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濃人渉
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{{Infobox baseball player |選手名 = 濃人 渉 |国籍 = {{JPN}} |出身地 = [[広島県]][[広島市]] |生年月日 = [[1915年]][[3月22日]] |没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1915|3|22|1990|10|10}} |身長 = 168 |体重 = 56 |利き腕 = 右 |打席 = 右 |守備位置 = [[内野手]] |プロ入り年度 = [[1936年]] |ドラフト順位 = |初出場 = 1936年 |最終出場 = 1948年 |経歴 = <nowiki></nowiki> * [[広陵高等学校 (広島県)|広陵中学校]] * [[日本たばこ産業|広島専売局]] * [[名古屋金鯱軍]] (1936 - 1937, 1939 - 1940) * [[西鉄軍|大洋軍<br />西鉄軍]] (1941 - 1943) * 広島鯉城園 * [[結城ブレーブス|グリーンバーグ<br />結城ブレーブス]] (1946 - 1947) * [[大映ユニオンズ|金星スターズ]] (1948) |経歴補足題 = 監督・コーチ歴 |経歴補足 = <nowiki></nowiki> * [[日鉄鉱業|日鉄二瀬]] * [[中日ドラゴンズ]] (1960 - 1962) * [[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ<br />ロッテオリオンズ]] (1964 - 1971) }} '''濃人 渉'''(のうにん わたる、[[1915年]][[3月22日]] - [[1990年]][[10月10日]])は、[[昭和]]初期から後期([[1930年代]]後半~[[1970年代]]前半)の[[プロ野球選手]]、[[内野手]](主に[[遊撃手]])。[[名古屋金鯱軍]]契約第1号選手。[[プロ野球監督]]。([[1961年]][[5月4日]]~[[1962年]]に「-'''貴実'''(たかみ)」と一時改名)。[[広島県]][[広島市]]生まれ。 == 来歴・人物 == === 生い立ち === 両親は[[ハワイ]]・[[カウアイ島]]に暮らしていたが、母親が姉二人を連れて広島に残した父親の母を世話するため帰国。このとき母親は妊娠中で渉は広島で生まれた<ref name="ベースボールの社会史">永田陽一『ベースボールの社会史―ジミー堀尾と日米野球』p250、251</ref>。船で[[太平洋]]を渡って帰ったから、名前が渉という<ref name="seki7">『プロ野球史再発掘(7)』151-189頁</ref>。ところが、渉の誕生を知った父親がハワイで[[出生届]]を出したため、日本生まれでアメリカ[[国籍]]を併せもつという本来ありえない二重国籍者となった<ref name="ベースボールの社会史"/><ref name="seki7"/>。父親はカウアイ島ワイメアで雑貨商と電気工事会社を経営、1925年創立のカウアイ(加哇)日本人野球リーグ生みの親となった<ref name="ベースボールの社会史"/>。中学卒業まで母親と広島で育つ<ref name="seki7"/>。 === 現役時代 === [[1932年]]旧制広陵中(現・[[広陵高等学校 (広島県)|広陵高校]])で[[第9回選抜中等学校野球大会|春選抜]]に出場、名遊撃手として鳴らすが、チームは[[兵庫県立明石高等学校|明石中]]の名投手・[[楠本保]]に先発全員[[三振]]を喫し完封負け初戦敗退。楠本はこの試合を含め合計3度の先発全員三振奪取を記録、他に2度記録した投手すらいない大記録である。[[第18回全国中等学校優勝野球大会|夏選手権]]は広島予選決勝で[[藤村富美男]]の大正中(のち呉港中、現・[[呉港高等学校]])に敗れた。 [[1933年]]卒業後、父親に呼ばれ無理にハワイへ行くが、「ハワイは暑くて嫌い」と日本に戻り<ref name="seki7"/>広陵中出身の先輩が多い[[明治大学]]への進学を準備中、やはり広陵野球部の先輩から引っ張られ広島専売局(現・[[日本たばこ産業|JT]]広島支局)へ入社<ref name="ベースボールの社会史"/>。