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源実朝
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{{出典の明記|date=2011年9月}} {{基礎情報 武士 | 氏名 = 源実朝 | 画像 = Minamoto_no_Sanetomo.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 源実朝像(『[[國文学名家肖像集]]』収録) | 時代 = [[鎌倉時代]]前期 | 生誕 = [[建久]]3年[[8月9日 (旧暦)|8月9日]]([[1192年]][[9月17日]]) | 死没 = [[建保]]7年[[1月27日 (旧暦)|1月27日]]([[1219年]][[2月13日]]) | 改名 = 千幡(幼名)→実朝 | 別名 = 将軍家、羽林、右府、[[鎌倉殿]]、鎌倉右大臣 | 戒名 = 大慈寺殿正二位丞相公神儀 | 墓所 = [[寿福寺|亀谷山寿福寺]]、[[金剛三昧院]]、[[白旗神社]] | 官位 = [[正二位]]、[[右大臣]] | 幕府 = [[鎌倉幕府]] 3代[[征夷大将軍]] | 氏族 = [[清和源氏]]([[河内源氏]]) | 父母 = 父:[[源頼朝]]、母:[[北条政子]] | 兄弟 = 千鶴丸、[[大姫 (源頼朝の娘)|大姫]]、[[源頼家|頼家]]、[[貞暁]]、[[三幡|乙姫]]、'''実朝''' | 妻 = 正室:'''[[坊門信子]]'''([[坊門信清]]の娘) | 子 = 実子:なし、[[猶子]]:''[[公暁]]''、''[[竹御所]]'' | 特記事項 = }} '''源 実朝'''(みなもと の さねとも、'''源 實朝''')は、[[鎌倉時代]]前期の[[鎌倉幕府]]第3代[[征夷大将軍]]。 鎌倉幕府を開いた[[源頼朝]]の四男(頼朝の子としては第6子で四男、政子の子としては第4子で次男)として生まれ、兄の[[源頼家|頼家]]が追放されると12歳で[[征夷大将軍]]に就く。政治は始め[[執権]]を務める[[北条氏]]などが主に執ったが、成長するにつれ関与を深めた。官位の昇進も早く[[武士]]として初めて[[右大臣]]に任ぜられるが、その翌年に[[鶴岡八幡宮]]で頼家の子[[公暁]]に暗殺された。これにより[[源氏将軍]]は断絶した。 [[歌人]]としても知られ、92首が[[勅撰和歌集]]に入集し、[[小倉百人一首]]にも選ばれている。[[家集]]として[[金槐和歌集]]がある。小倉百人一首では'''鎌倉右大臣'''とされている。 == 生涯 == === 将軍就任 === [[建久]]3年([[1192年]])8月9日[[巳]]の刻、源頼朝の次男として鎌倉[[名越 (鎌倉市)|名越]]の[[北条時政]]の屋敷・浜御所で生まれる。幼名は'''千幡'''。母は頼朝の流人時代に妻となっていた[[北条政子]]。乳母は政子の妹である[[阿波局 (北条時政の娘) |阿波局]]が選ばれ、[[大弐局 (加賀美氏)|大弐局]]ら御所女房が介添えをした。千幡は若公として誕生から多くの儀式で祝われた。12月5日、頼朝は千幡を抱いて[[御家人]]の前に現れると、「みな意を一つにして将来を守護せよ」と述べ面々に千幡を抱かせた。 建久10年([[1199年]])に父・頼朝が薨去し、兄の頼家が将軍職を継ぐ。[[建仁]]3年([[1203年]])9月、[[比企能員の変]]により頼家は将軍職を失い[[伊豆国]]に追われた。母・政子らは朝廷に対して9月1日に頼家が死去したという虚偽の報告を行い、弟の千幡への家督継承の許可を求めた。