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'''渡来人'''(とらいじん)とは、広義には、[[海外]]から[[日本]]に渡って来た人々を意味するが、[[歴史]][[用語]]としては、[[4世紀]]から[[7世紀]]頃に、[[中国大陸]]及び[[朝鮮半島]]から日本に[[移民|移住した人々]]を指すことが多い。[[帰化人]]との違いについては下記節を参照。 渡来は一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの移入の波があったと考えられている。また、その[[期限|ルーツ]]に関しても、[[黄河]]流域 - [[山東半島]]、[[揚子江]]流域、[[満洲]] - 朝鮮半島など様々である。渡来の規模は過去に議論の対象となったが、近年は[[人口動態学|人口動態]]には僅かな影響しか与えていないとする向きが多い<ref>[[弥生時代]]以降の渡来人は[[現代]][[日本人]]の[[遺伝子プール]]にはわずかな影響しか与えていないとした研究結果があり、逆に弥生時代以降の渡来人が[[縄文人]]の[[遺伝子]]プールに大きな影響を与え、後の日本人が形成されたとする説もある。[[考古学]]の観点からは、弥生早期の遺跡に外来系の[[土器]]が[[玄界灘]]に面した大きな遺跡からしか発見されていないことから、移住した範囲は狭く、渡来系[[弥生人]]の人数を極少数と見積もる研究者が多い。[[人類学]]者による研究でも同様に見積もる研究者が多く、根井正利(ペンシルベニア州立大学教授)は「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993京都)にて、日本人は約3万年前より[[北東アジア]]から渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはほんのわずかな影響しか与えていないとする研究結果を提示している。<!--http://www.springerlink.com/content/u25738x1224150n3/fulltext.html 宝来聰は根井の研究に対して、[[ミトコンドリアDNA]]だけでも65%は渡来系由来であると反論している(宝来聰『DNA 人類進化学』 岩波書店 1997年)-->また、松本秀雄も[[血液型]]遺伝子(Gm遺伝子)の研究から、日本人は[[アイヌ]]を含めて[[等質性]]が高く、弥生以降の渡来人との[[混血]]は少ない、という根井の研究結果と似た結論を提示している(『日本人は何処から来たか 血液型遺伝子から解く』 日本放送出版協会 1992年)。逆に、大量の渡来があったとする説もあり、人類学者の中橋孝博は人口[[シミュレーション]]により、[[農耕民族|農耕民]]の弥生人は[[狩猟]]民である縄文人よりも[[人口]]増加率が高く、渡来が少数でも数百年で圧倒的な数になるとしているが(篠田謙一『日本人になった祖先たち』 日本放送出版協会 2007年)、農学者の佐藤洋一郎は稲のDNA分析結果から弥生時代に伝来した稲の量は極めて少量であり、縄文時代から農耕は営まれていたとしている(佐藤洋一郎『DNAが語る稲作文明』)</ref>。 == 概説 == [[揚子江]]流域などから伝わった([[水稲]])作に始まり<ref>水稲には中国大陸から海を渡って直接日本に渡来したものと、山東半島から朝鮮半島南部を経由して日本へ渡来したものがあるとする説が有力視されている。[[国立歴史民族博物館]]の[[研究]][[プロジェクト]]によると弥生時代の開始年代は[[紀元前10世紀]]であり、日本における水稲[[稲作]]の開始時期は朝鮮半島に先行する。</ref>、後には[[漢字]]、[[仏教]]や[[寺院]][[建築]][[技術]]などを日本に持ち込み、[[古代]]日本における[[文化]]・[[政権]]形成に大きな役割を演じたと考えられている<ref>この時代の日本は、『[[倭・倭人関連の中国文献|漢書]]』には[[倭人]]が季節ごとに[[楽浪郡]]に[[使者]]を遣わしてくるとあり(『漢書』地理志 「樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」)、『[[倭・倭人関連の中国文献|後漢書]]』には[[倭国]]王[[帥升]]が107年の[[朝貢|入貢]]の際に160人もの人([[生口]]、[[奴隷]]のこと)を送ったと記録されている(『後漢書』 安帝紀 永初元年(107年)「倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見」)。