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浜田省吾
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{{混同|濱田金吾}} {{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照--> | Name = 浜田省吾 | Background = singer | Birth_name = | Alias = | Blood = [[O型]] | School_background = [[広島県立呉三津田高等学校]]卒業<br/>[[神奈川大学]][[法学部]]中退 | Born = {{生年月日と年齢|1952|12|29}} | Died = | Origin = {{JPN}},[[広島県]][[竹原市]] | Instrument = [[ボーカル]]<br/>[[ギター]]<br/>[[ハーモニカ]]<br/>[[ドラムセット|ドラム]] | Genre = [[フォーク (音楽)|フォーク]]<br/>[[ロック (音楽)|ロック]]<br/>[[ポップス]] | Occupation = [[シンガーソングライター]] | Years_active = [[1974年]]<small> ([[吉田拓郎]]のバックミュージシャン)</small><br/>[[1975年]]<small> ([[愛奴]])</small><br/>[[1976年]]〜 <small> (ソロ)</small> | Label = [[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBS SONY]]<small>(1975年〜1991年)</small><br/>[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]<small>(1991年〜1994年)</small><br/>クリアウォーター<small>(Sony Records)</small><small>(1995年〜2002年)</small><br/>クリアウォーター<small>([[エスエムイーレコーズ|SME Records]])</small><small>(2003年〜)</small> | Production = [[ロード&スカイ]] | Associated_acts = | Influences = [[ビートルズ]]<br/>[[ビーチ・ボーイズ]]<br/>[[ボブ・ディラン]]<br/>[[ジャクソン・ブラウン]]<br/>[[はっぴいえんど]]<br/>[[吉田拓郎]] | URL = [http://shogo.r-s.co.jp/ SHOGO HAMADA OFFICIAL WEB SITE] | Current_members = | Past_members = | Notable_instruments = }} '''浜田 省吾'''(はまだ しょうご、[[1952年]][[12月29日]] - )は、[[広島県]][[竹原市]]生まれの[[日本]]の[[シンガーソングライター]]、[[ミュージシャン|ロックミュージシャン]]<ref name="公式20110917"> [http://sh-otr2011.jp/blog/all?page=2&period=201109 公式ツアー・サイト 2011/09/17 広島グリーンアリーナ]</ref>。[[ABO式血液型|O型]]。[[広島県立呉三津田高等学校|広島県立呉三津田高校]](野球部所属)卒業、[[神奈川大学]][[法学部]]中退。身長170cm。 [[1975年]]、[[愛奴]]のメンバー([[ドラムセット|ドラムス]])としてプロ・デビュー。デビュー時から[[サングラス]]がトレードマーク。[[1976年]]にソロ・デビュー。[[メディア (媒体)|メディア]]露出が極端に少ないものの、地道なライブ活動によって確実にファンを獲得。デビュー後数年間は、事務所からの方針により自らが目指す方向性を屈折させられ逡巡していた。そのため、初期の頃は自分の生き方そのものへの懐疑を投げかけた楽曲が多く存在する。一般的に認知されている[[バラード]]楽曲の他にも父親の[[被爆]]体験から、日本や戦争を歌った楽曲も数多く存在し、いわゆるビッグネームの中では最も[[プロテストソング|プロテスト]]色の強いアーティストである。また、「ロック=[[英語]]」という既成概念に疑問をもち、[[日本語]]による歌詞や歌唱にこだわった。このことは以降のミュージシャンにも大きな影響を与えた。 [[山口百恵]]、[[和田アキ子]]、[[能瀬慶子]]、[[甲斐よしひろ]]、[[松田優作]]、[[時任三郎]]、[[吉田栄作]]、[[榊原郁恵]]、[[真田広之]]、[[烏丸せつこ]]ら、[[ホリプロ]]所属時代に多くの楽曲を提供している<ref>[http://homepage3.nifty.com/poptrip/idol/index.html 浜田省吾 collaboration]</ref><ref name="thebeatlemania"> [http://www.thebeatlemania.com/hamada-fc.html The Beatlemania.com 浜田省吾のソロ・デビュー20周年のFAN CLUBの会報でのインタビュー]</ref><ref>[http://www.geocities.jp/kayochronicle/kayo-momoepart2-djpart3.html 3 「PORTBELLOの銀時計」 4 「最後の頁」 - www.geocities.jp]</ref>。 マスコミ等で「浜省・ハマショー」という愛称が使われる事があるが、これに関して本人は快く思っていないと言っている。 == 来歴 == <!--プロデビューまでの経歴は2005年6月〜7月、広島FM放送のプログラム「SHOGO ON THE RADIO〜MY FIRST LOVE」での本人発言を抜粋しています。活字 広島音楽本3、アスコン、2005年9月、156-170頁 「陽のあたる場所 浜田省吾ストーリー」 [[田家秀樹]]著 [[角川文庫]](1988年)、 「青空のゆくえ - 浜田省吾の軌跡」[[渋谷陽一]]著 [[ロッキング・オン]](1999年)は、これ以上に詳しい --> === 幼少期 === [[1952年]]に[[広島県]][[竹原市]]に生まれる<ref name="公式20110917"/>。生家は現在も残っており、かつて[[ファンクラブ]]誌上で訪問したことがある。 父は戦前、[[特別高等警察|特高警察官]] <ref>[[#事典]]360頁</ref>、その後は地方警察署に勤務。[[大崎上島町|木江]]署勤務時代の[[1945年]][[8月6日]]、[[広島市への原子爆弾投下|広島市への原爆投下]]直後に救援隊として広島市に入り二次被爆した<ref>[http://www.chugoku-np.co.jp/hwpm/message/Hs04083001.html 父の原爆投下朝の手記]</ref>。定年後は女子寮の寮長をしていたこともある<ref name="公式20110917"/>。 父の転勤のため、3歳から[[尾道市|御調郡向島町]][[岩子島]]、[[廿日市市|佐伯郡廿日市町]]宮内、[[五日市町 (広島県)|五日市町]](現[[広島市]][[佐伯区]])<!-- -事典365頁に「グリコの工場」と書いてあるが、たぶん明治製菓の工場。八幡川沿いの山陽本線北側にかつてあった</ref> -->、広島市[[宇品|元宇品]](現[[南区 (広島市)|南区]][[宇品|元宇品]])と広島県内で転校を繰り返す<ref name="公式20110917"/>。18歳までに20回近く引っ越しをした。こうした経験が自身の人間形成に大きな影響を与えたと述懐している。 9歳のとき[[江田島市|江田島]]の海沿いの町、鷲部に転居<ref name="公式20110917"/>。この頃、[[ラジオ]]から流れる[[ビートルズ]]の日本デビュー曲「[[プリーズ・プリーズ・ミー (曲)|プリーズ・プリーズ・ミー]]」を聴く。小学校4年の頃、『[[週刊平凡]]』かなにかに載ったビートルズの小さな写真を初めて見て「どの人がビートルズ」かと姉に聞いた<ref>[[#ロックは]]11頁</ref>。まだ子どもだったので複数形"S"の意味を知らなかった。当時の[[洋楽]]は[[歌手|ソロシンガー]]の軽快な[[ポピュラー音楽|ポップミュージック]]が主流だったので大きなショックを受ける。姉の誕生日プレゼントだった[[ギター]]を取り上げ、ギター演奏を始める。学校でもホウキをギター代わりに演奏の真似をしたりしていた。雑誌などにビートルズの名前が載っていると、切り抜いてノートに張り付けたりしていた。 [[1965年]]、13歳の時、[[呉市]]汐見町に転居、呉市立二河中学に転校<ref name="公式20110917"/>。以降は高校卒業まで呉市で育った<ref name="公式20110917"/>。[[AFN|FEN]][[岩国飛行場|岩国]]を知り、毎日ラジオに噛り付き洋楽を聴いた<ref>[[#ロックは]]18-19頁</ref>。ビートルズの他には、[[モータウン|モータウン・サウンド]]、[[ビーチ・ボーイズ]]、[[ラスカルズ|ヤング・ラスカルズ]]などを好んで聴いた。少年期の音楽体験については、[[渋谷陽一]]との対談集「ロックは語れない」などに詳しい<ref>[[#ロックは]]9-39頁</ref>。また、子供の頃はロックやポップスと並んで[[漫画]]が大好きな少年で、ずっと読んでばかりで親に怒られたという。[[ケント紙]]を買ってきて、枠線を引いて自分で漫画を描いて、クラスで回し読みしていた。今はほとんど漫画は読まないらしいが、『[[あしたのジョー]]』だけは未だに全巻揃えてあるという。 === 高校時代と大学中退まで === [[1968年]]、県内有数の進学校、[[広島県立呉三津田高等学校]]に入学。父の期待に応えたいという一心で受験勉強に励んだ。しかし、授業の合間の休憩時間にも全員が予習・復習をしているという環境に馴染めず、不良の溜まり場だった野球部に入部。また、「グルックス」というバンドを組んでいた後の盟友・[[町支寛二]]と知り合い「[[広島フォーク村]]」にも参加。野球部はきつい練習や先輩部員との対立から3年の時に退部。野球部を辞めた後は[[フォークソング]]・クラブ、新聞部に所属する他、生徒会役員となり呉の弾薬庫の弾薬運搬反対デモなど、[[学生運動]]にも積極的に参加した。こうした学生運動などの経験が、現在の曲作りの基礎になっているとよく言われるが、本人はそのことを否定している。そうした動きを「[[共産主義|アカ]]」と批判する父親とも激しくぶつかった。浜田いわく父親は非常に[[保守思想]]の強い人物で、当初はミュージシャン活動にも批判的だった。 高校時代には既にビートルズは解散しており、愛聴していたビーチ・ボーイズやラスカルズもあまり活動しておらず、本人はこの時期を「ロックの暗黒時代」と振り返っている。浜田は3分間から4分間のシンプルなポップスやロックが好きで、[[アート・ロック]]や[[プログレッシブ・ロック]]と呼ばれるような音楽を嫌っていた。そんな中でも、当時は[[レッド・ツェッペリン]]や[[クリーム (バンド)|クリーム]]、[[ジミ・ヘンドリクス]]などを聴いていた。特に、知人にレッド・ツェッペリンを紹介されて初めて聴いたときは、ビートルズと同じくらいの衝撃だったという。 [[1971年]]、大学受験に失敗後、[[大竹市]]に転居<ref name="公式20110917"/>。広島市内の[[予備校]]、[[並木学院高等学校|英数学館]]<ref group ="注">当時は予備校だったが、現在は同じ場所で[[通信制]]の高校になっている。</ref>に通う<ref name="公式20110917"/>。