これを受けた朝廷は7日に実朝を[[従五位|従五位下]]・[[征夷大将軍]]に補任した<ref>『吾妻鏡』建仁3年9月15日条には征夷大将軍補任の宣旨が下されたと記されているが、『[[猪隈関白記]]』9月7日条には[[内大臣]][[藤原隆忠]]を[[上卿]]として従五位下征夷大将軍補任の[[除目]]が行われて後鳥羽上皇が「実朝」という名を定めたと記されており(同一の補任に対して除目と宣旨が同時に行われることはない)、両者の記事は矛盾しており同時代史料である後者が正しい可能性が高い(参照:[[北村拓]]「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」(所収:[[今江廣道]] 編『中世の史料と制度』(続群書類従完成会、2005年) ISBN 978-4-7971-0743-2 P137-194))。</ref>。 10月8日、[[遠江国]]において12歳で[[元服]]し、'''実朝'''と称した。儀式に参じた[[御家人]]は[[大江広元]]、[[小山朝政]]、[[安達景盛]]、[[和田義盛]]ら百余名で、理髪は祖父の北条時政、加冠は[[平賀義信]]が行った。24日にはかつて父の務めた[[兵衛府|右兵衛佐]]に任じられる。翌年、兄・頼家は北条氏の刺客により暗殺された。 [[元久]]元年([[1204年]])12月、京より[[坊門信清]]の娘・[[坊門信子|信子]]を正室に迎える。正室ははじめ[[足利義兼]]の娘が考えられていたが、実朝は許容せず使者を京に発し妻を求めた<ref>実朝の婚姻は頼家の母方の北条氏と妻方の[[比企氏]]が衝突した[[比企氏の乱]]の翌年のことであり、一概に実朝の京都・貴族志向の表れとは解することは出来ない。</ref>。 元久2年([[1205年]])1月5日に[[正五位|正五位下]]に叙され、29日には[[加賀国|加賀介]]を兼ね[[近衛府|右近衛権中将]]に任じられる。 {| style="float:right" |+'''系譜''' |-- | [[源義朝]] [[北条時政]]━[[牧の方]] ┃ ┃ ┃ ┣━━━━┓ [[源頼朝]]┳[[北条政子]] [[北条義時]] [[坊門信清]] ┃ ┃ ┣━━━┓ ┏━━━┛ [[源頼家]] '''源実朝'''━[[坊門信子]] ┃ [[公暁]] |} === 北条政権 === 6月、[[畠山重忠の乱]]が起こる。[[北条義時]]、[[北条時房|時房]]、[[和田義盛]]らが鎮めたが、乱後の論功は政子が行い、論功には年齢が達していないとされた実朝は加わらなかった。閏7月19日、時政邸に在った実朝を侵そうという[[牧の方]]の謀計が鎌倉に知れ渡る。実朝は政子の命を受けた御家人らに守られ、義時の邸宅に逃れた。牧の方の夫である時政は兵を集めるが、兵はすべて義時邸に参じた。20日、時政は伊豆国[[修禅寺]]に追われ、[[執権]]職は義時が継いだ。[[牧氏事件]]と呼ばれる。 9月2日、『[[新古今和歌集]]』を京より運ばせる。和歌集は未だ披露されていなかったが、和歌を好む実朝は、父の歌が入集すると聞くとしきりに見る事を望んだ。[[建永]]元年([[1206年]])2月22日、[[従四位|従四位下]]へ昇り、10月20日には母の命により兄・頼家の次男である善哉を[[猶子]]とする。11月18日、近仕を務める[[東重胤]]が鎌倉に参る。重胤は暇を得て[[下総国]]に帰っており在国は数ヶ月に及んだ。実朝は詠歌を送って重胤を召していたが、なお遅参した為に蟄居させた。12月23日、重胤は義時の邸宅を訪れ蟄居の悲嘆を述べる。義時は「凡そこの如き災いに遭うは、官仕の習いなり。但し詠歌を献らば定めて快然たらんかと」と述べると、重胤は一首を詠んだ。義時はそれを見ると重胤を伴って実朝の邸宅に赴き、歌を実朝の前に置き重胤を庇った。実朝は重胤の歌を三回吟じると門外で待つ重胤を召し、歌の事を尋ね許した。 [[承元]]元年([[1207年]])1月5日、従四位上に叙せられる。承元2年([[1208年]])2月、[[天然痘|疱瘡]]を患う。実朝はこれまで幾度も[[鶴岡八幡宮]]に参拝していたが、以後3年間は病の痕を恥じて参拝を止めた。12月9日、[[正四位|正四位下]]に昇る。