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清沢洌
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'''清沢 洌'''(きよさわ きよし、[[1890年]]([[明治]]23年)[[2月8日]] - [[1945年]]([[昭和]]20年)[[5月21日]])は、[[ジャーナリスト]]、[[評論家]]。[[長野県]]生まれ。外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその[[太平洋戦争]]下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。 なお名前は「冽(にすい)」でなく「洌(さんずい)」。存命中から「れつ」と呼ばれることも多く、本人もしばしばそのような署名を行っていた。また「沢」は旧字で「'''清澤 洌'''」とするものもある。 == 生涯 == === 米国留学 === [[長野県]][[南安曇郡]][[北穂高村]](現[[安曇野市]])の比較的裕福な農家の三男として生まれた。[[井口喜源治]]の主宰する[[研成義塾]]で学んだ後、当時の同地での渡米熱をうけて、[[1907年]](明治40年)、17歳のとき研学[[移民]](学生となるための立場での移民)として[[アメリカ合衆国]][[ワシントン州]]に渡航した。[[シアトル]]、[[タコマ (ワシントン州)|タコマ]]で病院の清掃夫、デパートの雑役などを務めるかたわらタコマ・ハイスクール、[[ワシントン大学 (UW)|ワシントン大学]]などで学んだ(ただしその履歴を示す文書は残されていず、朝日新聞社への就職の際は「米国の大学」をおえたとしている)。 [[1911年]](明治44年)頃からは現地の邦字紙の[[記者]]となり、数年にして現地日本人社会で著名な存在となった。当時は[[アメリカ西海岸]]において[[日本人移民排斥運動]]が高潮に達していた。日本人に対する蔑視と敵意を、日本国内の為政者として、あるいは恵まれた立場の在米[[外交官]]としてでなく、日本政府からの庇護の薄い移民という立場で味わったにも拘わらず、清沢は晩年に至るまで一貫して日米友好を訴え続けた希有の[[自由主義]]平和思想家であった。 === 新聞記者時代 === [[1918年]]([[大正]]7年)帰国した清沢は、貿易関連の仕事を転々としたのち、[[1920年]](大正9年)には[[中外商業新報]](現在の[[日本経済新聞]])に入社した。ここでもはじめは米国関連、日米問題関連のエキスパートとしての執筆活動を行ったが、[[大正デモクラシー]]、[[政党政治]]の伸長、[[関東大震災]]後の混乱(なお清沢は妻子をこの震災で喪った)、日本の[[満州]]進出などを受けて、国内問題や対中関係も彼の執筆対象となっていった。 [[1927年]](昭和2年)には[[東京朝日新聞]]に移籍し、またこの頃から新聞以外での著作活動も精力的に始まった。清沢の基本的な立場は、対米関係においては協調路線、国内では反[[官僚主義]]・反権威主義、対中関係では「満州経営」への拘泥を戒めるものであって、[[石橋湛山]]のいわゆる「小日本主義」と多くの共通点をもっていた。だが清沢のリベラルな論調は[[右翼]]勢力からの激しい攻撃にさらされた。特にその著作『自由日本を漁る』所収の「甘粕と大杉の対話」([[大杉栄]]殺害犯として獄中にある[[甘粕正彦]]憲兵大尉を大杉の亡霊が訪ね、甘粕の迷妄を論破する、というストーリー)は国体を冒涜するものとして批判され、[[1929年]](昭和4年)には清沢は東朝退社に追い込まれ、以後は生涯[[フリーランス]]の評論家として活動することになる。 === フリーの言論人として === フリーとなった清沢は1929年から[[1932年]](昭和7年)までの3年間のほとんどを欧米での取材・執筆活動にあてることとなる。1929年にはアメリカの「[[暗黒の木曜日]]」とそれに続く[[大恐慌]]を現地で体験することになったし、また[[1930年]](昭和5年)の[[ロンドン海軍軍縮会議]]は、雑誌「[[中央公論]]」の特派員という肩書で取材した。