広島専売は[[バレーボール]]の強豪(現・[[JTサンダーズ]])で知られるが、当時は野球も強く濃人以外にも数人のプロ野球選手を輩出した他、[[1932年]]に来日した米[[ニグロリーグ]]のロイヤル・ジャイアンツ相手に、日本の単独チームとして初めてアメリカのプロ野球チームに黒星をつけたことで、[[日米野球]]史にその名を残している<ref>[http://www.geocities.jp/k_kura111/ichiro_npb_mlb.htm 日米野球の歴史 ~メジャーリーガー来日の歴史~]</ref>。 [[1935年]]、[[名古屋新聞社]]が野球会社設立の準備を始めると同年5月頃、[[岩本義行]]を介して[[岡田源三郎]]から誘われ<ref name="ベースボールの社会史"/><ref name="seki7"/>11月1日監督に決定した岡田に続き、契約第1号選手としてチーム創設に参加<ref>批判的・日本プロ野球史 [[鈴木武樹]]、[[三一書房]]、1971年12月、38頁。</ref>。背番号'''8'''。この会社が翌[[1936年]]1月にチーム編成を完了する[[名古屋金鯱軍]]で、その母体となる≪株式会社・名古屋野球クラブ≫の設立が同年[[2月28日]]となる<ref>批判的・日本プロ野球史、38頁。</ref>。同年[[2月9日]][[鳴海球場]]、[[読売ジャイアンツ|巨人]]との日本初のプロ球団同士の試合(現在の[[プロ野球]]組織に属する球団同士の初試合)にも8番ショートとして先発出場。強肩の名ショートとして活躍。[[選手兼任監督|プレイングマネージャー]]で[[中堅手]]だった[[島秀之助]]が肩を痛めたため、島の近くまで行ってトスを獲り、バックホームしてランナーを刺した。 [[1937年]]7月、[[召集]]され[[日中戦争|中国戦線]]に参加。[[1938年]]秋、[[香港の戦い|広東の虎門要塞攻略戦]]に加わり、決死隊7人中、左半身に[[砲弾]]の破片を浴びながらただ一人生き残る<ref name="ベースボールの社会史"/><ref>プロ野球を創った名選手・異色選手400人、[[新宮正春]]著、1999年5月、[[講談社]]</ref>。 [[1940年]]帰還し金鯱に復帰。同年[[石本秀一]]が監督に迎えられ師弟関係となる<ref name="seki7"/>。チームは[[翼軍]]に吸収合併され、[[西鉄軍|大洋軍・西鉄軍]]と変わるがそのまま在籍し、戦時下の[[1943年]]までプレー。[[1942年]][[5月24日]]対・[[中日ドラゴンズ|名古屋]]戦、トップリーグに於ける[[中日ドラゴンズ#延長28回|世界最長試合・延長28回]]のショート・2番打者としてフル出場、9打数1安打、4失策<ref>『歴史への招待 22 昭和編』[[日本放送出版協会]]、1982年、93-113頁 「[[歴史への招待]]」([[NHK総合テレビジョン|NHK総合テレビ]]1981年7月11日放送、 <延長28回 進め一億火の玉だ 昭和17年>)</ref>。[[1945年]][[8月6日]]、故郷[[広島市への原子爆弾投下|広島への原爆投下]]により[[被爆]]。幸いこの時は無傷だった。ちなみに、プロ野球界で直接の被爆により[[被爆者手帳|被爆者健康手帳]]を持っている(持っていた)のは、[[張本勲]]と濃人のみである(原爆投下後に被爆地に入った「入市被爆者」では[[岩本義行]]が交付を受けている)。 戦後は[[1946年]]、広島の[[社会人野球]]チーム・鯉城園の選手として[[第17回都市対抗野球大会]]出場。[[日本プロ野球|職業野球]]経験者をずらりと揃えながら、初戦で優勝した[[大日本土木]]に惨敗した。この後、[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]の[[村上実]]代表に誘われるが父親の製材所を継ぐために断る<ref name="seki7"/>。しかし今度は広陵の後輩・[[倉本信護]](年は多い)と[[田部輝男]]らがしつこく誘うため、[[門前眞佐人]]らと[[国民野球連盟|国民野球]]に参加した。[[農業]]をしていた石本秀一を監督として口説き[[結城ブレーブス|グリーンバーグ]]・[[結城ブレーブス]]([[茨城県]][[結城市]])でプレー。主将・トップバッターとしてチームを牽引、また資金難から地方巡業から帰ると焼け跡の東京を歩きまわり金策にも奔走した<ref name="seki7"/>。