承元3年([[1209年]])4月10日、[[従三位]]に叙せられ、5月26日には右近衛中将に任ぜられる。7月5日、[[藤原定家]]に自らが詠んだ和歌三十首の評を請う。11月14日、義時が郎従の中で功のある者を侍に準ずる事を望む。実朝は許容せず、「然る如きの輩、子孫の時に及び定めて以往の由緒を忘れ、誤って幕府に参昇を企てんか。後難を招くべきの因縁なり。永く御免有るべからざる」と述べる。[[北条氏]]の家人は後に[[御内人]]と呼ばれ幕府で権勢を振るう事となる。 [[建暦]]元年([[1211年]])1月5日、[[正三位]]に昇り、18日に[[美作国|美作権守]]を兼ねる。9月15日、猶子に迎えていた善哉は出家して[[公暁]]と号し、22日には[[受戒]]の為上洛した。建暦2年([[1212年]])6月7日、侍所の建物内で宿直の御家人同士のいざこざから刃傷事件があり死者も出た。そこで侍所の建物を破却して流血や死に伴う穢れから逃れようとした。[[千葉成胤]]は[[武家の棟梁]]が血や死を穢れとする事を諌めた。だが、結果的に7月9日に改めて侍所の建物を破却して新造する様に命じた。12月10日、[[従二位]]に昇る。 === 和田合戦 === [[建保]]元年([[1213年]])2月16日、御家人らの謀反が露顕する。頼家の遺児を将軍とし義時を討たんと企てており、加わった者が捕らえられる。その中には[[侍所]]別当を務める和田義盛の子である義直、義重らもあった。20日、囚人である[[薗田成朝]]の逃亡が明らかとなる。実朝は成朝が受領を所望していた事を聞くとかえって「早くこれを尋ね出し恩赦有るべき」と述べる。26日、死罪を命じられた[[渋河兼守]]が詠んだ和歌を見ると過を宥めた。27日に謀反人の多くは配流に処した。同日、[[正二位]]に昇る。3月8日、和田義盛が御所に参じ対面する。実朝は義盛の功労を考え義直と義重の罪を許した。9日、義盛は一族を率いて再び御所に参じ甥である胤長の許しを請うが、実朝は胤長が張本として許容せず、それを伝えた北条義時は和田一族の前に面縛した胤長を晒した([[泉親衡の乱]])。 4月、義盛の謀反が聞こえ始める。5月2日朝、兵を挙げる。義時はそれを聞くと幕府に参じ、政子と実朝の妻を八幡宮に逃れさせた。[[酉]]の刻、義盛の兵は幕府を囲み御所に火を放つ。ここで実朝は火災を逃れ頼朝の墓所である法華堂に入った。戦いは3日に入っても終わらず、実朝の下に「多勢の恃み有るに似たりといえども、更に凶徒の武勇を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきか」との報告が届く。驚いた実朝は[[政所]]に在った大江広元を召すと、願書を書かせそれに自筆で和歌を二首加え、八幡宮に奉じる。酉の刻に義盛は討たれ合戦は終わった。5日、実朝は御所に戻ると侍所別当の後任に義時を任じ、その他の勲功の賞も行った([[和田合戦]])。 9月19日、日光に住む[[畠山重忠]]の末子・[[畠山重慶|重慶]]が謀反を企てるとの報が届く。実朝は[[長沼宗政]]に生け捕りを命じるが、21日、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は「重忠は罪無く誅をこうむった。その末子が隠謀を企んで何の不思議が有ろうか。命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった。粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し宗政の出仕を止める。それ伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は叛逆の企てに疑い無し。生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許しの沙汰が有ると考え、首を梟した。今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうか」と述べた。