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'''源 広綱'''(みなもと の ひろつな、生没年未詳)は、[[平安時代]]末期から[[鎌倉時代]]初期にかけての武将。[[家系]]は[[清和源氏]]の一家系、[[摂津源氏]]の出である。[[源頼政]]の末子。長兄・[[源仲綱|仲綱]]の養子となる。[[官位]]は[[従五位|従五位下]]・[[駿河国|駿河守]]。 == 生涯 == 頼政・仲綱らが[[以仁王]]と共に挙兵し討ち死にした時、仲綱の次子・[[源有綱|有綱]]と共に[[知行国]]の[[伊豆国|伊豆]]におり、伊豆で挙兵した[[鎌倉]]の[[源頼朝]]の傘下で[[伊勢平氏|平氏]]追討軍に加わる。[[寿永]]3年([[1184年]])6月5日、小除目により[[一ノ谷の戦い]]の褒章として頼朝の推挙に基づいて従五位下駿河守に叙任される。頼朝は同じ[[清和源氏]]の[[一門]]には冷たく当たる傾向があったが、その一方でこの広綱や[[足利義兼]]、[[平賀義信]]などは厚遇し、あえて格差をつけるようなことも行った。 義弟の有綱は[[源義経]]の婿となって終始義経と行動を共にしたため、頼朝によって自害に追い込まれた。広綱はこの事件に連座せず、[[文治]]5年([[1189年]])[[奥州合戦]]に従軍。さらに[[建久]]元年([[1190年]])11月に頼朝の上洛に随行するが、翌月頼朝が関東に下向するその日の朝、家人にも行方を知らせずに突然逐電した。翌年6月、[[神護寺]]の[[文覚]]によって広綱が遁世して上醍醐にあることを鎌倉に報じた。逐電の理由は、頼朝の右大将拝賀の際に供奉人に選ばれなかったこと、駿河国の国務について希望がかなえられなかったことだという。 子孫は[[太田氏]]として繁栄し、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]初期には著名な[[太田道灌]]を出している。 == 系譜 == *父:[[源頼政]] - 源三位 *養父:[[源仲綱]] - [[以仁王の挙兵]]で自害 *母:不詳 *妻:不詳 **男子:[[源隆綱 (清和源氏)|源隆綱]] - [[丹波国]][[五箇荘 (丹波国)|五箇庄]]を領す、仕[[土御門天皇]]、子孫は[[太田氏]] {{DEFAULTSORT:みなもと の ひろつな}} [[Category:摂津源氏|ひろつな]] [[Category:平安時代の武士]] [[Category:鎌倉時代の武士]] [[Category:生年不明]] [[Category:没年不明]]
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