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'''清武城'''(きよたけじょう)は[[宮崎県]][[宮崎市]][[清武町]]にあった[[日本の城]]([[山城]])。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に「清瀧城」と呼ばれていた城を、[[1379年]]に[[伊東祐行|伊東(清武)祐行]]が増改築して「清武城」となった。 == 概要 == [[1485年]]([[文明 (日本)|文明]]17年)には[[飫肥城]]攻めの後詰として[[伊東祐堯]]が入城(のち同城で死去)。伊東氏四十八城のひとつとなり城主は長倉伴九郎、上別府宮内少輔などが務めた。[[1577年]]([[天正]]5年)の[[伊東氏]]没落後は、[[島津氏]]武将・[[伊集院久宣]]が入城した。[[1587年]](天正15年)、[[豊臣秀吉]]の九州征伐後、[[伊東祐兵]]が飫肥・曾井・清武を宛がわれ[[稲津重政|稲津掃部助]]が城主となる。[[関ヶ原の戦い]]の際、稲津掃部助は宮崎城攻めの大将として[[宮崎城]]を攻略したが、やがて罪状を得て藩主[[伊東祐慶]]に誅殺された。 その後、河崎駿河守が城主となったが、[[1615年]]([[元和 (日本)|元和]]元年)、[[一国一城令]]によって[[廃城]]。なお、清武には[[寛永]]14年3月15日に改めて、清武[[地頭]]が置かれて駿河守の次男河崎大學助祐信が就任する。 [[本丸]]・[[二の丸]]・台丸などで主郭を構成し、周辺の丘陵上に郭、城館、寺院を置くなど都於郡城に似た構造となっているのは築城者が伊東一族である故なのか。詳しくは分からない。 城山は[[宮崎自動車道]]によって南が一部分断されている。城址一帯は畑や[[宅地]]となっていて、遺構は見つけられない。城跡への上り口は城山北西にある。 == 関連項目 == *[[日本の城一覧]] {{DEFAULTSORT:きよたけしよう}} [[Category:宮崎県の城]] [[Category:宮崎市の建築物]] [[Category:宮崎市の歴史]] [[Category:伊東氏|城]] [[Category:飫肥藩]]
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