また[[卑弥呼]]や[[台与]](壹與)の時代にも生口を送っている記録があり、日本側からも人を送っていたことが見受けられる。また、『[[三国史記]]』[[新羅本紀]]は[[新羅]]の4代王「[[脱解尼師今]](だっかい・にしきん、生没年不詳)」は[[倭人]]である(「脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里。」)と伝えている。</ref>。 古くは[[縄文時代]]の終わり、約2500年前頃より[[アジア大陸]]から、[[春秋時代]]やその後の[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]にかけての混乱と[[戦災]]を避けて日本に渡ってきたと考えられている。彼らが最初に[[水稲]]を持ち込み([[陸稲]]は約6000年前から存在。)、いわゆる[[弥生時代]]に繋がっていく。 [[4世紀]]末 - [[6世紀]]、[[古墳時代]]には[[ヤマト王権]]に仕える[[技術者]]や[[亡命]]者として中国大陸や朝鮮半島から人々が渡来した。4世紀後半から[[5世紀]]にかけて、ヤマト王権は属国の[[百済]]と連携しつつ朝鮮半島南部の[[領土]]と[[支配]]権維持のために繰り返し出兵するなど大陸で活動しており、このことは[[高句麗]]が遺した[[広開土王碑]]にも記録されている。[[大王 (ヤマト王権)|大王]]を中心とする[[ヤマト王権]]において重要な位置を占めた者や文化の発展に寄与した<ref>5世紀後半~6世紀に朝鮮半島から移住した技術をもった人々を『[[日本書紀]]』では「古渡才伎(こわたりのてひと)」に対して「今来才伎(いまきのてひと)」と呼んでいる。『日本書紀』「雄略紀」によれば今来才伎は[[百済]]から献上された人々である([[雄略天皇]]七年「集聚百済所貢今来才伎於大嶋中」)。</ref>者がいた。また、日本から朝鮮半島の方向に人・物が動いた事例もあり、後の[[狗邪韓国]]や[[任那]]に該当する地域では[[紀元前4世紀|紀元前4]] - [[紀元前3世紀|3世紀]]になると、それ以前の[[九州]]北部との[[交易]]から更に進んで朝鮮半島南部への移住・[[入植]]とそれに伴う[[弥生土器]]の急激な増加が確認されている、また[[光州]]、[[木浦]]近辺などに分布する[[前方後円墳]]はヤマト王権に関係する[[遺跡]]とされ、現地で製作されたと考えられる[[円筒埴輪]]、[[弁柄|ベンガラ]](酸化鉄)を塗った[[横穴式石室]]が確認されている([http://www.tscc.tohoku-gakuin.ac.jp/~orc/rep/index.htm 韓国調査報告])。[[墓|墳墓]]に[[埋葬]]された人物の身元については諸説ある。 [[ヤマト王権]]に仕えた渡来人としては、[[秦氏]]、[[東漢氏]]、西文氏(かわちのふみうじ) が代表的であり、他に渡来人系の人物として鞍部村主[[司馬達等]](止)(大唐漢人、[[継体天皇|継体朝]]・[[敏達天皇|敏達朝]])、鞍部多須奈([[用明天皇|用明朝]])、[[鞍作止利]]仏師([[推古天皇|推古朝]])、[[高向玄理]]([[高向氏]])、[[南淵請安]](南淵漢人)、[[旻]](日文、新漢人)、[[鑑真]]などがいる。朝鮮半島ではなく中国大陸にルーツを持つ人物が多い。 [[2世紀]] - [[7世紀]]頃において、日本から主に朝鮮半島に移住した[[倭人]](倭族・[[大和民族]])であっても、日本に亡命・帰還した際は渡来人と呼称されている。 また[[飛鳥時代]]には[[百済]]の滅亡により亡命[[貴族]]が日本を頼って渡来した。中でも最後の百済王[[義慈王]]の[[王子]]の[[百済王善光|禅広]]は、[[持統天皇]]より[[百済王氏|百済王(くだらのこにきし)]]の[[氏姓]]を賜り、百済系氏族の代表的な存在となった。 ==「帰化人」と「渡来人」== === 用語変更の理由と背景 === [[日本史]]の[[歴史]]用語としては、「[[帰化人]]」という呼び名がかつて[[学会]]の主流であったが、[[1970年代]]、[[戦前]]の[[皇国史観]]への反省と[[植民地]][[日本統治時代の朝鮮|統治]]の是非をめぐる政治的な論争を背景に、「帰化人」という語には、日本中心的な意味合いを含むなどとされてから不適切な用語であるとされ、[[金達寿]]や[[上田正昭]]らにより「[[渡来人]]」の呼称が提唱され、学界の主流となった<ref>森公章「『帰化人と古代国家を読む』、平野前掲書解説pp.312</ref>。 