王権の弱体化によって地方の有力者による世襲を許してしまったことによって成立したものが多い([[フランク王国]]の設置した[[バルセロナ伯]]を独断で世襲化した[[ギフレ1世多毛伯]]などが典型例であろう)。 [[和訳]]に際しては中国や日本の爵位と相当した名称を当てているがヨーロッパの爵位と東洋の爵位とが厳密には対応するとはいい難く、また同じ欧州内でも全く異なる経緯を辿って成立しつつも便宜的に類似した爵位とされているケースもある。すなわち東洋の爵位の上下の序列を、ヨーロッパの爵位におおよその順番を踏襲しての訳語が伝統的に当てられているに過ぎない。またこの対比表もあくまで一例を挙げた物であって、実際に何らかの国の爵位が別の国のどの爵位と同じかということは時代と共に変化しているので一概には言えない([[プリンス]]、[[公]]、[[侯]]も参照のこと)ので注意を要する。 ==== 日本の爵位制度との違い ==== 欧州の爵位に共通しているのは「爵位」という名誉は何らかの貴族の家系そのものに対して与えられているのではなく大本の爵位(官職)が担当する行政区域(公爵領、侯爵領、伯爵領など)に対して与えられているもので、爵位の保持が言い換えればこうした領域の保持を意味する点である。つまり特定の地域が何らかの爵位が担当する区域であるなら、その区域を実効支配する人物こそが爵位を名乗るに相応しい人物となる。 こうした点は家柄に与えられる[[格付]]である日本の爵位制度とは大きく異なるため、注意が必要である。例を挙げれば日本制度上、ある一つの家がもつ爵位が上下したり禄や所領が増減することがあっても、複数の爵位を保持することはありえない。しかしヨーロッパの場合は所領が複数あってそれが爵位が付随していれば、一つの家が7つも8つも爵位を保持していることがある。これは珍しいことではなく、こうした複数の爵位を保持する家の場合、最も重要な爵位以外を切り離して嫡男以外に分け与えることすらある。 なお、行政区域を担当する官職の世襲化が困難であった[[古代ローマ]]や西欧とは異なる歴史を歩んだ[[東ローマ帝国]]などではこれと全く違う体系の爵位制度が用いられていた([[:en:Royal and noble ranks|Royal and noble ranks]]を参照)。 ==== 言語ごとの爵位表記 ==== {| class="wikitable" style="text-align:center; margin:0 auto; font-size:85%" !日本語!!英語!!フランス語!!イタリア語!!スペイン語!!ドイツ語!!デンマーク語!!ノルウェー語!!スウェーデン語!!フィンランド語!!colspan="2"|ロシア語!!ラテン語<sup><small>9</small></sup> |- |rowspan="3"|[[大公]]||Grand duke||Grand-duc||Granduca||Gran duque||Großherzog||style="white-space:nowrap"|Storhertug||colspan="3"| ||style="white-space:nowrap"|{{Lang|ru|Великий герцог}}||style="white-space:nowrap"|Velikiy gertsog||style="white-space:nowrap"|Magnus dux |- |style="white-space:nowrap"|Archduke<sup><small>6</small></sup>||Archiduc<sup><small>6</small></sup>||Arciduca<sup><small>6</small></sup>||Archiduque<sup><small>6</small></sup>||Erzherzog<sup><small>6</small></sup>||colspan="4"| ||style="white-space:nowrap"|{{Lang|ru|Эрцгерцог}}<sup><small>6</small></sup>||||Archidux<sup><small>6</small></sup> |- |style="white-space:nowrap"|Grand prince<br>Grand duke||style="white-space:nowrap"|Grand-prince||style="white-space:nowrap"|Gran principe||style="white-space:nowrap"|Gran príncipe||Großfürst||Storfyrste||colspan="3"| ||{{Lang|ru|Великий князь}}||Velikiy kniaz||Magnus princeps |- |大公<br>[[公爵]]||Duke¹||Duc||Duca||Duque||Herzog¹||colspan="2"|Hertug||Hertig||Herttua³||{{Lang|ru|Герцог}}||Gertsog||[[ドゥクス|Dux]] |- |style="white-space:nowrap"|([[プリンス|大公<br>公爵<br/>侯爵]])||rowspan="2"|Prince¹||rowspan="2"|Prince||rowspan="2"|Principe||Príncipe||Fürst¹||Fyrste||Furst³||Furste³||Ruhtinas³||{{Lang|ru|Князь<br>Фюрст}}||Kniaz<sup><small>4</small></sup><br>Furst||rowspan="2"|[[プリンケプス|Princeps]] |- |style="white-space:nowrap"|([[親王]]<br>[[王子]]<br>[[公子]]<br>など)||Príncipe<br>Infante<sup><small>10</small></sup>||Prinz||colspan="3"|Prins||Prinssi||{{Lang|ru|Принц}}|| |- |[[侯爵]]||style="white-space:nowrap"|Marquess<br>Marquis<sup><small>7</small></sup>||Marquis||Marchese||Marqués||Marquis||Markis||style="white-space:nowrap"|Marki||style="white-space:nowrap"|Markis³||style="white-space:nowrap"|Markiisi³||{{Lang|ru|Маркиз}}||Markiz||rowspan="2"|Marchio |- |[[辺境伯]]||Margrave<sup><small>7</small></sup>||Margrave||Margravio||Margrave||Markgraf²||colspan="3"|Markgreve||Rajakreivi||{{Lang|ru|Маркграф}}|| |- |[[伯爵]]<br>[[伯]]||Earl<br/>Count||Comte||Conte||Conde||Graf||Jarl<br/>Greve<sup><small>8</small></sup>||colspan="2"|Greve||Kreivi||{{Lang|ru|Боярин}}||Boyar<sup><small>4</small></sup>||[[Comes]] |- |[[子爵]]<br/>[[副伯]]||Viscount||Vicomte||Visconte||Vizconde||Vizegraf||Vicomte||Visegreve||Vicomte||Varakreivi||{{Lang|ru|Виконт}}||||Vicecomes |- |[[男爵]]||colspan="2"|Baron||Barone||Barón||style="white-space:nowrap"|Baron<br>Freiherr||colspan="2"|Baron||Baron<br>Friherre||Paroni||{{Lang|ru|Барон}}||||Baro |- |[[準男爵]]||Baronet<sup><small>5</small></sup>||Baronnet||Baronetto||colspan="3"|Baronet||||Bronet||Baronetti||{{Lang|ru|Баронет}}||colspan="2"| |- |[[ナイト|勲功爵]]<br/>勲爵士<br/>[[騎士]]||Knight<sup><small>5</small></sup>||Chevalier||Cavaliere||Caballero||Ritter||colspan="2"|Ridder||Riddare³||Ritari||{{Lang|ru|Рыцарь}}||||Miles<br>[[エクイテス|Eques]] |- |colspan="13" style="text-align:left"| ;Notes: :1) ドイツやデンマークではHerzogやHertugは、FürstやFyrsteより上位である。イギリスでは封号としてのPrince(Prince of Walesのみ)も王族の称号としてのPrinceも、いずれも当然ながらDukeよりも上位である。また日本の「公爵」もPrinceと英訳されることが多いが、同じくPrinceと訳される親王や王との混乱が生じるもととなっている。 :2) 和訳は辺境伯。英訳はMargrave。ドイツではLandgraf([[方伯]])、Pfalzgraf([[宮中伯]])とほぼ等しい地位で時にはFürstよりもさらに上位と見なされることもあった。 :3) 現在、国内では用いられていない。 :4) ロシア国内の貴族向けに2つの爵位、公(Kniaz)と伯(Boyar)のみが用いられ、それ以外の爵位は他国の爵位のロシア語訳である。公(Kniaz)は、元は[[ルーシの諸公国]]の君主号であった。 :5) イギリスでは厳密には貴族に含めない。 :6) [[ハプスブルク家]]の用いた称号。詳細は[[オーストリア大公]]を参照。 :7) 語源が同じ爵位であるが、多くの言語においてMarquessやMarquisとMargraveとは区別される。 :8) イギリス以外のCountやGrafなどはGreveと訳される。イギリス国内でもスコットランドの侯爵はMarquisと綴る。 :9) [[ラテン語]]の部分は由来となったか、或いは対応するとされるローマの[[官職]]・[[称号]]である場合が多い。ローマ時代には世襲化されていなかった(≠爵位)ものである。 :10) Príncipeはスペイン王位継承者の王子の称号、Infanteは王位継承権のない王子の称号。 |} ==== 各爵位 ==== ===== Duke ===== 語源は古代ローマの有力者に与えられる称号で、後に地方司令官を指す言葉となったラテン語の[[ドゥクス]](Dux)。帝政後期に入ると[[ローマ帝国]]は異民族の首長にDuxの称号を与えるようになった。[[4世紀]]には文官と武官が分かれ、Duxはそれぞれの軍団の司令官の職名に使われた。同様のComes mei militarisはduxの部下であり、のちCountとなる。 この事象の一端であった[[フランク人]]はローマの影響を受けてDux/Duces(将軍)を用いるようになった。Duxは軍団の司令官であり、同時に郡の執政となった。[[シャルルマーニュ]]が辺境を平定したのち諸[[氏族]]の氏族長にもDux/Ducesの称号が与えられ、フランク王国の宗主権を認めさせた。これらの称号は世襲され、公爵領となった。いっぽうでDux/Ducesは王子にも用いられる習慣も広がった。この制度はフランク以外の地域にも広がり、[[イングランド]]では[[エドワード黒太子]]が初の公爵(コーンウォール公)となった。 ===== Marquess ===== Marquessはゲルマン語の称号Markgraf(marka 境界線+Graf 伯)に由来し、しばしば「辺境伯」と訳される。英語ではMargraveと綴る。はじめは[[カロリング朝]]フランクで辺境を守る武将の役職名でフランク王国東部の[[ローマ帝国]]との国境線に多く配された。しだいに貴族の称号となってゆきDukeの次、CountないしEarlの上という序列がつくられた。その後ヨーロッパ各国もこれを導入し、[[13世紀]]から[[14世紀]]にかけてMargrave/Marquessは貴族の称号として一般的に定着していった。 ===== Earl ===== [[9世紀]]、[[スカンジナビア]]の[[デーン人]]が非王族軍指揮官として任命したのが始まりである。石碑や出土した武器などからHerul/Jarlの文字が見つかっているが、そもそもは[[北欧神話]]の神・Rígの伝説に端を発する。 Rígは旅の途中で農民の老夫婦の家に泊まり、老夫婦はRígに粗末な食事を出した。9ヶ月後に夫婦の間に子ができ、褐色の肌を持つ子はThrall/serfと名付けられた。これが[[奴隷]](slave)の祖先である。次に辿りついたのは工芸職人の家で彼らはRígにより上質な食事を提供した。やはり9ヶ月後に職人夫婦の間に子が生まれ、Karlと呼ばれるようになった。赤毛で赤ら顔のKarlは[[農民]]・[[職人]]の始祖となった。最後に泊まったのは豪邸で豪邸の若夫婦はすばらしい食事を出した。その後同様に子ができた。その赤子は金髪碧眼でJarlと名付けられ、[[貴族]]の祖先とされた。 デーン人は[[イングランド]]に移住してからもEarlを用いた。「太守」もしくは「伯」と訳され、各州に配置されて州の統治が任務だった。当初は一代かぎりの役職だったが、すぐに世襲されるようになった。のちにヨーロッパ各国のCountと同じように用いられるようになり、[[12世紀]]以降は役職名ではなく称号として用いられた。 ===== Count ===== ローマ帝国のComesは廷臣の階級のひとつであった。文官のComesと武官のComesがあり、Duxが部下として指名した。 中世のフランク王国やゲルマン地域ではCount Palatine([[パラティン]]とよばれる自治州を領有し、そのなかではほぼ完全な自治権を有していた)、Comes Sacrarum Largitionum(王室財政を管掌する職)などがあった。