この年[[ベトナム戦争]]を進める[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に加担しながら、[[広島平和記念式典]]に出席した[[佐藤栄作]][[首相]]の行動が矛盾するとして起こった、激しい反対運動にも参加した。これは「[[パック・イン・ミュージック]]」の[[パーソナリティ]]・[[北山修]]が広島へ反戦列車を走らせた事でも知られる。この頃は[[アメリカン・ニューシネマ]]をよく観て[[J・D・サリンジャー]]にも傾倒、アメリカ文化に強く憧れた。また、初の海外アーティストのコンサート体験として、レッド・ツェッペリンの広島公演を観に行っており、「聴いたことがないくらいデカい音」だったという。 [[1972年]]、1浪して[[神奈川大学]][[法学部]]に入学する。華やかなキャンパス・ライフを夢見て上京するものの、まだ学生運動が盛んな時代で<ref group ="注">特に神奈川大学は激しかった。</ref>、大学は[[ロックアウト]]されたり、[[ストライキ]]で休校されることが多く、こんな大変な時に親からお金を送ってもらう意味が無いと次第に感じ始める。同じように上京して大学生活を送っていた町支寛二らと再会し、一緒にバンド活動を始める。 20歳のある日の夏、大学の正門前にあった下宿で、[[ザ・ビーチ・ボーイズ]]の「サーファー・ガール」に影響を受け、「[[二人の夏 (愛奴の曲)|二人の夏]]」を作ってみた。町支達に聴かせると、ブリティッシュ・ロックしか聴いたことのない彼らは、初めて聴く[[ウェストコースト・ロック|ウェストコースト]]風のサウンドに「これは良いよ」と絶賛された。「あの時、けなされていたら曲作りは止めていたかも知れない」と話している<ref>[[#青空]]190-192頁</ref>。 [[1973年]]、音楽活動にのめり込み大学中退<ref name="公式20110917"/>。両親には「1年間だけ休学させてほしい」と伝えたが、気持ちとしては辞めたも同然だった。下宿を引き払う日、下宿前にあった大学構内で神奈川大学の[[セクト]]と他校から来たセクトとの激しい[[内ゲバ]]が発生。[[火炎瓶]]が飛び交い、傷ついた学生達がキャンパス内に転がり、多くの死傷者を出した暴動を朝まで見ていた。このことで「もうすべてが終わった」とはっきり実感する。 広島に戻り、「広島フォーク村」の音楽仲間と共にロックバンド「'''[[愛奴]]'''」を結成<ref name="公式20110917"/><ref>[http://e-days.cc/musicbar/musicman/takahashi_n.html ラガー音楽酒場 / 高橋信彦(マネージメント・オフィス (株)ロードアンドスカイ代表取締役]</ref>。愛奴では[[ドラムセット|ドラム]]を担当。当初は[[キーボード (楽器)|キーボード]]担当だったが、ドラムの山崎貴生から「ドラムと代わってくれない?」と電話されて、その場で簡単に交代した。ギター担当の青山徹の実家の屋根裏部屋を借りて、[[ウェイター]]の[[アルバイト]]をしながらバンド練習の日々を過ごす<ref name="公式20110917"/>。また、[[天満屋八丁堀ビル|天満屋デパート]]の屋上や地元のテレビ番組で演奏したりした<ref>[[#陽のあたる]]120―121頁</ref>。後に[[柳ジョージ&レイニーウッド]]に参加する[[上綱克彦]]、[[石井清登]]らはこの時代の音楽仲間<ref>[[#事典]]82頁</ref>。 === プロデビューと不遇の時代 === [[1974年]]、再び上京し、[[吉田拓郎]]の春と秋の全国ツアーのバック・バンドに愛奴として参加。ドラム経験は1年程しかなかったが、必死で練習してツアーに間に合わせた。拓郎のバックバンドとして何度か「[[ミュージック・フェア]]」などテレビにも出演した。ただし、演奏技術の問題からツアーでの「[[落陽 (吉田拓郎の曲)|落陽]]」は演奏メニューから外され、拓郎は生ギターの弾き語りコーナーで「落陽」を歌った。ツアー中休みの7月に発売されたよしだたくろう・[[かまやつひろし]]のシングル「[[シンシア (よしだたくろう・かまやつひろしの曲)|シンシア]]」のB面「竜飛崎」は愛奴の演奏である。しかし、8月にレコーディングされた拓郎のアルバム「[[今はまだ人生を語らず]]」(12月発売)は、全て[[スタジオ・ミュージシャン]]によるレコーディングとなった。 [[1975年]][[5月1日]]に愛奴としてアルバム『[[愛奴 (アルバム)|愛奴]]』とシングル「[[二人の夏 (愛奴の曲)|二人の夏]]」でレコード・デビュー。当時、[[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニー]]では同社始まって以来の大プロモーションを行い、[[浅田美代子]]の「赤い風船」(売上80万枚)を上回る100万枚以上のセールスを見込んでいたというが、実際には全く売れず惨敗という結果であった。また「二人の夏」はウェストコースト風のサウンドだったのだが、メンバーそれぞれの音楽志向がバラバラで愛奴にはスタイルが無く、バンド内での自分の存在や、[[シンガーソングライター]]への憧れもあり、同年9月に愛奴を脱退。愛奴の全シングルA面は浜田が手掛けており、当時からソングライティングの意欲や素質を備えていた。愛奴脱退後は音楽活動を続けながら[[ウェイター]]などのアルバイトもしていた<ref name="thebeatlemania"/><ref>[[#事典]]28頁</ref><ref>[[#青空]]71頁</ref>。ぼんやりと就職雑誌を眺めることもあったという。 [[1976年]][[4月21日]]にアルバム『[[生まれたところを遠く離れて]]』とシングル「[[路地裏の少年]]」でソロデビュー。ソロ初ライブは同年[[4月5日]]、「[[屋根裏 (ライブハウス)|渋谷屋根裏]]」<ref name="事典148">[[#事典]]148頁</ref>。ロック志向の自身にとっては不本意ながら、予算の都合上、生ギター1本のスタイルで全国ライブ巡業を開始。直後に[[矢沢永吉]]のフィルムコンサートの[[前座]]を務めた<ref name="事典148"/>。また、[[アイドル|アイドル歌手]]時代の[[竹内まりや]]とジョイント・コンサートも行っている<ref>[[#青空]]171-174頁</ref>。また地方のバンドと合体してステージをこなしたり<ref>[[#事典]]151頁</ref>歌わせてもらえる所ならどこでも、[[CDショップ|レコード店]]の店頭はもちろん、[[スーパーマーケット]]の催し、果ては[[演歌]]の流しのようにバーのカウンターの中でも歌った。この頃の全国巡業での観客は数十人から数百人程度で、描いた夢には程遠かった。ソロ活動を行う浜田に前バンド仲間の[[町支寛二]]が合流、同年12月に愛奴は解散している。 [[1970年代]]はレコード会社の意向もあって、「ポップなメロディーメイカー」としての曲作りを迫られる。当時の制作サイドは[[AOR]]に代表されるような都会的でポップなソングライターとして開花させようとしていた。本人は変わらずロック志向だったものの、周りに言われるがまま作家的な曲作りを続ける。しかし、セールスには恵まれず、苦悩と挫折の中で精神的にも落ち込んでいき、「曲は書けるが詞が全く書けない[[失語症]]のような状態」に陥る。[[1979年]][[5月21日]]、職業[[作詞家]]が半数以上[[作詞]]を手掛けたアルバム『[[MIND SCREEN]]』発表。本アルバムからディレクターが蔭山敬吾から[[須藤晃]]に変わる<ref>[[#陽のあたる]]214頁</ref>。[[1978年]]から始まった「[[ザ・ベストテン]]」などで、後輩の[[原田真二]]や[[世良公則&ツイスト]]らがブレイクする中、「あー、俺の時代はやっぱ来ないまま終わるのかなあ」と感じる<ref>[[#青空]]79、80頁</ref>。 こうした経緯から、1970年代の初期の作品に対して、あまり良い印象がないことを隠そうとしない。「5枚目までのアルバムは全部廃盤にして欲しい」と語ったこともある。特にサウンド面で納得がいっていないらしく、[[1980年代]]以降にほとんどの楽曲を[[リメイク]]している。 ちなみに、[[1978年]]、25歳のときに[[結婚]]している。自身のレコード売上による[[印税]]収入は微々たるものだったため、他の歌手への楽曲提供による収入をもとに、[[婚約指輪]]や[[結婚式]]、[[新婚旅行]]の資金に充てたという。浜田にとって初めての海外旅行で[[ハワイ]]に行っている。 [[1979年]][[7月1日]]、[[日清食品|日清]][[カップヌードル]]の[[コマーシャルソング|CMソング]]として書いたシングル「[[風を感じて]]」が初のスマッシュ・ヒット([[オリコンチャート|オリコン]]最高25位、売上10万枚)。今でこそカップヌードルのCMというメジャーな感じがあるが、当時は「エー!?」みたいな印象だったという<ref>[[#陽のあたる]]223頁</ref>。このヒットを機会に、自身のやりたい音楽を表現することを決意する。なお、この関係で『[[夜のヒットスタジオ]]』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])や、日清食品がスポンサーだった『[[ヤングおー!おー!]]』([[毎日放送]])の公開放送に出演している。この時の事を後のインタビューで述べているが、「朝から音リハ・カメリハを2時間待ってはもう一回と何度も繰り返し、ワンハーフ(1番とサビ一つの2分くらい)を歌うための拘束時間は10時間ぐらいだった」という。結局『ヤングおー!おー!』に3回、『夜のヒットスタジオ』に2回、計5回の[[地上波]]のテレビ出演がある<ref>[[#青空]]232-234頁</ref>。 === 音楽性の転換と成功への道 === [[1980年]][[10月21日]]、6thアルバム『[[Home Bound]]』リリース。それまでの職業作家的な曲作りから、本格的ロックに音楽性が変化する重要作。初の海外レコーディング作品で、[[ニッキー・ホプキンス]]や[[TOTO (バンド)|TOTO]]の[[スティーヴ・ルカサー]]など[[アメリカ合衆国|アメリカ]]を代表する一流ミュージシャンが参加した。セールス的にはそれほどでもなかったが、自身の方向性を見つけ出す。 また、[[1980年]][[1月8日]]から[[9月30日]]まで、[[文化放送]]の深夜番組『[[セイ!ヤング]]』で月曜日担当の[[DJ]]を務める。同年10月にはツアー先の沖縄で、母が脳閉塞で倒れ危篤状態との知らせを受ける。なんとか一命は取り留めたものの半身不随を患い、このときの気持ちを「[[悲しみは雪のように]]」という楽曲に込めている。 [[1982年]][[1月12日]]、[[日本武道館]]での初コンサートを開催。当時の浜田の動員力では無謀とまで言われたが、結果は即完売で大成功に終わる。この頃はまだ「[[風を感じて]]」の一発屋のようなイメージが強かったが、武道館の成功によって大きな注目を浴びる。同年[[2月25日]]、そのときの模様を収録した[[ライブ・アルバム]]『[[ON THE ROAD (アルバム)|ON THE ROAD]]』を発売し、初のトップ10入りを記録。これ以降はコンサートツアーのタイトルを「'''ON THE ROAD'''」とする。 一方で、所属事務所であった[[ホリプロダクション]]との間で音楽性やコンサート・ビジネスに対する考え方の違いが表面化し、浜田自ら[[堀威夫]]社長にかけあい<ref>[[#批評]]70頁</ref>、[[1983年]][[4月1日]]に独立。音楽事務所「[[ロード&スカイ]]」を設立する。事務所名は浜田が敬愛する[[ジャクソン・ブラウン]]の曲名「Road and the Sky」から付けられている。