このような、一部の主体を中心に他を扱っていた歴史用語の変更は、「地理上の発見」を[[大航海時代]]と変更するなど、国際交流が盛んになった20世紀以降にしばしば起こっている。 === 用語に関する議論 === しかしながら、「帰化人」がはたして「不適切」な語であって、「渡来人」ならば「適切」とすることに関しては多くの議論がある。 [[歴史家]][[中野高行]]はこの問題に関して、古代史研究の上では帰化人という用語の使用については価値自由を要求している<ref>森公章「『帰化人と古代国家を読む』、平野前掲書解説pp.313</ref>。さらに朴昔順や田中史生らはやはり厳密に区分されるべきとしている<ref>森公章「『帰化人と古代国家を読む』、平野前掲書解説pp.313</ref>。 [[関晃]]や[[平野邦雄]]らは、「渡来」には単に渡ってやって来たという語義しかなく、[[倭国]]王([[大王 (ヤマト王権)|大王]])に帰属したという意味合いを持たないため、やはり「帰化」を用いた方が適切だとして、現在は「帰化人」も一部で使用される<ref>[[上田正昭]]が[[1965年]]に出版した『帰化人』[[中公新書]]は、「帰化人」という語の意味についての当時の議論を受けて、表題に関して議論が高まったことで[[絶版]]になり、またそれに先立つ関晃の『帰化人』も長らく絶版であったが、関の本は[[2009年]][[講談社]]学術文庫で復刊された。</ref>。 [[作家]]で歴史研究家の[[井沢元彦]]は著書の中で、帰化の本来の意味は「[[文明]]の低い国の人間が高い国を慕って同化する」とした上で、当時の[[公家]]たちがそれをわかっていながらあえて「帰化人」と呼んでいたのだから、それを教えるのが本当の[[歴史教育]]であると述べている<ref>神霊の国日本pp.54</ref>。 === 帰化と渡来の語義 === 帰はもと歸であり、もといた場所に戻る意味のほかに、従い服従すること、とつぎ[[嫁]]に行くなどの意。帰化は他国の[[国籍]]に入りその[[臣民]]となること、臣服すること(魏志鄧艾傳「発使告以利害、呉必歸化可不征而定也」。あるいは[[教化]]に服し従うこと(高僧伝「感徳歸化者、十有七八焉」)。一方で渡という用語は[[水]](江)や[[海]]を渡る意義であり、大陸間での移動は移(うつしかえること)をもっぱら用いた。「移住」。また「定居(定住すること)」。「移民」は人の少ない場所に民をうつし住ませること。「遷」は上下関係の中での移動を特にさす。「遷移」「[[遷都]]」。現代[[中国語]]でも渡来は海などを渡り来ること、舶来の意味であり、[[西域]]人や[[北方人種|北方人]]が[[陸|陸地]]沿いに「渡来」するなどは奇妙な語感となる。域外から来ることは「[[外来]]」。 ==== 古代における「帰化」の語義 ==== 「帰化」という語句の本来の意味は、「[[君主]]の[[徳]]に[[教化]]・感化されて、そのもとに服して従うこと」([[後漢書]]童恢伝)で、歴史学的な定義としては、以下のものがある<ref>平野邦雄『帰化人と古代国家』吉川弘文館、2007年、pp.1-10</ref>。 :1.化外(けがい)の国々から、その国の王の徳治を慕い、自ら王法の圏内に投じ、王化に帰附すること :2.その国の王も、一定の政治的意思にもとづいて、これを受け入れ、衣料供給・国郡安置・編貫戸籍という内民化の手続きを経て、その国の[[礼]]・[[法]]の[[秩序]]に[[帰属]]させる一連の[[行為]]ないし[[現象]]のこと ==== 史書における用法 ==== 平野邦雄によれば、『日本書紀』の用法において、「帰化」「来帰」「投下」「化来」はいずれもオノヅカラモウク、マウクと読み、概念に違いはない<ref>平野邦雄『帰化人と古代国家』吉川弘文館、2007年、p.2</ref>。また古事記では三例とも「参渡来」と記し、マイワタリツ、マウクと訓む<ref>平野前掲書、p.2</ref>。 これに対して、「貢」「献」「上送」「貢献」「遣」はタテマツル、オクルとメス、モトムと読み、一般に朝鮮三国の王が、倭王に対して、救軍援助などの政治的な理由によって、物品や知識人や職人また他国の俘虜などを「贈与」したという意味で使用されている<ref>平野前掲書、p.2</ref>。つまり、「貢」「献」等の語が、当該王の政治的意思または命令強制によって他律的に贈与される意味であるのに対して、「'''帰化'''」は、'''同族集団の意思または勧誘などによって自律的に渡来(来倭)したことを指す語'''である。 