当初は任命制だったが、その強大な権力により次第に世襲されるようになった。中世になると伯爵領はCountyと呼ばれるようになり、これが現在の州「カウンティ」に受け継がれている。領主としての伯爵の地位は近世以降しだいに称号化し、他の爵位をあわせて社会の序列をあらわす名称へと変化していった。 ===== Viscount ===== 「副伯」というニュアンスでフランス、スペイン等で使われていた。イングランドでは[[シェリフ]]相当の爵位として14世紀に創設された。ドイツ語圏では[[城伯]](都市伯)''Burggraf''がこれに相当すると言える。またドイツ貴族であっても、フランス王による[[冊封]]を受けViscount(Vizegraf)の爵位を持つ例もある。 ===== Baron ===== 自由民を表す言葉で後に領主一般を指す言葉となり、最終的にViscount以上の爵位を持たない領主の爵位([[男爵]])となった。ドイツ語圏やスコットランドでは男爵に相当するものにFreiherrやLord of parliamentが使われ、Baronはそれより低い称号になっている。スコットランド語でBaronyは荘園を意味し、荘園領主・小規模領主にBaronが用いられた。 === フランスの爵位 === フランスの爵位は13世紀、国王[[フィリップ3世 (フランス王)|フィリップ3世]]が貴族身分を制定したのが始まりで[[18世紀]]に王族の大公を筆頭に公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、騎士、エキュイエ(平貴族)までの階梯が確立した。[[フランス革命]]で爵位制度は一度廃絶されたが[[1814年]]の王政復古により、ナポレオン帝政下の帝政貴族と王朝貴族が併存する形で爵位制度が復活するものの貴族の特権は伴わず爵位は純然たる[[名誉称号]]と化した。[[第三共和政]]以後は私的に用による以外その効果を失った<ref name="daihyakka313"/>。 == 参照文献 == *相賀徹夫編著『日本大百科全書11』(小学館、[[1986年]]([[昭和]]61年))ISBN 4095261110 *浅見雅男著『華族誕生 名誉と体面の明治』(中央公論社、[[1999年]]([[平成]]11年))ISBN 4122035422 *尾形勇編『歴史学事典10 身分と共同体』(弘文堂、[[2003年]](平成15年))ISBN 433521040X *篠田賢著「カバネ「連」の成立について」成城大学大学院文学研究科編『日本常民文化紀要 第二十六輯』(成城大学、[[2006年]](平成18年)) *松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年(平成18年))ISBN 4385139059 *新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年(平成23年))ISBN 400080121X *野澤知弘著「カンボジアの華人社会 --プノンペンにおける僑生華人および新客華僑集住区域に関する現地調査報告--」日本貿易振興機構アジア経済研究所編([[2012年]](平成24年)2月 第53巻第2号) == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == *[[貴族]] *[[華族]] *[[士族]] *[[騎士]] *[[称号]] *[[身分制度]] *[[儀礼称号]] *[[学位]] == 外部リンク == *[http://www.seijo.ac.jp/graduate/gslit/orig/journal/jomin/pdf/sjpn-26-02.pdf 篠田賢「カバネ 「連」の成立について] *[http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Periodicals/Ajia/pdf/2006_12/02.pdf 野澤知弘「カンボジアの華人社会」] {{日本の旧華族}} [[Category:貴族|しやくい]] [[Category:栄誉称号|しやくい]] [[Category:爵位|*]] [[Category:位階|しやくい]] [[Category:栄典|しやくい]] <!--{{link FA en}}--> <!-- change peerage to Royal and noble ranks [[de:Peer (Adel)]] [[en:Peerage]] [[es:Títulos Nobiliarios Británicos]] [[fr:Pair]] [[ru:Пэрство]]-->
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