閏9月16日、兄・[[小山朝政]]の申請により実朝は宗政を許す。 === 渡宋計画 === 11月23日、藤原定家より相伝の『[[万葉集]]』が届く。広元よりこれを受け取ると「これに過ぎる重宝があろうか」と述べ賞玩する。同日、仲介を行った[[飛鳥井雅経]]がかねてより訴えていた[[伊勢国]]の地頭の非儀を止めさせる。『[[金槐和歌集]]』はこの頃に纏められたと考えられている。建保2年([[1214年]])5月7日、[[延暦寺]]に焼かれた[[園城寺]]の再建を沙汰する。6月3日、諸国は[[旱魃]]に愁いており、実朝は降雨を祈り[[法華経]]を転読する。5日、雨が降る。13日、関東の御領の年貢を三分の二に免ずる。また同年には、[[栄西]]より『喫茶養生記』を献上される。栄西は翌年に病で亡くなるが、[[大江親広]]が実朝の使者として見舞った。建保4年([[1216年]])3月5日、政子の命により頼家の娘(後の[[竹御所]])を猶子に迎える。 6月8日、[[東大寺]]大仏の再建を行った[[南宋|宋]]人の僧・[[陳和卿]]が鎌倉に参着し「当将軍は権化の再誕なり。恩顔を拝せんが為に参上を企てる」と述べる。15日、御所で対面すると陳和卿は実朝を三度拝み泣いた。実朝が不審を感じると陳和卿は「貴客は昔[[宋 (王朝)|宋朝]]医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。」と述べる。実朝はかつて夢に現れた高僧が同じ事を述べ、その夢を他言していなかった事から、陳和卿の言を信じた。 6月20日、[[中納言|権中納言]]に任ぜられ、7月21日、左近衛中将を兼ねる。9月18日、北条義時と大江広元は密談し、実朝の昇進の早さを憂慮する。20日、広元は義時の使いと称し、御所を訪れて「御子孫の繁栄の為に、御当官等を辞しただ征夷大将軍として、しばらく御高年に及び、大将を兼ね給うべきか」と諫めた。実朝は「諌めの趣もっともといえども、源氏の正統この時に縮まり、子孫はこれを継ぐべからず。しかればあくまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」と答える。広元は再び是非を申せず退出し、それを義時に伝えた<ref>[[上横手雅敬]]や[[河内祥輔]]は、この会話を実朝が男子誕生を断念して然るべき家から後継者を求める意思を示し、義時にその伝言を求めたとする解釈を採る。</ref>。 11月24日、前世の居所と信じる宋の[[医王山]]を拝す為に渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元は頻りにそれを諌めたが、実朝は許容しなかった。建保5年([[1217年]])4月17日、完成した唐船を[[由比ヶ浜]]から海に向って曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じた。なお宋への関心からか、実朝は宋の能仁寺より仏舎利を請来しており、[[円覚寺]]の舎利殿に祀られている。5月20日、一首の和歌と共に恩賞の少なさを愁いた[[紀康綱]]に[[備中国]]の領地を与える。詠歌に感じた故という。6月20日、園城寺で学んでいた公暁が鎌倉に帰着し、政子の命により[[鶴岡八幡宮]]の別当に就く。また、[[葛山景倫]]にこの時渡宋を命じていた。 === 落命 === [[ファイル:Large ginkgo in Tsurugaoka-hachimangu Shrine.jpg|thumb|200px|鶴岡八幡宮の大銀杏(倒壊前)]] 建保6年([[1218年]])1月13日、[[大納言|権大納言]]に任ぜられる。2月10日、右大将への任官を求め使者を京に遣わすが、やはり必ず左大将を求めよと命を改める。父の源頼朝は右大将であった。3月16日、[[近衛大将|左近衛大将]]と[[馬寮|左馬寮御監]]を兼ねる。10月9日、[[内大臣]]を兼ね、12月2日、[[九条良輔]]の薨去により[[右大臣]]へ転ずる。