国民リーグで一番のスター選手だった濃人は巨人から勧誘された。巨人球団代表[[市岡忠男]]の使い[[鈴木龍二]](のち[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]会長)から「巨人が君を欲しがっている。[[千葉茂 (野球)|千葉茂]]とコンビを組んだらもっとスターになれるよ」と言われたが、石本に相談すると一喝された<ref name="seki7"/>。国民リーグは多くの問題を抱え1年で消滅。 [[1948年]]に[[大映ユニオンズ|金星スターズ]]に石本監督と共に復帰。選手過剰のため、2軍の金星リトル・スターズに在籍し同年現役引退。 === 野球指導者として === [[1949年]]、国民リーグで一緒だった[[真野春美]]が在籍していた日鉄二瀬([[福岡県]][[嘉穂郡]]、[[日鉄鉱業]]二瀬鉱業所)野球部に引っ張られ同チームの監督に就き、厳しい指導で無名選手を鍛え上げ強豪チームにする<ref>[http://kyushu.yomiuri.co.jp/sports/feature/tuioku/tu_905_090514.htm 筑豊にノンプロの強豪…日鉄二瀬グラウンド : 追憶の舞台]</ref><ref>闘将火と燃えて、江藤愼一、1975年、鷹書房、52-57頁</ref><ref>[http://www.jili.or.jp/kuraho/2005/special/s_2002_349_11.html 機関誌 くらしと保険 No.349 特集1]</ref><ref name="seki7"/>。[[1951年]][[第22回都市対抗野球大会]]のチーム初出場、翌[[第23回都市対抗野球大会|第23回大会]]は[[選手兼任監督]]1番遊撃手としてチームを牽引、準優勝に導く。[[1954年]]から監督専任、[[江藤愼一]]、[[古葉竹識]]、[[寺田陽介]]、[[吉田勝豊]]らを育て「濃人学校」と呼ばれ教祖的な人気を得て[[九州]]の野球のレベルアップにも貢献<ref>[http://www.meikyukai.co.jp/column/shinichi_eto.html 江藤慎一 | 名球会コラム | 日本プロ野球名球会]</ref><ref>[http://www.jili.or.jp/kuraho/2005/special/s_2002_349_11.html 機関誌 くらしと保険 No.349 特集1]</ref>。[[第29回都市対抗野球大会|第29回大会]]([[1958年]])で再び準優勝に導くなど11年指揮をとった。[[スポーツライター|スポーツジャーナリスト]]・[[越智正典]]は[[1954年]]のサン大会(現在の[[JABA東京スポニチ大会|スポニチ大会]])で逞しく鍛えられた日鉄二瀬の魅力につかまり、何度も[[筑豊]]に足を運んだと話している<ref>[[九州スポーツ]]、2008年4月5日3面。</ref>。[[1959年]]退任。 [[1960年]]、[[名古屋金鯱軍|金鯱]]時代の知り合いで当時、[[中日ドラゴンズ|中日]]の代表だった平岩治郎に誘われ、同チームの二軍監督としてプロ球界復帰<ref name="seki7"/>。翌[[1961年]]、一軍監督に就任。[[井上登 (野球)|井上登]]、[[吉沢岳男]]、[[森徹]]ら、生え抜きトレードを敢行しチームを改革<ref name="ベースボールの社会史"/><ref name="seki7"/><ref name="スポニチ19611129">[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09november/KFullNormal20091101266.html スポニチ 日めくりプロ野球【11月29日】1961年(昭36)]</ref><ref>[http://kayukawa.blog41.fc2.com/blog-date-200802.html コラム堀内一三 200802]</ref>。[[与那嶺要]]らを入団させ新人[[権藤博]]の大車輪の活躍で、巨人より1勝多い72勝をしたにも関わらず引き分けの差で2位に甘んじる。