会議では、補助艦の対米比率7割死守を図る日本海軍側代表団と清沢は互いに批判的な関係にあり、清沢は「六割居士」という綽名を頂戴する始末であった。その他、この欧米滞在中には[[チェコスロバキア]][[外務大臣]][[エドヴァルド・ベネシュ|ベネシュ]]、[[イタリア]][[首相]][[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]、[[実業家]][[ヘンリー・フォード]]などと会見、それら会見記は公刊されている。また[[1931年]](昭和6年)の[[満州事変]]勃発、1932年の[[第一次上海事変]]は滞米中に遭遇しており、日本の大陸進出に対するアメリカの厳しい[[世論]]を目の当たりにすることにもなった。 1932年、帰国した清沢は日本の内政・外交に対する鋭い評論を行うこととなる。[[満州国]]単独承認問題、[[国際連盟]]における満州問題の討議、引き続く[[リットン調査団]]派遣を巡って国内世論は沸騰していたが、「国を焦土と化しても」日本の主張を貫徹する、と答弁した[[外務大臣 (日本)|外相]][[内田康哉]]、スタンドプレーに終始し意味のある成果を引き出せなかった国際連盟首席全権[[松岡洋右]]をそれぞれ批判した「内田外相に問ふ」「松岡全権に与ふ」は、この時期の代表的評論である。また、数多くの国内講演、著作、雑誌論文などを通じて、清沢は商業主義・迎合主義に流されやすい日本の[[ジャーナリズム]]に対する批判と、自己の漸進主義とでもいうべき[[自由主義]]の立場を明らかにしていった。 [[1937年]](昭和12年) - [[1938年]](昭和13年)には、堪能な語学力を買われて[[ロンドン]]開催の国際ペン・クラブ世界会議の日本代表という立場で再び欧米を訪問し、各所で精力的な講演活動を行う。[[日中戦争]]の勃発・激化を受けて欧米の対日感情は極度に悪化していたが、愛国者を自負する清沢はむしろ積極的に講演で、あるいは現地新聞への投書などを通じて日本の立場の擁護・正当化を行っていった。皮肉なことに、彼自身が国内で反対の論陣を張っていた硬直的・非協調的外交政策のスポークスマンの役を担わされたわけである。また駐英大使を務めていた[[吉田茂]]とは、このロンドンでの新聞投書による世論工作の過程で親しくなっていったという。 帰国後の清沢は、再び本来の対米協調を主軸とした外交への転換を訴える立場を取り、「新体制」「東亜新秩序」などの言葉に代表される抽象的かつ空疎な政策を諫め、アメリカを威嚇することで有利な結果を得ようとする外交政策の愚を説き、ドイツとの連携に深入りすることなく欧州情勢の混沌から距離をおくことを主張したが、事態は[[1940年]](昭和15年)の[[日独伊三国軍事同盟]]、[[1941年]](昭和16年)の[[日ソ中立条約]]、[[仏印進駐#南部仏印進駐|南部仏印進駐]]とそれらに対する米国の一連の対抗措置は、ことごとく自らが提言した潮流と相反する方向へ進んだ。 === 戦時下の言論 === 1941年[[2月26日]]、[[情報局]]は各総合雑誌に対し執筆禁止者のリストを交付し、清沢の名前もそこに含まれていた(他には[[矢内原忠雄]]、[[馬場恒吾]]、[[田中耕太郎]]、[[横田喜三郎]]、[[水野廣徳|水野広徳]]、等)。これ以降の清沢は時事問題に対する直接的な意見の表明は不可能となり、外交史に関する著作という形で間接的に当時の政策を評論することとなった。幕末開国時から日ソ中立条約までを俯瞰する『外交史』およびその増補改訂版として[[太平洋戦争]]開戦までを記す『日本外交史』は著名であるし、[[大久保利通]]がいかにして征韓論を打破し、[[台湾出兵]]およびその後の[[北京市|北京]]における対清交渉を果断にまとめていったかを賞揚する『外政家としての大久保利通』は、[[昭和]]戦前期日本外交に対する痛烈な批判となっている。大久保の外戚である吉田茂(妻が[[牧野伸顕]]の娘で、利通の孫にあたる)がこの本を贈呈されて一読、感銘を受けた旨を記した清沢宛の書簡が現存している。その他、石橋湛山が主幹を務める「[[週刊東洋経済|東洋経済新報]]」誌上では匿名執筆の形で時事問題をしばしば論じる一方で、ダンバートン=オークス会議にて討議された[[国際連合]]憲章原案をいち早く入手、分析批判し、清沢の対案を同誌上で提示している(石橋の勧めもあったという)点などは、その先見性を示すものといえる。 === 『暗黒日記』 === 開戦後1年経過した1942年(昭和17年)より、清沢は「戦争日記」と題した、新聞記事の切抜きなども含む詳細な日記を記し始めた。いずれ時期が来れば、日本現代史([[昭和]]史)の著述にあたり、その備忘録とするつもりであったとされる。[[官僚主義]]の弊害、迎合的[[ジャーナリズム]]の醜態、国民の対外事情に対する無知、社会的モラルの急速な低下などを記録する(広い意味でファシズムへの抵抗を示した)。この日記は1954年に『暗黒日記』の題名で、[[東洋経済新報社]]で出版され、数社で新版刊行された。 清沢は、終戦を目前に1945年(昭和20年)5月21日、急性肺炎により東京築地の[[聖路加病院]]にて急逝した。吉田茂、石橋湛山という後に首相となった2人を知己にもち、戦後存命であれば政界・言論界で重きをなしたであろう知米派知識人の、55年の短い生涯であった。 ==著書== *『米国の研究』 *『黒潮に聴く』 *『自由日本を漁る』 *『転換期の日本』 *『アメリカを裸体にす』 *『革命期のアメリカ経済』 *『不安世界の大通り』 *『非常日本への直言』 *『激動期に生く』 *『時代・生活・思想』 *『第二次欧州大戦の研究』 *『現代日本論』 *『外交史』 *『日本外交史』上下巻 *『外政家としての大久保利通』 ===新版の著書=== *山本義彦(編・解説)『清沢洌選集』 (全8巻別冊1)、日本図書センター(復刻:1998年、ISBN 4-8205-8250-X) *山本義彦(編)『清沢洌評論集』 [[岩波文庫]](2002年、ISBN 4-00-331782-3) *山本義彦(編)『暗黒日記 1942-1945』 岩波文庫(初版1990年、ISBN 4-00-331781-5) *[[村松剛]](解説)『外政家としての大久保利通』 [[中公文庫]](1993年、ISBN 4-12-201985-0) *[[橋川文三]](編・解説)『暗黒日記 [[終戦日記|戦争日記]] 1942年12月~1945年5月』 評論社(復刊1995年、ISBN 4-480-08711-7) *橋川文三(編)『暗黒日記』 [[ちくま学芸文庫]](1~3) <br> (2002年、ISBN 4-480-08711-7、ISBN 4-480-08712-5、ISBN 4-480-08713-3) ==参考文献== *[[北岡伸一]]『清沢洌 ――外交評論の運命』 中公新書(1987年、増補版2004年、ISBN 4-12-190828-7) *[[山本義彦]]『清沢洌の政治経済思想――近代日本の自由主義と国際平和』 御茶の水書房(1996年、ISBN 4-275-01616-5) *山本義彦『清沢洌――その多元主義と平和思想の形成』 学術刊行会(2006年、日本図書センター刊 ISBN 978-4-8205-2153-2) ==関連事項== *[[日米関係]]、[[外交評論]]、[[国際問題評論]] *[[ファシズム批判]] ==外部リンク== *[http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person910.html 清沢 洌:作家別作品リスト]([[青空文庫]]) *[[国立国会図書館]] [[近代デジタルライブラリー]] [http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?SID=kindai&searchWord=%E6%B8%85%E6%B2%A2%E6%B4%8C 簡易検索: キーワード=清沢洌] {{DEFAULTSORT:きよさわ きよし}} [[Category:日本のジャーナリスト]] [[Category:日本の評論家]] [[Category:1890年生]] [[Category:1945年没]] [[Category:長野県出身の人物]] [[Category:戦前の朝日新聞社の人物]] [[Category:中外商業新報の人物]]
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