[[武士]]としては初めての右大臣であった。21日、昇任を祝う翌年の鶴岡八幡宮拝賀のため、装束や車などが[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]より贈られる。26日、随兵の沙汰を行う。 建保7年([[1219年]])1月27日、雪が二尺ほど積もる日に八幡宮拝賀を迎えた。御所を発し八幡宮の楼門に至ると、北条義時は体調の不良を訴え、太刀持ちを[[源仲章]]に譲った。夜になり神拝を終え退出の最中、「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ公暁に襲われ落命した。[[享年]]28(満26歳没)。公暁は次に仲章を切り殺したが、これは太刀持ちであった義時と誤ったともいわれる。実朝の[[首級|首]]は持ち去られ、公暁は食事の間も手放さなかったという。同日、公暁は討手に誅された<ref>落命の件は、実朝を除こうとした「黒幕」によって実朝が父(頼家)の敵であると吹き込まれた為だとする説がある。ただし、その黒幕の正体については[[三浦義村]]、義時、後鳥羽上皇など諸説がある。</ref>。 予見が有ったのか、出発の際に大江広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に[[腹巻]]を着け給うべし」と述べたが、仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪を行う者に記念と称して髪を一本与えている。庭の梅を見て詠んだ辞世となる和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」で、禁忌の歌と評された。落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わるが、これは後世の創作と考えられ、信憑性に乏しい。『[[承久記]]』によると、一の太刀は[[笏]]に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「'''広元やある'''」と述べ落命したという。 28日、妻は落餝し御家人百余名<ref>[[大江親広]]、[[大江時広]]、[[中原季時]]、[[安達景盛]]、[[二階堂行村]]、[[加藤景廉]]、以下百余名</ref>が出家する。亡骸は[[勝長寿院]]に葬られたが首は見つからず、代わりに記念に与えた髪を入棺した。この時、渡宋を命じられていた葛山景倫は訃報を聞いて、高野山に菩提を弔う為に上がり、その忠心を政子に認められ、和歌山の由良に西方寺(後の興国寺。[[尺八]]伝来の地)を与えられた。実朝には子が無かったため、彼の死によって[[源氏将軍]]および[[河内源氏]]棟梁の血筋は断絶した。 == 年表 == * 年月日は出典が用いる暦。 * 西暦は元日を旧暦に変更している。 {| class=wikitable width="100%" |- !style="width:5em;"|[[和暦]] !style="width:4em;"|西暦 !style="width:6em;"|月日 !内容 !style="width:11em;"|出典 |- |[[建久]]3年 |[[1192年]] |8月9日 |出生([[数え年]]1歳) |[[吾妻鏡]] |- |rowspan=3|[[建仁]]3年 |rowspan=3|[[1203年]] |9月7日 |[[従五位|従五位下]]に叙し、[[征夷大将軍]]宣下(12歳) |吾妻鏡 |- |10月8日 |元服 |吾妻鏡 |- |10月24日 |[[兵衛府|右兵衛佐]]に任官 |吾妻鏡 |- |rowspan=1|[[元久]]元年 |rowspan=1|[[1204年]] |7月18日 |兄・[[源頼家]]薨去(13歳) |吾妻鏡等 |- |rowspan=5|元久2年 |rowspan=5|[[1205年]] |1月5日 |従五位上に昇叙し、右兵衛佐如元(14歳) |明月記 |- |1月29日 |[[近衛府|右近衛権中将]]に転任し、[[加賀国|加賀介]]を兼任 |明月記 |- |6月 |[[畠山重忠の乱]] |吾妻鏡 |- |閏7月 |[[牧氏事件]] |吾妻鏡 |- |9月7日 |披露前の[[新古今和歌集]]を京より運ばせる |吾妻鏡 |- |rowspan=2|[[建永]]元年 |rowspan=2|[[1206年]] |2月22日 |[[従四位|従四位下]]に昇叙し、右近衛権中将・加賀介如元(15歳) |吾妻鏡 |- |10月20日 |頼家の次男・善哉(後の[[公暁]])を[[猶子]]とする |吾妻鏡 |- |[[承元]]元年 |[[1207年]] |1月5日 |従四位上に昇叙し、右近衛権中将・加賀介如元(16歳) |吾妻鏡 |- |rowspan=2|承元2年 |rowspan=2|[[1208年]] |2月 |[[天然痘|疱瘡]]を患う(17歳) |吾妻鏡 |- |12月9日 |[[正四位|正四位下]]に昇叙し、右近衛権中将・加賀介如元 |吾妻鏡 |- |rowspan=2|承元3年 |rowspan=2|[[1209年]] |4月10日 |[[従三位]]に昇叙(18歳) |吾妻鏡 |- |5月26日 |右近衛中将に任官 |吾妻鏡 |- |rowspan=2|[[建暦]]元年 |rowspan=2|[[1211年]] |1月5日 |[[正三位]]に昇叙し、右近衛中将如元(20歳) |吾妻鏡 |- |1月18日 |[[美作国|美作権守]]を兼任 |吾妻鏡 |- |建暦2年 |[[1212年]] |12月10日 |[[従二位]]に昇叙し、右近衛中将・美作権守如元(21歳) |吾妻鏡 |- |rowspan=3|[[建保]]元年 |rowspan=3|[[1213年]] |2月27日 |[[正二位]]に昇叙し、右近衛中将・美作権守如元(22歳) |吾妻鏡 |- |5月 |[[和田合戦]] |吾妻鏡 |- | |[[金槐和歌集]]を纏める |同集定家所伝本奥書 |- |rowspan=4|建保4年 |rowspan=4|[[1216年]] |3月5日 |頼家の娘(後の[[竹御所]])を猶子とする(25歳) |吾妻鏡 |- |6月20日 |[[中納言|権中納言]]に転任 |吾妻鏡 |- |7月21日 |左近衛中将兼任 |吾妻鏡 |- |9月20日 |[[大江広元]]より昇進を諌められる |吾妻鏡 |- |建保5年 |[[1217年]] |4月17日 |陳和卿に造らせた船を海に出すが沈む(26歳) |吾妻鏡 |- |rowspan=4|建保6年 |rowspan=4|[[1218年]] |1月13日 |[[大納言|権大納言]]に転任(27歳) |吾妻鏡 |- |3月6日 |[[近衛大将|左近衛大将]]と[[馬寮|左馬寮御監]]を兼任 |吾妻鏡 |- |10月9日 |[[内大臣]]に転任。左近衛大将・左馬寮御監如元。 |吾妻鏡 |- |12月2日 |[[右大臣]]に転任。左近衛大将・左馬寮御監如元。 |吾妻鏡 |- |建保7年 |[[1219年]] |1月27日 |[[鶴岡八幡宮]]で公暁に襲われ落命([[享年]]28/満26歳没) |吾妻鏡、[[愚管抄]]、[[承久記]] |} == 祭祀 == * 胴体の墓は、[[寿福寺]]境内に掘られた[[やぐら]]の内に石層塔が設けられている。寿福寺は[[源義朝]]邸宅跡に建てられた寺院であり、実朝の墓の隣には母・政子の墓がある。 * 首は公暁の追っ手の武常晴が[[神奈川県]][[秦野市]]大聖山金剛寺(実朝が再興した寺)の五輪塔に葬ったといわれ、御首塚(みしるしづか)と呼ばれる。 * 金剛寺の阿弥陀堂には政子が実朝が生前礼拝した阿弥陀三尊を贈ったとされる。 * [[高野山]]には政子の発願により、実朝の菩提を弔うために創建された[[金剛三昧院]]がある。 * [[鶴岡八幡宮]]境内の[[白旗神社]]に頼朝と共に祀られ、[[明治]]になり白旗神社境内に改めて柳営社が建てられ祀られた。八幡宮では実朝の誕生日である8月9日に実朝祭が行われている。 <gallery> 画像:源実朝墓所.jpg|寿福寺境内墓所 画像:Sanetomo kubizuka.JPG|秦野市の御首塚 画像:鶴岡八幡宮境内白旗神社.JPG|白旗神社 </gallery> == 和歌 == [[ファイル:実朝5344.jpg|thumb|240px|源実朝歌碑、鴨川畔、京都市左京区下堤町]] *歌集『[[金槐和歌集]]』 *世の中は つねにもがもな なぎさこぐ あまの小舟の 綱手かなしも([[小倉百人一首]]93) == 評価 == ; 『[[吾妻鏡]]』 : [[蹴鞠]]の書が京より送られたのを受け「将軍家諸道を賞玩し給う中、殊に御意に叶うは、歌鞠の両芸なり」。 ; 長沼宗政 : 畠山重慶謀反の際に「当代は歌鞠を以て業と為し、武芸は廃るるに似たり。女性を以て宗と為し、勇士これ無きが如し。また没収の地は、勲功の族に充てられず。多く以て青女等に賜う」。 ; 大江広元 : 昇任を急ぐ実朝を憂慮し、「今は先君の遺跡を継ぐばかりで、当代にさせる勲功は無く、諸国を管領し中納言中将に昇られる」。 ; [[正岡子規]] : 仰の如く近来[[和歌]]は一向に振ひ不申候。正直に申し候へば[[万葉集|万葉]]以来實朝以来一向に振ひ不申候。實朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候。とにかくに第一流の歌人と存候。強ち[[柿本人麻呂|人丸]]・[[山部赤人|赤人]]の余唾を舐るでもなく、固より[[紀貫之|貫之]]・[[藤原定家|定家]]の糟粕をしやぶるでもなく、自己の本領屹然として山岳と高きを争ひ日月と光を競ふ処、実に畏るべく尊むべく、覚えず膝を屈するの思ひ有之候。古来凡庸の人と評し来りしは必ず誤なるべく、[[北条氏]]を憚りて韜晦せし人か、さらずば大器晩成の人なりしかと覚え候。人の上に立つ人にて文学技芸に達したらん者は、人間としては下等の地にをるが通例なれども、實朝は全く例外の人に相違無之候。何故と申すに實朝の歌はただ器用といふのではなく、力量あり見識あり威勢あり、時流に染まず世間に媚びざる処、例の物数奇連中や死に歌よみの公卿たちととても同日には論じがたく、人間として立派な見識のある人間ならでは、實朝の歌の如き力ある歌は詠みいでられまじく候。[[賀茂真淵|真淵]]は力を極めて實朝をほめた人なれども、真淵のほめ方はまだ足らぬやうに存候。真淵は實朝の歌の妙味の半面を知りて、他の半面を知らざりし故に可有之候。 『[[歌よみに与ふる書]]』 == 研究 == 後鳥羽上皇は実朝に好意的であり、その昇進に便宜を図ったといわれている。その一方で、上皇が要求した[[地頭]]解任要求(備後国太田荘)を「故[[源頼朝|右大将]]が決めた地頭は問題がない限り解任する理由はない」と幕府の根幹を揺るがしかねないとして固辞しており、[[西園寺公経]]が右近衛大将を解任された折には上皇の非を指摘してこれを諌めている。また、[[順徳天皇]]の[[蔵人]]に任じられた[[大江時広]]が鎌倉での職務を疎かにして京都に戻ろうとするのを「御家人でありながら鎌倉を軽んじている」とたしなめている(『吾妻鏡』建保6年8月20日条)。上皇が実朝の死を好機と見て[[承久の乱]]に踏み切ったことから見ても、単に『親朝廷の将軍』と判断するのは早計である。父・頼朝は自分の娘を後鳥羽天皇(当時)の妃にしようとするなど幕府を固めるために朝廷の利用を考えていた面があり、上皇との接近はその継承とも解釈できる。 また、[[上横手雅敬]]以来、実朝には自らの後継として皇族将軍(宮将軍)を猶子に迎える構想があったことが指摘され、また急激な官位の昇進をそのための環境づくりの側面があった(形式上でも皇族の父親となる以上、大臣級の官位を必要とした)とする見方がある([[河内祥輔]]説)。