ユニフォームを変更し([[1962年の中日ドラゴンズのユニフォーム|1962年中日ユニフォーム]])この時代では斬新だったカラフルユニフォームは話題を呼び<ref name="査定ファイル">歴代プロ野球監督の査定ファイル、[[別冊宝島]]編集部、2008年、[[宝島社]]、28、29頁</ref>、翌年も3位と健闘したが、親会社([[中日新聞社]])の「[[東京六大学|六大学]]出身の監督が欲しい」という理不尽な理由で解任された。解任の背景には当時、中日新聞社が、中日の前身・名古屋軍の親会社だった[[新愛知]]と、名古屋金鯱の親会社だった[[名古屋新聞]]の合併会社であり、両社の出身者が持ち回りで球団オーナーを務める取り決めから、1962年までは名古屋新聞系のオーナーで、翌[[1963年]]からは新愛知系のオーナーが就任する事が決まっていた、という事情があった。それに加えて、自身のノンプロからの子飼いの選手を入団させた一方、生え抜きの選手を多く放出した事に対し地元名古屋で総スカンを食らった<ref name="seki7"/>。ただ森徹らを放出したことで、[[高木守道]]ら若手が抜擢されたという部分もある。濃人の後任として監督に就任したのが、中日OBの[[杉浦清]]である。そしてドラゴンズブルーのユニフォームがはじめて登場する事になったのも、1963年の事である。 [[1964年]]から[[千葉ロッテマリーンズ|東京オリオンズ]]のコーチ。[[永田雅一]]オーナーに請われ[[1967年]]途中から監督昇格<ref name="査定ファイル"/>。[[1969年]]、[[近藤貞雄]]を再び投手コーチに招聘<ref>『[[サンデー毎日]]』、1981年5月10日号、162頁</ref>、また「[[ミサイル打線]]」復活を目指し、与那嶺を再び打撃コーチとして招き、球団名がロッテに変わった2年目の[[1970年]]、投の[[成田文男]]、[[木樽正明]]、[[小山正明]]、打の[[江藤愼一]]、[[ジョージ・アルトマン|アルトマン]]、[[榎本喜八]]、[[山崎裕之]]、[[有藤道世]]らを率いて[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]独走優勝。しかし[[1970年の日本シリーズ|日本シリーズ]]は巨人に1勝4敗で敗れた。[[飯島秀雄]]在籍時の監督でもあった<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_april/KFullNormal20080407142.html スポニチ 日めくりプロ野球【4月13日】1969年(昭44)]</ref>。 翌[[1971年]][[7月13日]]対[[オリックス・バファローズ|阪急]]戦、日本プロ野球史最後の'''[[放棄試合]]'''(フォーフィテッドゲーム)を起こし([[#エピソード|後述]])シーズン途中に二軍監督に降格、シーズン終了後に[[スカウト]]に転出した。濃人に代わって一軍監督に昇格したのが[[大沢啓二]]<ref name="yakyutsuku">[http://www.yakyutsuku-online.com/library/special/vol10/ 大沢 啓二|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2]</ref><ref name="スポニチ197181">[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_10august/KFullNormal20100801207.html スポニチ 日めくりプロ野球【8月1日】1971年(昭46)]</ref>。[[1975年]]の[[プロ野球ドラフト会議|ドラフト会議]]では、スカウト部長として「使いものにならなかったら腹を切る」と啖呵を切って[[田中由郎]]を全体1位で強行指名<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_08november/KFullNormal20081116203.html スポニチ 日めくりプロ野球【11月18日】1975年(昭50)]</ref>。結局、田中は物にならず、約束通り濃人は[[1978年]]退団。このため田中には「人斬り」という[[あだ名]]が付いた。退団後帰郷し、[[1979年]]から[[広島テレビ放送|広島テレビ]]で[[野球解説者]]を長く務め、後の余生は平穏に送った。1990年10月10日死去。{{没年齢|1915|3|22|1990|10|10}}。 [[帝国ホテル#帝国ホテルチェーン |帝国ホテル大阪]]前総支配人・現顧問を務める濃人賢二は実子<ref>『[[週刊ダイヤモンド]]』、[[ダイヤモンド社]]、2001年2月号、115頁</ref><ref>[http://homepage3.nifty.com/ne/fu/fu-kaiho/fu-2005/2005-11/p-10.html 福岡県人会/会報「東京と福岡」/2005年11月号/10頁]</ref><ref>[http://www.kahohigasi.com/kh12/kh12-1/nounin0.htm 同窓12回生:濃人賢二氏の対談記事をご紹介させていただきます。]</ref>。 孫は濃人一仁。 == エピソード == {{雑多な内容の箇条書き|section=1|date=2011年6月}} *二重国籍の問題については「[[太平洋戦争|日米戦争]]になる前、1939年か1940年にどちらかを選択しなければならなくなり、日本国籍だけにした」という<ref name="ベースボールの社会史"/><ref name="seki7"/>。 *濃人は[[1947年]]に参加した[[国民野球連盟|国民リーグ]]に対しては当初参加を断っていた。しかしスポンサーが「ニッサン自動車」と聞き「それなら安心」と入団した。この「ニッサン自動車」は[[芙蓉グループ]]の大企業である「[[日産自動車|日産自動車株式会社]]」ではなく「日本産業自動車」という自動車用[[クラクション]]を製造する零細工場で略称を「ニッサン自動車」と呼ぶものであった。「日本産業自動車」は「日産自動車」とはまったく無関係であり、結果として濃人は勘違いでチームに入団することになった。案の定、この会社は間も無く経営が行き詰まり石本秀一監督と濃人は金策に走った。解散だけは避けたいと新たな[[スポンサー]]探しに地方巡業から帰京するたび焼け跡の東京を歩き回った。新聞記者からの情報で、金持ちの野球愛好家がいると聞き濃人はその人物の自宅を訪ねた。人物はのち政界に転じて、[[三木武夫]]派の重鎮となる[[井出一太郎]]で、温厚な井出は濃人の申し出を快く引き受けてくれポケットマネーで5万円を包んでくれた。ところが石本も[[広島県立広島商業高等学校|広島商業]]時代の教え子で、建築資材販売を経営するスポンサー、土手潔を探してきた。石本の顔をつぶす訳にもいかず、濃人は翌日石本を伴い井出邸を訪れ事情を話し5万円を返却。井出は人間が大きく嫌な顔一つしなかったという。 *[[1971年]][[7月13日]]、[[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]]での対阪急戦の7回表。江藤愼一のスイングをめぐって審判が判定を「ボール」から「ストライク」に変え、これに納得いかなかった濃人監督は、来場していた[[中村長芳]]オーナーの指示もあって試合続行を拒否。[[放棄試合]](フォーフィテッドゲーム)が宣告され0-9で負けた。その没収試合の10日後の[[7月23日]]に放棄試合の責任をとらされ二軍監督に配置転換され、シーズン終了後スカウトに異動した。後任は[[大沢啓二]]二軍監督(のちの[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]監督)が昇格した<ref name="yakyutsuku"/><ref name="スポニチ197181"/>。これは日本プロ野球史上初の、一・二軍の監督入れ替えだった。日本プロ野球では[[1968年]]に放棄・没収試合は厳禁という規制が出来ていたため、この試合以降放棄試合は起きていない<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09july/KFullNormal20090701158.html スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球【7月13日】1971年(昭46)]</ref>。 *「権藤、権藤、雨、権藤」のプロ野球界の名フレーズを引き起こした[[権藤博]]の酷使については色々言われるが、権藤自身は当時「ノン・プロ時代から世話になっている濃人さんにこれだけ期待されているのですから、二、三年で肩がつぶれても悔いはありません。