長らく浜田の個人事務所であったが、[[1990年代]]以降は[[尾崎豊]](所属は約1年程で個人事務所[[アイソトープ]]を設立し独立)、[[三浦知良]]、[[スピッツ (バンド)|スピッツ]]、[[斉藤和義]]らが所属する<ref>[[#青空]]402頁</ref>。 [[1983年]][[8月13日]]、福岡・[[海の中道海浜公園]]で初のワンマン野外コンサート「A PLACE IN THE SUN」では25,000人を動員。独立後最初の一大イベントを無事に成功させる。翌年[[1984年]][[4月29日]]には2回目となる「A PLACE IN THE SUN」を[[横浜スタジアム]]で開催している。ただし、この横浜スタジアムでの公演はあまり良い印象がないようで、これ以降スタジアム・ライブは開催されていない。 この頃からレコード・セールスやライブの観客動員が安定してくる。アルバムもコンスタントに数十万枚を売り上げ、ライブ・チケットも完売が続いていく。[[1980年代]]は毎年のように年間100本近いコンサートツアーを続けていく。 [[1985年]][[7月27日]]〜[[7月28日|28日]]、[[ヤマハリゾートつま恋|つま恋]]多目的広場での吉田拓郎オールナイト・コンサート「[[吉田拓郎の公演#ONE LAST NIGHT IN つま恋|ONE LAST NIGHT in つま恋]]」で愛奴が再結成され、「ひらひら」「野の仏」「シンシア」の3曲で久々にドラムを叩く。その際、拓郎から「浜田、前よりドラム上手くなったな」と言われる。 [[1986年]][[9月4日]]に発売された2枚組アルバム『[[J.BOY (アルバム)|J.BOY]]』がソロデビュー10年目にして初の[[オリコンチャート|オリコン]]・アルバムチャート第1位(4週連続)を獲得。名実共に日本の音楽シーンを代表するトップ・アーティストへと成長する。「ON THE ROAD '86 "I'm a J.BOY"」ツアーの終了後の[[1987年]][[4月30日]]に父親が[[癌]]のため死去。父親の闘病生活や逝去といった出来事は、浜田の音楽活動にも大きな影響を及ぼしている。 [[1988年]][[3月16日]]、1年半振りの新作『[[FATHER'S SON]]』を発売。その後、ほぼ1年間をかけて100本のツアーをこなす。同年[[8月20日]]の[[静岡県]][[浜名湖]]・[[渚園]]での野外コンサート「A PLACE IN THE SUN at 渚園」では52,000人を動員。当時の男性ソロ・アーティストの動員記録となった。ツアー終了後の[[1989年]][[5月21日]]、初となる映像作品『[[ON THE ROAD "FILMS"]]』を発売。その後しばらく音楽活動から離れ、楽曲制作もツアーも行わず休養に入る。 === トップ・アーティストとしての苦悩の時期 === [[1990年]][[6月21日]]、久々のアルバム『[[誰がために鐘は鳴る (アルバム)|誰がために鐘は鳴る]]』を発売。それまでの疾走感あふれるロックから、内省的な曲作りへと移行する。そのアルバム内容から引退が囁かれる。アルバム発売後には、こちらも久々となるツアーを開催し、2年間に渡ってホールツアーとアリーナツアー合わせて109公演を行う。 [[1992年]][[2月1日]]に[[テレビドラマ]]「[[愛という名のもとに]]」の主題歌として発売されたシングル「[[悲しみは雪のように]]」([[1981年]]リリース曲のリメイク)が、初のオリコン・シングルチャート第1位(8週連続、通算10週)を獲得。170万枚のビッグセールスを記録した。同時に、過去にリリースされたアルバムが多数チャートインするなど、空前の浜省ブームとなる。しかし、本人はこの時期に鬱状態になり、メディアに全く出てこなかった。同年[[12月12日]]にはシングル「[[アヴェ・マリア (浜田省吾の曲)|アヴェ・マリア]]」を発表。[[印税]]・原盤収入など全ての収益を社会問題化しつつあった[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]の治療・研究に寄付するというチャリティー・シングル。総額で3,500万円程が寄付された。「このまま音楽人生を終わらせてもいいかなと思った」と後に語っている。 精神的にダウンしていた状態から立ち直り、[[1993年]][[9月6日]]に3年振りのオリジナル・アルバム『[[その永遠の一秒に]]』を発表。[[シンセサイザー]]を全面的に取り入れた新しい音楽性を示すが、詩世界は前作『誰がために鐘は鳴る』と同様に重苦しいテーマに包まれている。アルバム発売後のツアー中の[[1994年]][[6月]]、バンドメンバーの[[町支寛二]]に[[脳腫瘍]]が見つかり、ツアーを一旦中断した後に再開した。 [[1995年]][[7月1日]]、「浜田省吾 with THE R&S INSPIRATIONS」名義でシングル「[[我が心のマリア]]」発表。カップリングの「恋は魔法さ」は[[神戸市|神戸]]を舞台にしたラブソングで、その年に発生した[[阪神・淡路大震災]]の復興を願い、「アヴェ・マリア」同様に印税収入を全額寄付。このシングルは事務所の後輩である[[スピッツ (バンド)|スピッツ]]や[[区麗情]]、[[Origa]]らと共に制作した。同年、プライベート・レーベル「クリア・ウォーター(Clear Water)」を発足。 [[1996年]][[2月29日]]、2作目となる映像作品『[[ROAD OUT "MOVIE"]]』と、その[[サウンドトラック]]盤『[[ROAD OUT "TRACKS"]]』を同時発売。同年[[11月11日]]には3年振りとなるオリジナル・アルバム『[[青空の扉 〜THE DOOR FOR THE BLUE SKY〜]]』を発売。それまでの作品とは打って変わり、ポップで明るい作風となっている。アルバム発表後には96年から97年に掛けてアリーナツアーを行う。さらに[[1997年]][[1月22日]]には1970年代の楽曲のセルフカバー・アルバム『[[初夏の頃 〜IN EARLY SUMMER〜]]』を発売するなど、精力的に活動する。 [[1997年]][[10月22日]]、吉田拓郎の50歳を祝って拓郎のデビュー曲「[[イメージの詩#イメージの詩 (浜田省吾の曲)|イメージの詩]]」をカバー。拓郎自身も[[コーラス (ポピュラー音楽)|コーラス]]と[[アコースティック・ギター]]で参加している。CDとアナログ盤が同時発売された。[[1998年]]にはこれまでのチャリティー活動の経験を踏まえて、有志と共に「J.S.Foundation」という[[基金]]を設立している。コンサート会場の受付では毎回[[募金]]を行っている。 この頃から従来のコンサート・ツアーの在り方に疑問を抱き始め、音楽の旅の意味を見つめ直すべく新たなツアーを企画する。[[1998年]][[4月10日]]、[[20世紀]]から[[21世紀]]を跨ぐ前代未聞のツアー「ON THE ROAD 2001」が4年がかりの構想でスタート。全国のホール、アリーナ、ライブハウス、そして野外コンサートがスケジューリングされた長いツアーが敢行された。このツアー中に初のファンクラブ限定ライブも行っている。4年間で127ヶ所198公演を開催し60万人もの観客を動員。[[2002年]][[1月]]には特別公演として20年振りに日本武道館でライブを行う。 [[1999年]]夏、[[北海道]]での野外ライヴ「ON THE ROAD 2001 LET SUMMER ROCK '99 "SUNSHINE PICNIC&MOONLIGHT DANCING"」を行うため、[[キロロリゾート]]に向かう途中に、メンバーとスタッフを乗せた[[全日空61便ハイジャック事件|ANA61便がハイジャックに遭遇]]。浜田自身は前日に北海道入りしていて無事だった。その公演では、亡くなった機長を悼んで黙祷が捧げられた。 そのツアー期間中の[[1999年]][[9月8日]]には、『[[Home Bound]]』『[[愛の世代の前に]]』『[[PROMISED LAND 〜約束の地]]』『[[DOWN BY THE MAINSTREET]]』『[[J.BOY (アルバム)|J.BOY]]』『[[FATHER'S SON]]』『[[誰がために鐘は鳴る (アルバム)|誰がために鐘は鳴る]]』の1980年から90年までのオリジナル・アルバム7作に[[リマスタリング]]を施し再発。『DOWN BY THE MAINSTREET』『誰がために鐘は鳴る』はリミックス、『J.BOY』はリミックスとリアレンジメントが施されている。 [[2000年]][[11月8日]]、デビュー25周年を記念した初の[[ベストアルバム]](ヒストリーアルバム)『[[The History of Shogo Hamada "Since 1975"]]』を発表。チャート1位を獲得し、120万枚の大ヒットとなる。[[2001年]]には本人が制作に参加する形で、[[日本放送協会|NHK]]の[[NHK総合テレビジョン|地上波]]、[[NHK衛星第2テレビジョン|BS]]、[[NHKデジタル衛星ハイビジョン|BS-hi]]で自身の音楽活動を広く紹介する番組が放映された。このことは20年振りのテレビ出演として話題となる。テレビでは、浜田本人が[[陣内孝則]]とコントを披露する。 4年間のツアーが終わり、しばらく表立った活動がない状態が続いたが、[[2003年]][[3月19日]]に本人を題材とした異色作のゲームソフト『[[OVER THE MONOCHROME RAINBOW featuring SHOGO HAMADA]]』が発売される。浜田も本人役で[[声優]]として出演している。プロデュースはライブでキーボードを担当する[[福田裕彦]]。 同年[[11月1日]]~[[12月27日]]、ファンクラブイベント『official fan club special event 100% FAN FUN FAN 2003』を10公演開催。コンサート形式で且つツアー型のFCイベントは自身初となる。 [[2004年]]、春嵐こと小説家の[[小川糸]]とアレンジャーの[[水谷公生]]と結成したユニット「'''[[Fairlife]]'''」にメンバーとして参加。シングル「[[永遠のともだち]]」、アルバム『[[Have a nice life]]』を発売する。ボーカリストに[[ポルノグラフィティ]]の[[岡野昭仁]]や元[[プリンセス・プリンセス]]の[[岸谷香]]らの豪華な面々を迎えた。 === デビュー30周年と東日本大震災を受けて === [[2005年]][[7月6日]]、4年振りとなるオリジナル・アルバム『[[My First Love (アルバム)|My First Love]]』を発表。9月から同じく4年振りとなる全国アリーナツアー「[[ON THE ROAD 2005 "MY FIRST LOVE"]]」を開催し、26公演を行う。同年[[7月18日]]、[[桜井和寿]]や[[小林武史]]らが主催する「[[ap bank|ap bank fes '05]]」に、最終日の大トリとして出演する。桜井とは初のステージ共演で、「[[マイホームタウン]]」「[[Thank you (浜田省吾の曲)|Thank you]]」「家路」の3曲を披露した。 [[2006年]][[8月9日]]にソロデビュー30周年として2枚のベストアルバム『[[The Best of Shogo Hamada vol.1]]』『[[The Best of Shogo Hamada vol.2|vol.2]]』を同時リリース。また、[[2000年]]に発売された『[[The History of Shogo Hamada "Since1975"]]』が3面紙ジャケット仕様で期間限定にて再発された。 同年[[9月15日]]より[[森のホール21|松戸森のホール21]]を皮切りに「[[ON THE ROAD 2006-2007 "MY FIRST LOVE IS ROCK'N'ROLL"]]」をスタート。