滕胤のソースを表示
←
滕胤
移動先:
案内
、
検索
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
'''滕 胤'''(とう いん、?-[[257年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の武将・政治家。[[字]]は'''承嗣'''。[[青州]]北海国劇県の人。父は滕冑。伯父は滕耽。妻は[[孫奐]]の娘。子は呉纂の妻。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志に伝がある <ref>[[陳寿]]([[裴松之]]注)の『正史三国志』の「呉志」滕胤伝は、物語として次の孫峻伝を経て孫綝伝に続く特殊な形式となっており、滕胤が殺害されたことは孫綝伝に記述されている。これについて『三国志』の日本語訳者[[小南一郎]]([[ちくま学芸文庫]]版、初版1993年)による解説で、『三國志』の「呉志」が、[[韋昭]]らが書いた『呉書』に基づいていることを挙げ、陳寿が『呉書』の形式に則ったからだという説と、『呉書』には記述されていない出来事であったため、この項のみ陳寿が独自に補ったためだ、という二つの説を挙げている。</ref>。 家が代々[[劉ヨウ (揚州牧)|劉繇]]の一族と通婚関係があったため、戦乱の時代に劉繇を頼って[[長江]]を渡り、[[揚州]]に避難してきたという。 [[孫権]]は[[車騎将軍]]になると、滕耽を右司馬として迎え、滕耽が死ぬと後継がなかったため滕冑をとりたて、文書の整理や起草の仕事に就かせた。その父が死去したのは滕胤が12歳のときであったという(『呉書』)。 孫権は呉王になると、生前の滕冑の功績を考慮して滕胤をとりたて、都亭侯に封じた。外観は色白で、若くして行状や立ち居振舞いが見事であったため、孫権や群臣達から好印象を持たれ、20歳のときに公主を妻とした。30歳以降に[[丹陽]][[太守]]・呉郡太守・[[会稽]]太守を歴任し、いずれの任地でも評判が良かった。 [[251年]]、重態となった孫権を見舞うために[[建康 (都城)|建業]]を訪れたとき、[[太常]]に任命され、そのまま中央に留まった。[[252年]]の孫権臨終の際、[[諸葛恪]]・[[孫峻]]と共に後事を託されている。[[孫亮]]が即位すると[[衛将軍]]も加えられ、その輔佐に当たった。諸葛恪が[[魏 (三国)|魏]]の討伐を行なおうとすると、これに反対したが聞き入られず、留守役として都下督に任じられ、職務に励んだ。その後、予想通り諸葛恪率いる呉軍は大敗を喫した。 やがて、諸葛恪の専横に憤った孫亮や孫峻らが暗殺計画を企み、諸葛恪を斬殺し、その一族をことごとく滅ぼした<ref>諸葛恪伝の注に引く『呉歴』によれば、この時、諸葛恪に対して身辺に気をつけるように警告したが、諸葛恪はこれを聞き入れず、殺されてしまったという。しかし、諸葛恪伝本文には「滕胤は暗殺計画を知らずに、孫峻が諸葛恪を殺すために開催した酒宴に出るように諸葛恪に勧めた」と書かれている。諸葛恪伝の注に引く『異同評』によれば、歴史家の[[孫盛]]は『呉歴』の記述の方が優れていると推測している。</ref>。滕胤は諸葛竦(諸葛恪の子)の舅であったため辞職を願い出たが、孫峻に拒絶された(「孫峻伝」)。 孫峻との関係は良好ではなかったが、表面的にはお互いに相手のことを立てるようにしたため、政治に混乱は生じなかった。また、爵位も高密侯に進んだ<ref>『呉録』によると、群臣達は孫峻を[[太尉]]、滕胤を[[司徒]]にすることを望んだが、孫峻に諂う者がいたため、孫峻のみが丞相となったことに大きく落胆したとある。</ref>。 孫峻は幾度か北上して魏を討つことを計画した。しかし[[256年]]、滕胤や従者を引き連れ石頭の陣で諸将を見送る宴会を催した時、[[呂拠]]の陣で体調を崩し、そのまま急死した(「孫峻伝」)。 孫峻の死後、[[孫チン|孫綝]]が[[侍中]]・武衛将軍に任命され、権力を継承した。呂拠はこの人事に不満を持ち、諸将と連名で滕胤を[[丞相]]とするよう上奏した。一方の孫綝は、滕胤を[[大司馬]]として[[武昌]]に駐屯させ、中央から遠ざけようとした。呂拠は滕胤に手紙を送り、共に挙兵して孫綝を倒そうと持ちかけた。この呂拠の動きを察知した孫綝は、呂拠を従兄の孫憲達に攻撃させる一方で、滕胤の元には侍中・[[左将軍]]である華融と中書丞の丁晏を送り、呂拠を捕縛することと、そのまま武昌に赴くことを伝えさせた。滕胤は自身にも危機が迫っていることを察知し、華融達を軟禁した。また、兵士を集め孫綝を討つことに決め、華融達を脅迫して孫綝批判の手紙を書かせた。孫綝は将軍の劉丞に命令させ、滕胤を攻撃した。滕胤は華融達が言うことを聞かないため殺害した(「孫綝伝」)。 滕胤は、このような事態に至っても動じる様子もなく、人と談笑するときはいつも通りであった。滕胤は呂拠の来援を信じ防御を続けていたが、結局呂拠軍が現れることはなく、孫綝の派遣した大軍の前に敗北し、捕らえられ一族皆殺しとされた。しかし彼の妻のみは、兄の[[孫壱]]に救い出され、魏に亡命したという。 小説『[[三国志演義]]』では、諸葛恪と仲が悪かった設定になっており、孫峻のクーデターにも積極的に関与している。 == 注 == <references/> {{DEFAULTSORT:とう いん}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:呉の人物]] [[Category:257年没]]
滕胤
に戻る。
案内メニュー
個人用ツール
ログイン
名前空間
ページ
議論
変種
表示
閲覧
ソースを表示
履歴表示
その他
検索
案内
メインページ
コミュニティ・ポータル
最近の出来事
新しいページ
最近の更新
おまかせ表示
sandbox
commonsupload
ヘルプ
ヘルプ
井戸端
notice
bugreportspage
sitesupport
ウィキペディアに関するお問い合わせ
ツール
リンク元
関連ページの更新状況
特別ページ
ページ情報