男として思いきりやるだけです」と人生意気に感ずる気持を語っていた<ref>[http://www.sponichi.co.jp/baseball/special/calender/calender_09may/KFullNormal20090501175.html スポニチ Sponichi Annex 野球 日めくりプロ野球【5月30日】1961年(昭36)]</ref><ref>白球列伝 [[岡田実]]、晩聲社、1982年4月、111頁。</ref>。一方で、肩の痛みを訴える権藤に「たるんでるからだ!」と平然と言い放った事でも知られる。この年、[[石本秀一]]とともに投手コーチだったのが[[近藤貞雄]]で、近藤は自著『野球はダンディズム'88』の中で「当時はまだ若輩で、濃人監督・石本ヘッドコーチの権藤の使い方を、疑問の目で見ながらも、確たる理論的な裏づけもないまま、口を挟むことができなかった」と話しているが<ref>[[近藤貞雄]]『野球はダンディズム'88』[[朝日新聞社]]、1989年、98頁</ref>近藤はこの年の反省と、後に触れた元[[ニューヨーク・ヤンキース|ヤンキース]]の[[ジョニー・セイン]]投手コーチの理論から「投手分業制」を球界に持ち込むことになる<ref>『野球はダンディズム'88』99頁</ref>。 *弟子はとことん可愛がるが、感情的に相容れない選手は徹底的に嫌う、というような感情にまかせた選手起用をしたともいわれ、濃人や弟子の江藤愼一と合わなかった[[早稲田大学]]出身のチームの主砲・[[森徹]]を徹底的に干した挙句、放出したことでも知られる<ref name="スポニチ19611129"/><ref>[http://www.daily.co.jp/baseball/2014/02/07/1p_0006691287.shtml 元中日・森徹氏死去 ミスターの好敵手1p/デイリースポーツ online]</ref><ref>[[阿部牧郎]]『ドン・キホーテ軍団』、[[毎日新聞社]]、1983年、142頁</ref>。近年、野球雑誌に載る森の記事の森のプロフィールには、この辺りを「諸事情あって若くして引退」と書かれる<ref>「[[野球小僧 (雑誌)|中学野球小僧]]」、[[白夜書房]]、2010年1月号、170頁</ref>。濃人自身は「九州勢とか地元勢とかいろいろ言われた。そういうことは根拠がない。だけれどもスポーツ紙はおもしろおかしく書きたがる。だから一般ファンが騒ぎ出した」と話している<ref name="seki7"/>。 *[[板東英二]]の著書である、『プロ野球知らなきゃ損する』では、昭和36年の大トレードの内情を書き、濃人を批判している。それによれば、九州出身の選手でチームをかため身の安泰を図ったところ、干された主力選手達がそれに反発。対立は段々と深まり、ついには中日本社をも巻き込む大騒動となり、試合そっちのけで連日連夜、一本の道を挟んで濃人側がナイトクラブへ、主力選手側がバーへ集まり、相手を蹴落とすための作戦会議をしていたという。主力選手側の人間から裏切り者が出たことにより、最終的に濃人側が抗争に勝利、反濃人の主力選手を全員放出するトレードを行った。[[水原茂]]はそのトレードについて嘆き、「中日は何ということをしたんだ。[[吉沢岳男]]をパに出してしまうなんて、セ・リーグの損失だ」と話したと記述されている。 ==詳細情報== === 年度別打撃成績 === {| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}} |- |style="text-align: center;"|{{by2|1936}}春夏 |rowspan="5" style="text-align: center;"|[[名古屋金鯱軍|金鯱]] |3||13||11||1||5||0||0||0||5||1||4||--||0||--||2||--||0||1||--||.455||.538||.455||.993 |- |style="text-align: center;"|{{by2|1936}}秋 |26||114||94||12||13||1||1||0||16||8||3||--||4||--||16||--||0||10||--||.138||.264||.170||.434 |- |style="text-align: center;"|{{by2|1937}}春 |54||237||211||26||47||3||2||0||54||14||11||--||8||--||17||--||1||10||--||.223||.284||.256||.540 |- |style="text-align: center;"|{{by2|1939}} |51||222||178||27||44||9||1||1||58||17||8||--||8||1||33||--||2||13||--||.247||.371||.326||.697 |- |style="text-align: center;"|{{by2|1940}} |100||450||378||39||89||16||5||4||127||45||13||--||16||3||51||--||2||41||--||.235||.329||.336||.665 |- |style="text-align: center;"|{{by2|1941}} |rowspan="3" style="text-align: center;"|[[西鉄軍|大洋<br />西鉄]] |'''87'''||391||320||20||69||8||0||0||77||23||13||--||7||--||64||--||0||24||--||.216||.346||.241||.587 |- |style="text-align: center;"|{{by2|1942}} |'''105'''||472||396||23||82||8||2||3||103||19||10||3||15||--||60||--||1||33||--||.207||.313||.260||.573 |- |style="text-align: center;"|{{by2|1943}} |'''84'''||379||308||43||60||10||1||1||75||19||6||4||8||--||63||--||0||27||--||.195||.332||.244||.575 |- |style="text-align: center;"|{{by2|1948}} |style="text-align:center;"|[[大映ユニオンズ|金星]] |61||194||163||21||27||5||0||2||38||17||5||3||1||--||29||--||1||15||--||.166||.295||.233||.528 |- !colspan="2"|通算:8年 |571||2472||2059||212||436||60||12||11||553||163||73||10||67||4||335||--||7||174||--||.212||.324||.269||.593 |} * 各年度の'''太字'''はリーグ最高 * 大洋(大洋軍)は、1943年に西鉄(西鉄軍)に球団名を変更 === 監督としてのチーム成績 === {| class="wikitable" style="text-align: right;" !年度!!年度!!順位!!試合数!!勝利!!敗戦!!引分!!勝率!!ゲーム差!!チーム<br>本塁打!!チーム<br>打率!!チーム<br>防御率!!年齢!!球団 |- |[[1961年]]||[[昭和]]36年||2位||130||72||56||2||.562||1||79||.241||2.48||45歳 |rowspan="2" style="text-align: center;"|[[中日ドラゴンズ|中日]] |- |[[1962年]]||昭和37年||3位||133||70||60||3||.538||5||107||.249||2.68||46歳 |- |[[1967年]]||昭和42年||5位||137||61||69||7||.469||14||87||.240||3.01||51歳 |rowspan="5" style="text-align: center;"|[[千葉ロッテマリーンズ|東京・ロッテ]] |- |[[1968年]]||昭和43年||3位||139||67||63||9||.515||13||155||.262||3.32||52歳 |- |[[1969年]]||昭和44年||3位||130||69||54||7||.561||5.5||142||.260||3.11||53歳 |- |[[1970年]]||昭和45年||1位||130||80||47||3||.630||―||166||.263||3.23||54歳 |- |[[1971年]]||昭和46年||2位||130||80||46||4||.635||3.5||193||.270||3.77||55歳 |- |||通算||||813||442||343||28||.563|| |} : ※1 1961年から1962年、1967年から[[1996年]]までは130試合制 : ※2 1965年、東京[[本堂安次]]監督の病気休養の6月17日から7月1日まで指揮(10試合5勝5敗) : ※3 1967年、[[戸倉勝城]]監督休養の6月20日から7月30日、復帰した戸倉監督解任後の8月15日から閉幕まで指揮(67試合34勝31敗2分) : ※4 1971年、7月23日に解任(74試合45勝27敗2分) : ※5 通算成績は実際に指揮した試合 === 背番号 === *'''8'''(1936年 - 1937年、1940年) *'''1'''(1941年 - 1943年) *'''5'''(1948年) *'''61'''(1960年) *'''1'''(1961年 - 1962年) *'''51'''(1964年 - 1971年) == 関連情報 == ===出演番組=== *[[Dramatic Game 1844]] - [[日本テレビネットワーク協議会|日本テレビ系列]]における、[[プロ野球中継]]の現行タイトル。 == 関連項目 == *[[広島県出身の人物一覧]] *[[名古屋金鯱軍の選手一覧]] *[[西鉄軍の選手一覧]] *[[大映ユニオンズの選手一覧]] == 参考文献 == *焦土の野球連盟、[[阿部牧郎]]著、1987年2月、[[サンケイ出版]] *プロ野球審判の眼、[[島秀之助]]著、1986年9月、[[岩波書店]] *野球を変えた男、[[与那嶺要]]・山本茂共著、1992年2月、[[ベースボール・マガジン社]] *日本プロ野球トレード大鑑、ベースボール・マガジン社 *都市対抗野球大会60年史、[[日本野球連盟]]、1990年1月、[[毎日新聞社]] *白球の星を追え!、戸部良也著、[[講談社]]、1978年11月 *白球列伝、[[岡田実]]著、1982年4月、晩聲社 *[[野球小僧 (雑誌)|野球小僧]]、[[白夜書房]]、2008年4月号 *闘将火と燃えて、[[江藤愼一]]著、1975年、鷹書房 *プロ野球を創った名選手・異色選手400人、[[新宮正春]]著、[[講談社]]、1999年5月 *プロ野球史再発掘(7)、関三穂著、1987年5月、ベースボール・マガジン社、 *ベースボールの社会史―ジミー堀尾と日米野球、永田陽一著、1994年7月、[[東方出版]] *歴代プロ野球監督の査定ファイル、[[別冊宝島]]編集部、2008年、[[宝島社]] == 脚注 == <div class="references-small"><references /></div> == 外部リンク == *[http://www.asahi-net.or.jp/~kp7s-ootk/KOKUMIN/MAIN.html もうひとつのプロ野球 『国民リーグ』]([http://www.asahi-net.or.jp/~kp7s-ootk/index.html JIMMY'S STRIKE ZONE]より) {{千葉ロッテマリーンズ歴代監督|東京オリオンズ及びロッテオリオンズ|1965途中-1965終了、1967途中-1971.7.23}} {{中日ドラゴンズ歴代監督|中日ドラゴンズ|1961-1962}} {{パシフィック・リーグ優勝監督}} {{DEFAULTSORT:のうにん わたる}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:名古屋金鯱軍の選手]] [[Category:西鉄軍及び大洋軍の選手]] [[Category:大映ユニオンズ及びその前身球団の選手]] [[Category:国民野球連盟]] [[Category:野球監督]] [[Category:野球解説者]] [[Category:広島原爆の被爆者]] [[Category:中日ドラゴンズ及びその前身球団の監督]] [[Category:千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の監督]] [[Category:広島市出身の人物]] [[Category:アメリカ系日本人]] [[Category:日系アメリカ人の野球選手]] [[Category:1915年生]] [[Category:1990年没]]
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