ソロデビュー30周年ということもあり、何か大きなイベントをやろうとも考えたらしいが、原点に帰って全国のホールを回ることにした。[[2007年]][[11月27日]]の[[酒田市民会館]]まで53ヶ所83公演を行い、[[奈良県]]を除く全国46都道府県のホールを回った。 [[2007年]][[3月7日]]にはFairlifeとして2ndアルバム『[[パンと羊とラブレター]]』を発表する。ツアーの合間を縫って制作された。 [[2008年]][[4月2日]]、6年振りとなるライブDVD『[[ON THE ROAD 2005-2007 "My First Love"]]』をリリース。2005年のアリーナツアーと2006〜2007年のホールツアーの全109公演から選び抜かれた映像を収録。300分を超える作品となった。同年[[9月1日]]から[[着うたフル]]の[[音楽配信|配信]]を開始したところ、親世代の影響で聴き始めたと思われる[[アラフォー]]世代の子供たち、いわゆる「アラフォー・チルドレン」(10代後半から20代前半)に支持され、ダウンロード・チャートで上位に食い込む現象が起きた<ref>BARKS『[http://www.barks.jp/news/?id=1000045351 “アラフォー・チルドレン”の間で浜田省吾ブレイク中]』</ref>。 [[2009年]][[4月29日]]〜[[7月4日]]、ファンクラブイベント『Officail Fan Club Presents "100% FAN FUN FAN" featuring Katz Hoshi 2009年春の音楽会「春来たりなば夏遠からじ…」』を15公演開催。通常のバンド・メンバーに加えて、[[ストリングス]]をバックに従えたスタイルでのツアーだった。 同年7月、[[横浜市|横浜]]の[[横浜赤レンガ倉庫|赤レンガ倉庫]]にて浜田省吾の展覧会「[[浜田島]]」が開催される。30年以上に渡って浜田作品の[[デザイナー]]を務めている[[田島照久 (デザイナー)|田島照久]]による、写真・デジタルアート・映像・音楽を織り交ぜた作品展。翌年5月には[[大阪市|大阪]]・[[中之島 (大阪府)|中之島]]の[[中之島バンクス]]にて「浜田島II」が開催された。 [[2010年]][[2月3日]]、Fairlifeの3rdアルバム『[[みちくさ日和]]』をリリース。先行シングル「[[旅せよ若人]] feat.[[岡野昭仁]] from [[ポルノグラフィティ]]」は、[[映画]]『[[食堂かたつむり]]』の主題歌に起用されている。 同年[[10月6日]]、ベストアルバム『[[The Best of Shogo Hamada vol.1]]』『[[The Best of Shogo Hamada vol.2|vol.2]]』に続くベストアルバムシリーズ完結編『[[The Best of Shogo Hamada vol.3 The Last Weekend]]』とDVD『[[僕と彼女と週末に (映像作品)|僕と彼女と週末に]]』を同時リリース。このDVDの構想は2000年頃から始まっていたという。 [[2011年]][[4月16日]]、約5年半ぶり(ツアー自体は約3年半ぶり)のアリーナツアー「[[ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend" (コンサートツアー)|ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"]]」を[[静岡県|静岡]][[静岡県小笠山総合運動公園アリーナ|エコパアリーナ]]を皮切りに開催。12都市全34公演の日程だったが、ツアー直前の[[3月11日]]に発生した[[東日本大震災]]の復興支援コンサートとして[[神戸市|神戸]][[ワールド記念ホール]]での公演が追加され、チケットとグッズの売上の収益(約2,100万円)を[[南相馬市]]の幼児施設除染のための義捐金として寄付された。 [[2012年]][[5月19日]]・[[5月20日|20日]]、東日本大震災の影響で延期されていたアリーナツアー「ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"」の[[宮城県|宮城]][[セキスイハイムスーパーアリーナ]]公演が開催された。また、「ON THE ROAD SPECIAL "The Last Weekend"」と題した、東日本大震災の2回目の復興支援コンサートを[[さいたまスーパーアリーナ]]にて[[6月2日]]・[[6月3日|3日]]の2日間に亘って行われた。チケットとグッズの売上の収益(約1億2,200万円)は被災地復興のための支援金として寄付。前年4月からのツアーは全国12都市37公演、延べ約35万人を動員して終了した。 同年[[8月10日]]、[[YouTube]]公式チャンネルを開設した。過去の[[プロモーション・ビデオ]]やライブ映像などが配信されている。 同年[[9月19日]]、4年半振りとなるライブ映像作品『[[ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend" (映像作品)|ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"]]』と、ライブ・アルバムとしては30年振りとなる3枚組CD『[[ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend" (アルバム)|ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"]]』を同時リリース。[[DVD]]盤と[[Blu-ray Disc]]盤でリリースされ、浜田の映像作品としては初のBD作品としての発表となる。 同年[[10月1日]]付の[[オリコンチャート|オリコン]]総合DVDランキングで『ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"』が初登場1位を獲得し、59歳9ヶ月での「最年長音楽DVD総合首位獲得記録」を樹立した<ref>[http://www.oricon.co.jp/news/rankmusic/2017112/full/ 【オリコン】浜田省吾、史上最年長59歳9ヵ月でDVD首位]</ref>。浜田の映像作品の週間ランキング首位獲得は、DVD・BD両ランキングでは初めてであり、映像作品としてはビデオ『[[ROAD OUT "MOVIE"]]』以来、16年7ヶ月ぶりの映像作品首位となった。 === 60歳を迎えて、現在まで === [[2013年]][[5月3日]]〜[[7月21日]]、ファンクラブ創立30周年を記念したファンクラブイベント『Shogo Hamada Official Fan Club Presents "100% FAN FUN FAN" On The Avenue 2013 「曇り時々雨のち晴れ」』を18公演開催。うち4公演は『SHOGO HAMADA ON THE AVENUE 2013 specialチャリティーライブ For 東日本震災復興支援&海外人道支援プロジェクト』と題した東日本震災と海外人道支援に対するチャリティーイベントも開催。 同年[[7月28日]]、[[NHK-BSプレミアム]]の特別番組「浜田省吾ライブスペシャル〜僕と彼女と週末に〜」が放映される。前述の[[2001年]]のNHK特番への出演以来、12年ぶりのテレビ出演となった。テレビ内容では浜田本人がクマの着ぐるみを着るというお茶目ぶりを見せた。<ref>[http://natalie.mu/music/news/92662 浜田省吾12年ぶりのTV出演!NHK BSで特番90分オンエア]</ref>。 [[2014年]]現在、HPにも「今、曲作りをしている」と報告があり、何年後かわからないがアルバムを発売予定である。 [[2014年]]の12月、名古屋にてTHE HAMADA ISLAND III The Exhibition of Shogo Hamada by Teruhisa Tajimaを開催予定である。 == エピソード == === 人物像 === * 自分自身のアイドルとして名前を挙げているのは、[[ビートルズ]]、[[ボブ・ディラン]]、[[モハメド・アリ]]、[[ジャクソン・ブラウン]]の4組。ジャクソン・ブラウン以降は、そこまで熱中した存在はいないという<ref>[[#青空]]253頁</ref>。 * 特に[[ジャクソン・ブラウン]]には強く傾倒しており、自身が設立した個人事務所の「[[ロード&スカイ]]」、[[1980年代]]に活動を共にしたバックバンドの「[[THE FUSE]]」は、それぞれ彼の曲名からの引用であり、さらには飼っていた犬にまで「ジャクソン」と名付けるほどだった。[[1997年]]に発売されたブラウンのベスト盤には、[[ライナーノーツ]]を寄稿している。ブラウン本人とも交友があり、彼からプレゼントされた[[ナショナル・ギター]]を宝物として大切にしている。 * トレードマークは[[サングラス]]。人前ではまったく外さないことでも知られる<ref>[[#批評]]80頁</ref>。サングラスをかけだした由縁は、自身の好きな[[ボブ・ディラン]]や[[スティーヴィー・ワンダー]]、[[ジョン・レノン]]らがかけていたのを真似したため。また、ドラムは目立たないため何とかして自分を売り込もうとした苦肉の策でもあったらしい。1980年1月8日放送の『[[セイ!ヤング]]』では、20歳の頃、吉田拓郎のバックバンドで帯同した際に、7、8歳上の拓郎と比べてえらくこっちが子供っぽく、何とか折り合いをつけるために、俺はサングラスをかける、お前はヒゲを伸ばせと、甘く見られてはいけないとサングラスをかけはじめたのがきっかけと話している<ref>[[#事典]]88頁</ref>。他に「素顔を覚えられるのが嫌だから」ともインタビューで答えている。 * 時々、サングラスをかけたまま顔を洗ってしまうこともあるという。 * [[関西]]で行われたライブでは、節電もほぼなく非常に明るいと感銘を受けたらしい。[[東日本大震災]]で節電となった[[東京]]は非常に世の中が暗いと発言した。しかし、その話の落ちは部屋の中でも[[サングラス]]をしていたためというもの。 * [[1987年]]、[[フライデー|FRIDAY]]に浜田がサングラスをはずし、奥さんと歩く姿が盗撮され掲載される。憤りを感じた本人が、「[[FATHER'S SON|I DON'T LIKE "FRIDAY"]]」という曲を制作した。 * 公式な写真や映像では、サングラスを外して素顔を確認できるものは一切ない。サングラスを外していても向こう側を向いていたり、顔に影が当たっていたり、目を閉じていたりするため、素顔を覗くことはできない。ただし、『浜田省吾事典』には子供の頃の素顔は掲載されている。 * 若い頃、[[音楽評論家]]・[[渋谷陽一]]のラジオ番組にゲスト出演。この時、議論が白熱した結果、浜田が激怒し「結局なんでしょ、あんたたちゃあ、人の作ったものにケチつけてメシ食ってるんでしょうが!」と面と向かって毒づいたことがある<ref>CDジャーナル編[http://books.google.co.jp/books?id=AoFgIowII48C&printsec=frontcover&source=gbs_v2_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false 『音楽CD検定公式ガイドブック(下)』]、音楽出版社、2007年、ISBN 978-4861710308、53頁</ref>。これに渋谷は「はい、そうですよ」と答えた。しかしながら、その後渋谷は自身の発刊する音楽誌で何度も浜田の特集を組むなど、今日に至るまで長きに渡り浜田を支援し続けている<ref>[http://www.nhk.or.jp/fm-blog/200/10726.html NHK-FMブログ:NHKブログ サマー・ロックトークセッション][http://yaplog.jp/danke-moon-s0/archive/1750 サマー・ロックトークセッション2008年8月25日放送]</ref>。