だが、鎌倉幕府成立以後、武士階層が次第に政治力と自信をつけてくるにつれて朝廷や貴族による支配を拒絶する態度をより明確にするようになり、その中核をなした[[御家人]]などからは極端な官位昇進などを朝廷重視の姿勢の現れであると見なされ、後の暗殺事件への伏線になったとの説もある。 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == * 史料 ** [[吾妻鏡]] ** [[愚管抄]] * 家集 ** [[金槐和歌集]] * 書跡 ** [[中院切]] ** [[消息]] * 伝記 ** [[吉本隆明]] 『源実朝』日本詩人選12、[[筑摩書房]]、1971年([[ちくま文庫]]、1990年、ISBN 978-4-480-02376-6) ** [[石川逸子]] 『われて砕けて』 文芸書房、2005年、ISBN 9784894771857 * 小説 ** [[太宰治]] 『右大臣実朝』 錦城出版社、1943年(『太宰治全集6』所収、ちくま文庫、1989年、ISBN 9784480022561) ** [[大佛次郎]] 『源実朝』 六興出版、1978年([[徳間書店|徳間文庫]]、1997年、ISBN 9784198907655) ** [[永井路子]] 『北条政子』『[[炎環]]』- 実朝暗殺について、従来の定説であった「北条氏黒幕説」に対し「三浦氏黒幕説」を打ち出し、一部の歴史学者から「有力な説」と評価された。 ** [[佐佐木幸綱]] 『乱世に死す』 吉野教育図書〈[[吉野ろまん新書]]〉、1981年 ** [[佐藤風人]] 『源実朝の生涯』 暁印書館、1988年([[文芸社]]、2006年、ISBN 9784286018065) ** [[津田さち子]] 『源頼朝』 沖積舎、2002年、ISBN 9784806040804 ** [[五車英男]] 『天華舞う』 文芸社、2004年、ISBN 9784835585307 ** [[高橋直樹_(作家)|高橋直樹]] 「源太の産衣」(『霊鬼頼朝』文藝春秋、2004年 所収)、ISBN 9784163233901 * TVドラマ ** 『[[草燃える]]』([[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]、1979年、演:[[篠田三郎]]) * その他 **[[名越朝時]] **[[金沢実泰]] **[[大仏朝直]] **[[美作朝親]] **[[和田朝盛]] == 外部リンク == {{Commonscat|Minamoto no Sanetomo}} {{Wikiquote|源実朝}} * [http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/kamakura/sanetomo/ 実朝さんの二つの供養塔が語るもの] * [http://www.pianoforte.co.jp/hadanosannsaku-4.htm 実朝首塚と金剛寺] * [http://www.ne.jp/asahi/kawaraban/sousyuu/page081.html 金剛寺の由緒] {{鎌倉幕府将軍}} {{河内源氏棟梁|9代}} {{百人一首}} {{DEFAULTSORT:みなもと の さねとも}} [[Category:河内源氏|さねとも]] [[Category:鎌倉幕府の征夷大将軍]] [[Category:鎌倉時代の歌人]] [[Category:日本の能書家]] [[Category:相模国の人物]] [[Category:暗殺された人物]] [[Category:日本の神 (人物神 源氏)|さねとも]] [[Category:1192年生]] [[Category:1219年没]] {{リダイレクトの所属カテゴリ |redirect=鎌倉右大臣 |1=小倉百人一首の歌人 }}
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