なお、古代朝鮮の史書『三国史記』における用法では、「来投」「亡人」が多く、「投亡」「流入」「亡人」「走人」などと記されている<ref>平野前掲書、p.4</ref>。これらは戦乱または飢饉などによって緊急避難的な人々の流出、つまり他律的な移動を指す。 == 朝鮮半島における流入民 == [[朝鮮]]においては、「[[陳勝]]などの蜂起、天下の叛秦、[[燕 (春秋)|燕]]・[[田斉|斉]]・[[趙 (戦国)|趙]]の民が数万口で、朝鮮に逃避した。(魏志東夷伝)」「[[辰韓]]は[[馬韓]]の東において、その耆老の伝世では、古くの亡人が秦を避ける時、馬韓がその東界の地を彼らに割いたと自言していた。(同前)」と記されるように、多様な経路からの移住民が多く、また、[[朝鮮半島]]中・西北部は[[楽浪郡]]、[[真番郡]]、[[臨屯郡]]、[[玄菟郡]]の[[植民地]][[漢四郡]]が置かれ、[[漢]]の植民地だった時期に[[漢族]]が移住して土着化し、北部から中部にかけてを[[高句麗|高句麗人]]が数世紀に渡って支配、流入した時期もある、東北部は[[渤海人]]、[[女真|女真人]]等の[[ツングース]]民族の流入が相次ぐなど、古代より中国をはじめ、東北アジア諸地域等より、多様な経路から移住民が多い([[朝鮮の歴史]]参照)。 [[高麗]]時代前時期における、流入した異民族の数は23万8000人余りに達する<ref name=a/>。定住した[[漢族]]は国際情勢に明るく、[[文芸]]にたけていて[[官僚]]にたくさん進出した。流入した[[渤海人]]は[[契丹]]との戦争に参加して大きい功績を立てた。[[崔茂宣]]に火薬製造技術を伝えた人物の[[李元]]も中国、[[江南]]地方出身流入人である<ref name=a>[http://news.nate.com/view/20070821n11817 初等教科書、高麗の時「23万流入」言及もしない]『[[京郷新聞]]』2007年8月21日</ref>。また流入した[[女真族]]は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。[[李氏朝鮮]]を建国した[[李成桂]]は東北面出身でこの地域の[[女真族]]を自身の支持基盤とした。開国功臣だった[[李之蘭]]はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい<ref name=a/>。 [[京仁教育大学校]]の朴チョルヒ教授は、韓国の社会教科書が過度に民族中心的に叙述され、これら流入者の存在と文化的影響に対し教科書は沈黙し、女真族との友好的な内容は教科書で探せない、と女真族を[[朝鮮民族]]を困らせる報復の対象にだけ描写していると批判している<ref name=a/>。 === 事例 === [[孫氏]]:『[[朝鮮氏族統譜]]』によると約1000年前に中国の宋から戦乱を避け[[高麗]]に流入した[[荀凝]]が、[[高麗]][[顕宗 (高麗王)|顕宗]]時代(1009年-1031年)に、顕宗の諱「詢」と同音になるのを避け「孫」姓を賜り改姓した「[[孫凝]]」を始祖とし、「[[一直孫氏]]([[安東孫氏]])」と呼ばれたという一族がある。孫凝からは高麗朝の将軍である「[[孫幹]]」や一直君に封ぜられた「[[孫元裕]]」が出て繁栄し、後裔の「[[孫処訥]]」は秀吉の朝鮮出兵の時に義兵将となり日本軍との戦いに功があったという。また[[丁卯胡乱]]の際に義兵将となって活躍した「[[孫遴]]」や同知中樞府事となった「[[孫必億]]」、「[[孫正義]]」(ソフトバンク社長)<ref>孫正義の[[Twitter]]での発言より [http://twitter.com/masason/status/8963717810]。約1000年前に中国南朝の[[宋 (南朝)|宋]]から戦乱を避け[[高麗]]へ流入した一族の末裔とのことである。</ref>などがいる。 == 脚注 == <div class="references-small"> <references/> </div> == 関連項目 == * [[ヤマト王権]] * [[日本民族]] * [[日本人]] * [[日鮮同祖論]] {{DEFAULTSORT:とらいしん}} [[Category:渡来人|#]] [[Category:弥生時代]] [[Category:古墳時代]] [[Category:飛鳥時代の外交]] [[Category:日中関係史]] [[Category:日朝関係史]] [[Category:国際交流]]
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