渋谷自身、プライベートでも付き合いがある唯一のアーティストと述べている<ref>[[#青空]]475頁</ref>。「[[rockin'on]]」本誌で特集した日本人ミュージシャンは、浜田と[[RCサクセション]]、[[坂本龍一]]、[[山下達郎]]と数えるほどしかいない<ref>[[#青空]]176頁</ref>。 * テレビやラジオにはほとんど出演しないが、音楽誌には先の[[ロッキング・オン]]関係本を中心に露出は少なくない。特に1980年代には音楽誌の読書アンケートでも[[佐野元春]]、[[甲斐バンド]]と並んで圧倒的な支持を受けていた<ref name="批評26">[[#批評]]、98-99頁</ref>。ところが、事前に用意されたとも思わせるウィットの利く言葉で埋める佐野や[[甲斐よしひろ]]に比べると、浜田のインタビューはあまり面白いとは言い難く、浜田を特集した号は大きな反響がなかったという<ref name="批評26"/>。 * かなりのスポーツ好きで、小学生の頃は[[剣道]]を習っており、中学時代は陸上部、高校時代は野球部に所属していた。また、旅をするのも好きなようで、よく一人で海外に出掛けている。 * [[コンピュータゲーム|テレビゲーム]]や[[パチンコ]]、[[マージャン]]などは全くやらない。それらが嫌いというわけではなく、「ずっと同じところに座ってひとつの作業をする」ということが苦手なため<ref>[[#事典]]393頁</ref>。 * もともとは喫煙者だったが、現在は禁煙している。酒も以前はほぼ毎日飲んでいたが、現在は特別な席以外では飲まないようにしている。 * プライベートなことはほとんど話さないため、あまり知られていないが、[[1978年]]に結婚している。ファースト・アルバム『[[生まれたところを遠く離れて]]』の裏ジャケットで腕を組んで歩いている女性が現在の夫人である(当時は恋人)。また、「[[I am a father]]」といった父親が主人公の楽曲を作っているが、現在まで子供はいない。 * 髪型は時とともに大きく変化している。[[1993年]]〜[[1994年]]にかけて後ろで髪を結ぶほどの長髪にしている。[[2001年]]〜[[2005年]]は少し茶色の交じる髪の毛にしており、現在は白髪が少し交る黒色である。 * [[1996年]]、ヒゲを伸ばしたことがあるが、不評だった。 * メディアに全く出ず、コンサートで初めて本人が動く姿を見たという人に対して、「俺だって生きてるんだから動くさ!」と笑いながら返したエピソードがある。 * コンサートでは、足元にディスプレイをおいて歌詞を表示することなく、すべて歌詞を記憶して歌うスタイルである。極稀に歌詞を間違えることもあり、[[2011年]]のコンサートでは「[[さよならゲーム (曲)|あれから二人]]」の歌詞「'''重ねた'''唇」を「'''束ねた'''唇」と歌い、最初からやり直したこともある。 * 1980年前後に同姓である[[濱田金吾]]の[[MOON RECORDS|所属レコード会社]]から「浜田といえば'''金吾'''です」という挑発的な宣伝コピーを付けられたことがある<ref>[[#青空]]177頁</ref>。 === 音楽性 === * 音楽的なルーツは、10代の頃に聴いていた[[1960年代]]のロックやポップスで、その中でもビートルズをラジオで初めて聴いた時には衝撃を受けたという。当時の音楽情報はラジオが中心だったので、数少ない洋楽が流れるチャンスを待ってテープに録音したり、海外のヒットチャートをノートに書き留めたりしていた。同学年である[[山下達郎]]も同じことをしていたらしく、一緒に食事に行った際、当時の話題で盛り上がったという。 * 曲作りの上では[[歌詞]]を重要視しており、「歌を作ることは詞を書くこと」と考えている。浜田の描く歌詞にはストレートな表現が多いが、それは「歌というのは一瞬にして消えるものだから、そのときに情景とかイメージを受け手にしっかり伝えなければいけない」という考えに基づいている。また、「[[巻き舌]]で[[日本語]]を[[英語]]っぽく歌いたくない」と話しており、出来るだけクリアーに日本語を歌うよう心掛けているという<ref>ファンクラブ会報誌「Road&Skay」第52号</ref>。 * 歌詞の書き方のポイントとして、ツアーに参加している[[福田裕彦]]によると「(福田の歌詞に対して)いい歌詞なんだけど、これ恥ずかしがってるでしょ?照れてるでしょ?ダメだよ、それじゃ。もっと照れる、自分で照れて二度と読めないっていうぐらい恥ずかしく書かないと伝わらないよ、歌詞は」と言われたという。福田が「浜田さんって確信犯なの?」と聞くと「そうだよ」と答えた<ref>[http://www.moment.gr.jp/39/interview.html talk & interview - moment 福田裕彦(PART2)]</ref>。 * [[1975年]]のレコード・デビュー以来、一貫して[[ソニー]]系の[[レーベル]]([[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニー]]〜[[ソニー・ミュージックレコーズ|Sony Records]]〜[[エスエムイーレコーズ|SME Records]])に所属している。ソニー所属の日本人アーティストでは[[郷ひろみ]]、[[五輪真弓]](ともに[[1972年]]レコードデビュー)に次いで三番目の古株である。ちなみに、四番目の古株は[[1977年]]から所属している[[渡辺真知子]]。 * デビュー以来、コンスタントにアルバムをリリースしているが、1990年代以降は制作のインターバルが長くなってきている。[[オリジナル・アルバム]]に限ってみると、1990年代は3枚、2000年代は2枚の発表に留まっている。 * 1979年のスマッシュ・ヒット「[[風を感じて]]」は、[[コマーシャルソング|CMソング]]ということで、どこか引っかかる部分があり、長くコンサートで歌わなかったが、実は、ソロになってからCMソングでヒットを出してコンサートツアーをしたい、と色んなCMのオーディションを受けている。しかし1977年、[[山口百恵]]と[[三浦友和]]の『[[江崎グリコ#商品一覧|グリコ アーモンドチョコレート]]』のために作った曲はボツに<ref group ="注">採用は[[松崎しげる]]「[[愛のメモリー]]」</ref>、1979年の[[セーラ・ロウエル]]とキャティの[[コーセー化粧品]]「TWO WAY SUMMER」は、「あなた一本で行きますから」と言われたにも関わらず不採用となった<ref group ="注">採用は[[山本達彦]]「ある日この夏〜TWO WAY SUMMER〜」、浜田のボツ曲は『[[MIND SCREEN]]』に歌詞を変えて「ダンシング・レディ」として収録([[#事典]]251頁)。</ref>など5回ぐらい続く。「[[風を感じて]]」は「もうタイアップは二度とやらない」と頭に来ていたタイミングでの楽曲で、[[三浦徳子]]の作詞を浜田がほとんどの歌詞を手直ししたといわれ「アンチCMソング」のような内容になっている。1982年の[[資生堂]]春のキャンペーン「ルージュマジック」も依頼があったが、対抗していた[[カネボウ化粧品]]が[[HOUND DOG]]で「[[浮気な、パレット・キャット|パレット・キャット]]」をやるとなって、「同じCBSソニーではまずいんじゃないか」とボツとなった<ref group ="注">[[資生堂]]春のキャンペーン「ルージュマジック」は、[[忌野清志郎]]と[[坂本龍一]]の「[[い・け・な・いルージュマジック]]」が採用されたが、浜田が用意していたのは「[[ON THE ROAD (曲)|ON THE ROAD]]」であった([[#事典]]169-170、233頁)。</ref>。 * 長いキャリアの中で、大きなヒット曲と言えるものは[[1992年]]発売の「[[悲しみは雪のように]]」(売上170万枚、週間1位、年間2位)の1曲のみ。本人も「唯一のヒット曲です」と自嘲気味に話すことがある。[[オリコンチャート|オリコン]]では通算10週1位を獲得し、[[平成]]以降では[[CHAGE and ASKA]]の「[[SAY YES]]」(13週)に次ぎ、歴代2番目の記録となった。 * [[邦楽]]のシングル・レコード(ドーナツ盤)を自分で購入したのは、父親へのプレゼントに買った「[[星影のワルツ]]」と、[[オフコース]]の楽曲で一番好きな曲だった「[[愛を止めないで]]」の2枚だけだという<ref>浜田省吾ファンクラブ会報誌『Road & Sky』172号</ref>。 * 「[[マイホームタウン]]」、「[[MONEY (浜田省吾の曲)|MONEY]]」、「[[DOWN BY THE MAINSTREET#収録曲|DADDY'S TOWN]]」など、浜田ほど、故郷・広島を歌ったアーティストはいない<ref name="批評26">[[#批評]]4-25頁</ref>。広島が作品のなかで大きなテーマになってくるのは"家路につく"という意味を持ったタイトル作『[[Home Bound]]』以降であるが、広島を背景にした曲は、[[原子爆弾|原爆]]、基地の街、錆びれた街、[[工業地帯]]といった物で、懐かしい場所として讃える「ふるさと賛歌」とは異質のものである<ref name="批評26"/>。 === 交友関係 === * 広島出身ということもあり、大の[[広島東洋カープ|広島カープ]]ファン。ステージ上でカープの帽子、ユニフォームを羽織ったことがある。現役時代の[[高橋慶彦]]とは、非常に仲が良かった。他にも[[前田智徳]]や[[西山秀二]]からサイン入りバットをプレゼントされている。 * [[1974年]]に、[[吉田拓郎]]の全国ツアーのバック・バンドでドラマーを務めたのは、「[[広島フォーク村]]」の先輩でもある拓郎から誘われたためだが、そのとき浜田は自分のドラムセットを持っていなかった。広島の友達から借りたら、そのドラムはアマチュア時代の拓郎が使っていたドラムだった。本人曰く「当時の広島にはドラムはそんなに沢山なかった」という<ref>[[#事典]]61頁</ref>。 * [[尾崎豊]]や[[福山雅治]]、[[桜井和寿]]など浜田に影響を受けたと言う後輩アーティストに会う時は、彼らの曲を事前にちゃんと聴いて、暖かいアドバイスを贈っている<ref>[[田家秀樹]]『J-POP列伝 音楽の中に君がいる』、[[シンコーミュージック]]、2009年、107、108頁</ref>。言葉は「どんな事があっても歌い続けることだよ」という内容のようである。[[中村あゆみ]]は、浜田に一番影響を受け人間的にもとても尊敬していると話している<ref>[http://ameblo.jp/nakamura-ayumi/entry-10102930612.html 中村あゆみ オフィシャルブログ『ビタミンのかけら』]</ref><ref>[http://www.amazon.co.jp/gp/feature.html?ie=UTF8&docId=1000158796 中村あゆみ『VOICE』セルフ・ライナーノーツ]</ref>。1988年渚園での野外ライブにもゲストとして参加している。『Hot summer night』をデュエットした。 * 事務所の後輩である[[スピッツ (バンド)|スピッツ]]とも交流があり、[[1995年]]のシングル「[[我が心のマリア|我が心のマリア/恋は魔法さ]]」で共演している。まだほとんど売れていなかったメジャー・デビュー時からスピッツの音楽性を高く評価しており、「[[ロビンソン (曲)|ロビンソン]]」で彼らがブレイクしたときには「自分のことのように嬉しい」と述べている。初期の作品はほとんど歌えるそうで、「[[ヒバリのこころ]]」「[[魔女旅に出る]]」「ウサギのバイク」などがお気に入りだという<ref>ファンクラブ会報誌「Road&Skay」第71号</ref>。 * [[俳優]]の[[時任三郎]]とは[[1980年代]]からの交友があり、[[1985年]]に「WALKING IN THE RAIN」という楽曲を提供している。[[2005年]]には「[[I am a father]]」の[[プロモーション・ビデオ]]に時任が出演している。 * [[田原俊彦]]はデビュー前に『[[MIND SCREEN]]』を聴いて浜田のファンになり、デビュー後に『MIND SCREEN』に収録された「ダンシング・レディ」をテレビで歌ったことがある<ref>[[#事典]]251頁</ref>。「[[Myojo|明星]]」1987年1月号で対談もしている。田原が行った他人のコンサートは浜田のみだという<ref>[http://news.livedoor.com/article/detail/4726289/?ignore_lite 田原俊彦が 行った他人のコンサートは浜田省吾のみ ]</ref>。 * スポーツ界にもファンが多く、[[サッカー]]界では[[三浦知良]]や[[ラモス瑠偉]]、[[高木琢也]]など。カズとは[[ブラジル]]にサッカー留学していた頃からの交友で、[[2006年]]には『[[The Best of Shogo Hamada vol.1]]』『[[The Best of Shogo Hamada vol.2|vol.2]]』のCMにも出演している<ref>日刊スポーツ、2006年7月25日、24頁</ref>。[[格闘技]]界では[[三沢光晴]]、[[長州小力]]、[[所英男]]、現在はタレントの[[大仁田厚]]ら<ref>[[テレビブロス]]、[[東京ニュース通信社]]、2006年4月15日号、13頁</ref>。三沢は[[カラオケ]]でよく浜省ナンバーを歌っていたという<ref name="批評26">[[#批評]]26、32頁</ref>。[[野球]]界では[[小笠原道大]]ら<ref name="批評26"/>。[[松井秀喜]]もファンであり、コンサートで楽屋を訪問したことがある<ref>[http://www.kozo.weblogs.jp/kozo/2006/12/2006_1235.html 野球小僧編集部ログ]</ref>。[[競馬]]界では元[[騎手]]で、現在は[[調教師]]の[[的場均]]ら<ref name="批評26"/>。 * この他、著名人のファンとして[[ますだおかだ]]の[[増田英彦]]([[ファンクラブ]]にも入っている)、[[ビビる大木]]、[[山崎邦正]]らが有名<ref>テレビブロス、2006年4月15日号、13頁</ref><ref name="批評26"/><ref>[[#批評]]6-9頁</ref>。山崎はモノマネ番組で浜田の歌をよく歌う。[[Wコロン]]のねづっちは「[[長渕剛]]と浜田省吾しか聴かない」という<ref>[http://blog.television.co.jp/entertainment/entnews/2010/04/20100405_20.html “謎掛け”で大注目! Wコロンが語る、ねづっちの名文句「ととのいました!」誕生秘話]</ref>。[[浜田翔子 (タレント)|浜田翔子]]の芸名は、父親が浜田ファンだったため<ref>テレビブロス、2006年4月15日号、13頁</ref>。元[[航空幕僚長]]の[[田母神俊雄]]は「もうひとつの土曜日」がカラオケの[[十八番]]だという<ref>『田母神流ブレない生き方』</ref><ref>「田母神流ブレない生き方」、[[田母神俊雄]]、[[主婦と生活社]]、2009年8月、45頁</ref>。[[宮藤官九郎]]のギターのルーツは、姉の影響で聴かされた浜田だという<ref>『グループ魂 はいどもこんばんわぁ!!」[[ソニーマガジンズ]]、2006年、77頁</ref>。 * また、女優の[[烏丸せつこ]]も浜田のファンで、1980年代前半にダイナマイトバディと本音の物言い、今でいうオヤジ殺し的キャラで非常に人気があったが、レギュラーを持っていた「[[サウンドストリート]]」([[NHK-FM放送|NHK-FM]])を通じて浜田と仲良くなり、浜田は既に既婚者だったのだが、週刊誌にも色々書かれた。烏丸の方もその後結婚し(現在は独身)、フェードアウト状態になって事なきを得たが、近年「[http://www.nhk.or.jp/my-fm-days NHK青春ラジカセ]」のようなネットや週刊誌のインタビューで、浜田のことを「あの人の顔が好き」「たぶん今まで53年間生きてきた中で、一番好きな男だと思う」「もし昔に戻れるなら、あの頃に帰りたい」「省吾と2人、少年少女時代に戻りたい」などと話し、当時と変わらぬキレ味を見せつけている<ref>[http://www.nhk.or.jp/my-fm-days NHK青春ラジカセ スペシャルインタビュー烏丸せつこ]</ref><ref>[[アサヒ芸能]]、2010年3月4日号、60頁</ref>。 * [[明石家さんま]]を自身のラジオ番組のゲストに呼んだ際には「[[スポーツジム]]でさんまのマナーが悪い」と、これも面と向かって説教を始めて「ボクがゲストやから」と笑いで済まそうとするさんまを無視し説教を続け、さんまを黙らせてしまったことがある。さんまが『[[ビビる大木のオールナイトニッポン]]』の最終回にゲスト出演した際にも、このエピソードを披露していた。さんまもカラオケでよく浜省ナンバーを歌う。 * [[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]も浜省ファンで、[[2001年]]に[[日本テレビ]]系『[[ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!]]』で「浜省だらけの野球大会」という企画を放送したことがある。浜田本人も事務所で観ていたらしく、ファンクラブ会報のインタビューで「面白かったですよ。愛情表現だと受け取りましたけど(笑)」と好意的に受け止めていた<ref>ファンクラブ会報誌「Road&Skay」第110号</ref>。[[フジテレビ]]系『[[ダウンタウンのごっつええ感じ]]』でも、車のトランクに浜省が入っている「浜省不法所持」といったコントを放送している。 * [[甲斐バンド]]の「[[安奈]]」のアコーステック・ギターを弾いているのは、たまたまレコーディングに来ていた浜田であると、[[甲斐よしひろ]]がラジオや取材等で語っている。浜田と甲斐はデビュー時から交友があり、よく[[新宿ゴールデン街]]で飲み歩いていたという<ref>[[#事典]]237頁</ref>。 === コンサート関連 === * 1976年にソロデビューした時期が、ちょうど[[矢沢永吉]]のソロデビューと重なり、CBSソニーが矢沢を売り出す一環として行ったのが、矢沢のフィルムコンサートであった<ref name="陽のあたる178">[[#陽のあたる]]178-180頁</ref>。同じCBSソニー所属だった関係で浜田は、そのフィルムコンサートの前座を務めた。ギターケース一つ下げて地方の教えられた会場で何度か一人でいった。そこは会場の周辺を[[オートバイ]]と[[シャコタン]]に改造されたクルマが取り巻く[[暴走族]]の集会のような光景<ref name="陽のあたる178"/>。会場内は[[リーゼント]]に[[ジャンパー (衣服)|革ジャン]]という客で埋め尽くされている。フィルムコンサートは、本人がステージに立つコンサートよりも熱狂的なファンが集まるため、「期待の新人、浜田省吾です」などという司会の声はまるで耳に入らず、「永ちゃん」コールを繰り返し、「早く、永ちゃんやれよ!!」と罵声が飛ぶ。スタッフから革ジャンを借りて、トイレで髪を濡らしてリーゼントにして持ち歌を歌うが、曲が終わっても聞こえてくるのは、「永ちゃん」コールであった<ref name="陽のあたる178"/>。さらに地方にプロモーションに行くと、広島以外ではまったくの無名で、浜田を知る人は皆無。聞かれることは「[[広島フォーク村]]ってどうなったんですか?」「[[吉田拓郎]]はどんな人ですか?」ばかりで、吉田拓郎は恩人ではあるが、嫌悪感すら生まれ、名前を耳にするのもうとましくなったという<ref name="陽のあたる178"/>。 *[[1980年代]]のコンサートで、出待ちに[[恵俊彰]]がいたことがある。恵は、何か渡さないとと思い、ポケットにあった10円玉を手渡したことがある。浜田自身も記憶に残っていると後世語っている。 * メディアに登場しないため意外に思われるが、コンサートのMCでは饒舌ぶりを見せる。また、必ず開催地の感想や思い出を語り、ファンへの感謝の気持ちを述べる。ほぼ全ての会場で、入り待ちのファンに手を振って応えている。 *関西(特に[[大阪]])でコンサートを行う際は、MCで笑いを取ろうとする傾向がある。笑いと気づかない場合は、「今の笑うとこなんだけど…」と自分で言うこともある。 * [[1970年代]]後半の長い下積み時代、小さな街で数百人を集めてのライヴに全精力を使い果たして、ホテルに帰ってテレビを付けると『[[ザ・ベストテン]]』をやっていて、後からデビューした人達が何十万枚とレコードを売って歌う姿を見る。テレビという巨大な主流・メインカルチャーに対して、「ライヴは[[カウンターカルチャー]]だと思う。テレビからこぼれ落ちた大切なものを僕達は丁寧にすくって、大切に育ててきた」という自負をインタビューで述べている。 * [[1980年代]]半ば頃からコンサート・チケットがプラチナ化しており、毎回発売と同時に完売するほどの人気を誇る。ほとんどメディアに露出せず、レコード制作とライブ活動だけで人気を維持し続けている稀有な存在といえる。専用のトラックを早くから持ち、日本で初めてツアーを中心に活動を組立てたミュージシャンである<ref>[[#批評]]、11頁</ref>。 * 基本的には1会場あたり2,000人規模のホール・ツアーと、1万人規模のアリーナ・ツアーの2つを行う。回数は少ないが、大規模な野外ライブも開催している。また、ドーム・コンサートには否定的で、これまで一度も行っていない。スタジアム・ライブも、[[1984年]]に[[横浜スタジアム]]で開催したのみで、それ以来一度も行われていない。[[日本武道館]]でのコンサートも意外に少なく、[[1982年]]の初武道館が1回、その20年後の[[2002年]]に2回、計3回しか行っていない。ただし、「[[アクト・アゲインスト・エイズ|Act Against Aids]]」の武道館公演に[[2000年]]と[[2004年]]の2回ゲスト出演している。 * コンサートでは、客の年齢層を確かめる「年代別チェック」が恒例になっている<ref group ="注">「10代の人、手を叩いてみて」というように</ref>。現在は、30代と40代の客が圧倒的に多い。近年はさらに年齢層が高くなっているが、親子連れも多くなっており、10代の比率も増えている。親子2代で浜省ファンという人も多い。 * コンサートでの定番曲「[[HELLO ROCK&ROLL CITY]]」を歌うときは、歌詞の一部をコンサート開催地に変えて歌う<ref group ="注">Hello 大阪 City〜など。</ref>。[[津市]]でコンサートをやるときや、市ではなく町でコンサート<ref group ="注">[[宮城県]][[利府町]]など。</ref>をやるときはメロディと歌詞が合わないので困ってしまうとも話している。利府町の[[宮城県総合運動公園総合体育館|宮城グランディ・21]]で行う場合、「Hello 宮城グランディ〜」と歌う。 * [[2000年]]に[[奄美大島]]の[[名瀬市]]でコンサートを行った際、地元の「[[南海日日新聞]]」にて『久々の大物歌手が名瀬で公演するチケットの売出し日、(中略)全盛期を過ぎても、まさかここまで根強い人気があるとは』と掲載され、ステージで早速ネタにする(「俺はこれからが全盛期だと思ってるんだよ!」と笑いながら語った)。後日、同紙に『あの一言は撤回します。素晴らしいコンサートでした』との記事が掲載される。 * 同じく2000年、[[黒磯市|黒磯]]でのコンサート中、開始2曲目で「脹脛断裂」してしまう。それでもコンサートはやり遂げた。この事ことは、[[ワイドショー]]でも採り上げられた。しかし、この時のニュースで流れた映像が昔のもので、バックに流れたのは20年前にヒットした「[[風を感じて]]」であった。本人は「このことが一番ショックだった」と語っている。 * [[2001年]]以降のアリーナツアーでは、必ず[[センターステージ]]を作成し、歌うようにしている。 *センターステージでは、観客にウェーブをするように促す。 * [[J.BOY (曲)|J.BOY]]と[[MONEY (浜田省吾の曲)|MONEY]]は、ファンクラブライブ以外の通常ライブでは、必ず歌う曲である。 * [[2011年]]から行われたコンサート「[[ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend" (コンサートツアー)|ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"]]」では、新曲アルバムのない状態でのコンサートだった。本人は、コンサート内で、「新曲ができるのを待っていたら60代になってしまうから、それまでにコンサートでみんなに会いたかったため」と発言している。 == ディスコグラフィー == {{Main|浜田省吾の作品}} == コンサートツアー == [[1970年代]]後半から自身のバックバンドを従えて本格的なツアー活動を開始した。[[1982年]]以降はツアータイトルを「'''ON THE ROAD'''」とし、現在まで引き継がれている。 [[1980年代]]は毎年のように100本近いツアーを行っていたが、[[1990年代]]以降は数年毎の間隔を空けるようになっている。また、ホールツアーとアリーナツアーが分けて組まれるようになり、ステージの規模も巨大化してきている。不定期ではあるが、ファンクラブ限定のツアーも開催されている。 == 年度別公演数 == {| class="wikitable" style="text-align:center" |- !1970年代 !公演数 !1980年代 !公演数 !1990年代 !公演数 !2000年代 !公演数 !2010年代 !公演数 |- | | |1980年 |96回 |1990年 |55回 |2000年 |48回 |2010年 |0回 |- | | |1981年 |88回 |1991年 |54回 |2001年 |35回 |2011年 |33回 |- | | |1982年 |122回 |1992年 |0回 |2002年 |2回 |2012年 |4回 |- | | |1983年 |119回 |1993年 |37回 |2003年 |10回 |2013年 |18回 |- | | |1984年 |87回 |1994年 |58回 |2004年 |0回 |2014年 |0回 |- | | |1985年 |76回 |1995年 |3回 |2005年 |26回 |2015年 | |- |1976年 |15回 |1986年 |64回 |1996年 |16回 |2006年 |28回 |2016年 | |- |1977年 |50回 |1987年 |38回 |1997年 |13回 |2007年 |55回 |2017年 | |- |1978年 |53回 |1988年 |90回 |1998年 |52回 |2008年 |0回 |2018年 | |- |1979年 |70回 |1989年 |10回 |1999年 |61回 |2009年 |15回 |2019年 | |- |- style="background:#ddd;" |colspan="9"|'''合計''' |'''1601回''' |} == ツアータイトル == タイトルが「ON THE ROAD」と名付けられた[[1982年]]以降の記録。 {| border="1" cellpadding="3" class="wikitable" style="font-size:smaller" |- !期間 !公演数 !ツアータイトル !備考 |- |[[1982年]][[3月22日]]〜[[1983年]][[2月22日]] |142 |[[ON THE ROAD '82]] |初めて「ON THE ROAD」のタイトルが付いた。1年間のツアーとしては過去最多となる142本を記録。全編ホール・コンサート。 |- |[[1983年]][[3月31日]]〜[[1984年]][[4月29日]] |121 |[[ON THE ROAD '83]] |個人事務所「[[ロード&スカイ]]」を設立してから最初のツアー。このツアーの期間中に大規模な野外ライブを「[[海の中道海浜公園|福岡・海の中道海浜公園]]」と「[[横浜スタジアム]]」で開催している。 |- |[[1984年]][[8月17日]]〜[[1985年]][[2月9日]] |77 |[[ON THE ROAD '84]] |アルバム『[[DOWN BY THE MAINSTREET]]』の制作と並行して行われた。全編ホール・コンサート。 |- |[[1985年]][[5月25日]]〜[[1986年]][[2月19日]] |77 |[[ON THE ROAD '85]] |[[よみうりランド]]の特設野外ライブ2daysからスタートしたツアー。それ以降はすべてホール・コンサートとなっている。 |- |[[1986年]][[9月4日]]〜[[1987年]][[4月6日]] |83 |[[ON THE ROAD '86 "I'm a J.BOY"]] |アルバム『[[J.BOY (アルバム)|J.BOY]]』の発売日と同時にスタート。ツアー名に初めてサブタイトルが付けられた。また、アリーナ会場([[国立代々木競技場第一体育館]])を初めて使用し、連日3時間を超えるステージとなり、非常に規模の大きなツアーとなった。 |- |[[1988年]][[3月17日]]〜[[1989年]][[2月7日]] |100 |[[ON THE ROAD '88 "FATHER'S SON"]] |アルバム『[[FATHER'S SON]]』を引っ提げてのツアー。ホール、アリーナ、野外ライブを織り交ぜた計100公演。ツアー途中で[[昭和]]が終わりを迎える。 |- |[[1990年]][[7月21日]]〜[[1991年]][[3月17日]] |83 |[[ON THE ROAD '90 "FOR WHOM THE BELL TOLLS"]] |アルバム『[[誰がために鐘は鳴る (アルバム)|誰がために鐘は鳴る]]』を引っ提げての約1年半降りとなるホールツアー。「夏の終り」では、♫一人暮らそう♫を♫二人暮らそう♫に変えて歌うなどする。 |- |[[1991年]][[5月25日]]〜[[1991年]][[8月10日]] |26 |[[ON THE ROAD '91 "ONE AND ONLY"]] |ホールツアー終了後に組まれた大規模なアリーナツアー。これ以降、ホールツアーとアリーナツアーは分けて組まれている。最終公演の8月10日は「[[みちのく杜の湖畔公園|仙台みちのく杜の湖畔公園]]」で野外ライブが開催された。 |- |[[1993年]][[9月14日]]〜[[1994年]][[3月14日]] |64 |[[ON THE ROAD '93 "OCEAN AVENUE 7493"]] |約2年振りのホールツアー。サブタイトルの7493という数字は「プロデビューが1974年、現在が1993年」という意味で、デビュー20周年を記念するツアーとなった。 |- |[[1994年]][[4月25日]]〜[[1995年]][[1月13日]] |34 |[[ON THE ROAD '94 "THE MOMENT OF THE MOMENT"]] |アルバム『[[その永遠の一秒に]]』を引っ提げての、ON THE ROAD '93から続けて行われたアリーナツアー。[[町支寛二]]の[[脳腫瘍]]の手術のため一旦中断し、最終公演が1995年の[[仙台市体育館]]公演にずれ込んだ。 |- |[[1996年]][[11月11日]]〜[[1997年]][[4月13日]] |29 |[[ON THE ROAD '96 "Tender is the night"]] |アルバム『[[青空の扉]]』を引っ提げての約2年振りのアリーナツアー。タイトルは[[F・スコット・フィッツジェラルド|フィッツジェラルド]]の小説から。冬季のため[[北海道]]の会場が[[スケート場]]になっており使用できなかったが、4月に北海道での最終追加公演が開催された。 |- |[[1998年]][[4月10日]]〜[[2000年]][[9月6日]] |161 |[[ON THE ROAD 2001 (コンサートツアー)|ON THE ROAD 2001 "THE MONOCHROME RAINBOW"]] |1998年から2001年まで続く前代未聞の4年間のロングツアー。そのうち2000年までの3年間はホールやライブハウスが中心で、全国47都道府県を回った。初のファンクラブ限定ライブも開催された。 |- |[[2001年]][[9月1日]]〜[[2002年]][[1月11日]] |37 |[[ON THE ROAD 2001 (コンサートツアー)|ON THE ROAD 2001 "THE SHOGO MUST GO ON"]] |アルバム『[[SAVE OUR SHIP]]』を引っ提げ、4年間のツアーを締めくくった5年ぶりのアリーナツアー。タイトルは「THE SHOW MUST GO ON」と掛けられた洒落になっている。このツアーで初めてセンターステージを披露した。2002年1月に20年振りとなる[[日本武道館]]公演を開催。4年間で60万人を動員。 |- |[[2005年]][[9月3日]]〜[[2005年]][[12月11日]] |26 |[[ON THE ROAD 2005 "MY FIRST LOVE"]] |アルバム『[[My First Love (アルバム)|My First Love]]』を引っ提げての約4年振りとなるアリーナツアー。前回に引き続き、アンコールではセンターステージを披露。のべ25万人を動員。 |- |[[2006年]][[9月15日]]〜[[2007年]][[11月27日]] |83 |[[ON THE ROAD 2006-2007 "MY FIRST LOVE IS ROCK'N'ROLL"]] |ソロデビュー30周年を記念した2年間に渡るホールツアー。ホールツアーとしては6年振りとなる。デビュー当時の出で立ちで弾き語りを披露するコーナーが設けられた。のべ15万人を動員。 |- |[[2011年]][[4月15日]]〜[[2012年]][[6月3日]] |37 |[[ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend" (コンサートツアー)|ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend"]] |約3年半振りのツアー。アリーナツアーとしては5年半振りとなる。[[東日本大震災]]を受けて、急遽チャリティー追加公演も開催された。また震災の影響により仙台公演が2011年7月から翌年5月に延期された。2012年6月には「ON THE ROAD SPECIAL "The Last Weekend"」と題した、東日本大震災の2回目の復興支援コンサートを[[さいたまスーパーアリーナ]]にて開催され「"The Last Weekend"」と題したツアーが終了。のべ35万人を動員。 |} == 野外ライブ == 通常のツアーとは別に、大規模な野外ライブを開催することがある。その際、既存の野外施設ではなく、初めてコンサートで使用される場所が選ばれることが多い {| border="1" cellpadding="3" class="wikitable" style="font-size:smaller" |- !期日 !コンサートタイトル !備考 |- |[[1983年]][[8月13日]] |A PLACE IN THE SUN at [[海の中道海浜公園|福岡海の中道]] |初の野外コンサート。ON THE ROAD '83の春ツアーと秋ツアーの合間に開催された。 |- |[[1984年]][[4月29日]] |A PLACE IN THE SUN at [[横浜スタジアム]] |初のスタジアムコンサート。ON THE ROAD '83のツアーファイナル。 |- |[[1985年]][[5月25日]]・[[5月26日|26日]] |ON THE ROAD '85 [[よみうりランド|東京よみうりランド"EAST"]] |ON THE ROAD '85ツアーのスタートとして2DAYS開催。 |- |[[1988年]][[8月20日]] |A PLACE IN THE SUN at [[渚園]] |ON THE ROAD '88の春ツアーと秋ツアーの合間に開催された。 |- |[[1991年]][[8月10日]] |ON THE ROAD '91 [[仙台市|仙台]][[みちのく杜の湖畔公園]] |ON THE ROAD '91のツアーファイナル。 |- |[[1999年]][[7月24日]]・[[8月7日]]・[[8月15日|15日]] |ON THE ROAD 2001 LET SUMMER ROCK '99 "SUNSHINE PICNIC&MOONLIGHT DANCING" |ON THE ROAD 2001 "THE MONOCHROME RAINBOW"の3クールと4クールの合間に[[北海道]][[キロロリゾート]]・[[広島県|広島]][[国営備北丘陵公園]]・[[東京都|東京]][[国営昭和記念公園]]の3公演開催。 |- |[[2001年]][[10月23日]] |ON THE ROAD 2001 [[宜野湾市]][[宜野湾海浜公園|海浜公園屋外劇場]] |ON THE ROAD 2001 "THE SHOGO MUST GO ON"の沖縄公演。 |- |} == 日本武道館 == 武道館コンサートは、これまでに2回(3公演)開催されている。 {| border="1" cellpadding="3" class="wikitable" style="font-size:smaller" |- !期日 !コンサートタイトル !備考 |- |[[1982年]][[1月12日]] |愛の世代の前に in 1982 at 武道館 |初の武道館コンサート。アルバム『[[愛の世代の前に]]』発表後に開催され、大方の予想に反してチケットは即日完売。この日の模様を収めた[[ライブアルバム]]『[[ON THE ROAD (アルバム)|ON THE ROAD]]』も発売された。 |- |[[2002年]][[1月11日]]・[[1月12日|12日]] |SHOGO HAMADA AT BUDOKAN ON THE ROAD "THE SHOGO MUST GO ON" |前回の武道館コンサートから、ちょうど20年が経ったのを記念して、ON THE ROAD 2001 "THE SHOGO MUST GO ON"の追加公演として2DAYS開催。 |- |} == ファンクラブ == 唯一の公式ファンクラブは「[[ロード&スカイ|Road & Sky]]」(所属事務所と同名)。[[1983年]]に[[ホリプロ]]から独立して、新事務所を設立してから発足した。 現在は37,000人を超える会員が在籍している。男女比は、およそ2:1の割合で女性のほうが多い。 === 特典 === * 入会すると、入会証と[[キーホルダー]]が送られてくる。 * 2ヵ月に1回(年6回)、会報誌を発行している。およそ半数のページは浜田へのインタビューで、滅多にメディアに登場しない浜田省吾の貴重な情報源となっている。また、お正月号では特典グッズが付いている。 * [[公式サイト]]のファンクラブ会員限定ページにアクセスできる。浜田からの動画メッセージや過去の会報バックナンバーなどを閲覧することが出来る。 * コンサートツアーが開催された際には、ファンクラブ会員へのチケット先行発売が行われる。ただし、絶対にチケットが獲れるわけではなく、あくまで抽選である。 === イベント === これまでに何度かファンクラブ会員限定のイベントが開催されている。[[1998年]]に初めてファンクラブ限定のコンサートが行われた。 * 1986年 FIRST MEETING * 1987年 SECOND MEETING * 1989年 3rd MEETING * 1995年 Member's Only Special EVENT * 1998年-2000年 100% FAN FUN FAN ON THE ROAD 2001 "THE MONOCHROME RAINBOW" * 2003年 100% FAN FUN FAN 2003 * 2009年 100% FAN FUN FAN 2009 featuring Katz Hoshi 春の音楽会「春来たりなば夏遠からじ…」 * 2013年 100% FAN FUN FAN On The Avenue 2013 「曇り時々雨のち晴れ」 == 関連人物 == * [[吉田拓郎]] *: 同じ[[広島県|広島]]出身であり、「[[広島フォーク村]]」の先輩でもある。プロ・デビューのきっかけを与えてくれた恩人。[[1997年]]には「[[イメージの詩 (浜田省吾の曲)|イメージの詩]]」をカバーしている。 * [[町支寛二]] *: 高校時代からの音楽パートナーで、40年以上の付き合いがある。浜田作品のほぼ全てにおいてコーラス・アレンジを手掛けている。ツアーでもギタリスト&コーラスとして参加している。浜田がまだ売れていなかった頃には[[マネージャー]]を務めたりもしており、「彼がいたからここまで来れた」と感謝の気持ちを述べている。 * [[水谷公生]] *: [[1978年]]発表のアルバム『[[Illumination]]』以来、長きに渡って浜田作品のプロデュースを手掛けている。浜田は「音楽の師」と仰いでいる。音楽ユニット「[[Fairlife]]」でも共に活動。 * [[星勝]] *: 元[[ザ・モップス|モップス]]のメンバー。水谷と同様、数多くの浜田省吾の作品をプロデュースしている。 * [[山下達郎]] *: 同期デビューで同学年(山下は[[1953年]][[2月4日]]生まれ)。それぞれ音楽性は違うが、互いの音楽を評価し、ファンクラブ誌上での対談やステージ競演も行っている。プライベートでも渋谷陽一を介して交流がある。 * [[尾崎豊]] *: 浜田に影響を受けたことを公言していた。ディレクターも同じ[[ソニー]]の[[須藤晃]]が担当していた。一時期は[[ロード&スカイ]]にも所属していた。 * [[桜井和寿]]([[Mr.Children]]) *: 同じく、浜田に影響を受けたミュージシャン。普段はあまり音楽を聴かないらしいが、浜田省吾のアルバムは熱心に聴くらしい。雑誌での対談やステージ競演も行っている。 * [[吉田栄作]] *: 若い頃から浜田のファンと公言し<ref>[http://jisin.jp/serial/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%A1/jisin/2344_3 音楽デビュー20周年を記念して、14年振りのCDリリース!~吉田栄作インタビュー~ 第3回]</ref>『[[笑っていいとも]]』初出演時に「[[MONEY (浜田省吾の曲)|MONEY]]」に関わるエピソードを話したことでも知られる。 * [[渋谷陽一]] *: 音楽評論家。[[ロッキング・オン]]社長。公私に渡って浜田と長い付き合いがある。 * [[三浦知良]] *: [[ロード&スカイ]]グループでマネジメント契約している。学生の頃から浜田のファンで、[[ブラジル]]にサッカー留学していたときに共通の知人を通じて知り合う。サッカーに対する真っ直ぐな姿勢に浜田が感銘を受け、日本帰国後も交流を続けている。 * [[吉野弘]] *: 浜田が最も敬愛する詩人。アルバム『[[CLUB SNOWBOUND]]』では吉野の詩を引用するなど、多大な影響を受けている。本人は「本当に素晴らしい詩人だから、影響を受けたっていうとおこがましい」と語っている。 == 脚注 == {{Reflist}} === 注釈 === {{Reflist|group=注}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|author=[[田家秀樹]]|year=1988|month=|title=陽のあたる場所 浜田省吾ストーリー|publisher=[[角川文庫]]|isbn=|ref=陽のあたる}} * {{Cite book|和書|author=|year=1996|month=|title=Complete Shogo Hamada 浜田省吾事典|publisher=[[TOKYO FM出版]]|isbn=4-924880-60-4|ref=事典}} * {{Cite book|和書|author=[[渋谷陽一]]|year=1999|month=|title=青空のゆくえ - 浜田省吾の軌跡|publisher=[[ロッキング・オン]]|isbn=|ref=青空}} * 「[[別冊宝島]]804 音楽誌が書かないJポップ批評26」 [[宝島社]](2003) * {{Cite book|和書|author=[[渋谷陽一]]|year=1986|month=|title=ロックは語れない}|publisher=[[新潮社]]|isbn=4-10-146701-3|ref=ロックは}} * 「[[僕と彼女と週末に]]」[[田家秀樹]]著 [[幻冬舎]]([[2012年]]) * {{Cite |和書|author=別冊宝島編集部|title=音楽誌が書かないJポップ批評26 |series=別冊宝島804|date=2003-06|publisher=[[宝島社]]|isbn=|ref=批評}} == 外部リンク == * {{Official|http://shogo.r-s.co.jp/}} * [http://www.youtube.com/shogohamadaSMEJ SHOGO HAMADA Official YouTube Channel] (公式YouTubeチャンネル) * [https://sh-otr2011.jp/ SHOGO HAMADA ON THE ROAD 2011 The Last Weekend] (2011年〜2012年 公式ツアー・サイト) * [http://www.shogo21.com/ 浜田省吾〜ON THE ROAD@FUTURE] (Sony Music Onlineによるオフィシャル・サイト) * [http://www.sonymusic.co.jp/Music/Arch/SMER/ShogoHamada/index.html 浜田省吾|Sony Music] (ソニーミュージックによるアーティスト・サイト) * [http://www.r-s.co.jp/ Rosd&Sky Group Web Site] (所属事務所) {{浜田省吾}} {{愛奴}} {{Fairlife}} {{DEFAULTSORT:はまた しようこ}} [[Category:日本のシンガーソングライター]] [[Category:日本のフォークシンガー]] [[Category:日本のドラマー]] [[Category:過去のホリプロ所属者]] [[Category:ソニー・ミュージックレコーズのアーティスト]] [[Category:エスエムイーレコーズのアーティスト]] [[Category:広島県出身の人物]] [[Category:1952年生]] [[Category:存命人物]]
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