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{{日本の城郭概要表| img =ファイル:140405 Tsu Castle Tsu MIe pref Japan16s3.jpg| img_capt =| img_width =300px| name = 津城| pref = 三重県| ar_called = 安濃津城| struct = 輪郭式平城| tower_struct = 5重(織田期)非現存| builders = [[細野藤敦]]| build_y = [[永禄]]年間([[1558年]] - [[1570年]])| revamp = [[織田信包]]、[[藤堂高虎]]| rulers = [[細野氏]]、[[織田氏]]、[[富田氏]]<br>[[藤堂氏]]| reject_y = [[明治]]4年([[1871年]])| remains = 石垣、堀| cultural asset = 三重県史跡<ref>{{Cite web |date= |url=http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/bunkazai/da/item/detail.asp?spetype=11&prePageNum=2&mngnum=0000321 |title=津城跡 |publisher=三重県教育委員会 |accessdate=2012-08-05}}</ref>| rebuilding things = 模擬隅櫓| location = {{ウィキ座標2段度分秒|34|43|3.96|N|136|30|27.57|E|scale:10000}}| }} [[ファイル:Tsu Castle air.jpg|thumb|津城の航空写真<br>(1982年撮影・国土航空写真)]] [[ファイル:140405 Tsu Castle Tsu MIe pref Japan01s.jpg|thumb|丑寅櫓]] '''津城'''(つじょう)は[[日本]]の[[城]]。別名・'''安濃津城'''(あのつじょう)。 == 概要 == 津城は[[三重県]][[津市]][[丸之内 (津市)|丸之内]]にあり、津市街の中心部に位置する。北は[[安濃川]]、南は[[岩田川]]に挟まれ、これらを天然の大外堀としていた。 [[江戸時代]]初期に築城の名手・藤堂高虎により近代城郭として大改修され[[津藩]]の藩庁となった。江戸期の津城は中央に内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東丸・西丸があり、本丸・東・西丸を取り囲んで二の丸が配された輪郭式の[[平城]]であった。 現在の城跡は「'''お城公園'''、'''お城西公園'''」として整備されている。また、その他の城址には津市役所や裁判所、津警察署などが建ち並んでいる。 == 沿革 == 現在の津市の古称は[[安濃津]](あのつ)であり、[[平安時代]]より[[伊勢国]]政治経済の中心地となっていた。[[鎌倉時代]]は藤原南家の流れの[[工藤氏]]を祖とする[[長野工藤氏|長野氏]]が支配していた。 津城の起源は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の永禄年間([[1558年]] - [[1569年]])に、長野氏の一族の[[細野藤敦]]が安濃・岩田の両河川の[[三角州]]に小規模な安濃津城を構えたことに始まる。 永禄11年([[1568年]])[[織田信長]]の伊勢侵攻により織田掃部頭([[織田忠寛|津田一安]])が入城。翌年には[[織田信包]]が入城した。信包は城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備した。[[天正]]5年([[1577年]])には5重[[天守]]と小天守を落成した。 [[豊臣氏]]の時代になると、[[文禄]]3年([[1594年]])信包は[[豊臣秀吉|秀吉]]の命により[[丹波国]]柏原へ移され、翌年、豊臣氏家臣の[[富田一白]]が5万石(6万石とも)を与えられ入城した。一白の子、[[富田信高|信高]]は[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]で東軍につき、西軍方の[[毛利秀元]]・[[長宗我部盛親]]軍3万の軍勢に城を攻撃された。迎える信高軍は1,300人と劣勢であったため苦戦を余儀なくされ、城内の建造物の大半を焼失した。奮戦の末、[[木食応其|木食上人]]の調停により開城となった。しかし、この奮戦により戦後、[[江戸幕府]]より2万石の加増を受けた。([[安濃津城の戦い]]) 慶長13年([[1608年]])信高は[[伊予国|伊予]][[宇和島藩]]に移封となり、代わって伊予[[今治藩]]より[[藤堂高虎]]が伊勢・[[伊賀国|伊賀]]22万石をもって入城した。高虎は城の大改修に着手し輪郭式の城郭に変貌させ、[[城下町]]を整備した。以後、[[明治維新]]まで藤堂氏の居城となった。 [[大坂の役]]の功により[[元和 (日本)|元和]]元年([[1615年]])と元和3年([[1617年]])に5万石ずつの加増を受け、藤堂氏は32万3,000石の大[[大名]]となった。 なお、天守は関ヶ原の戦いで焼失し再建されなかったとされる。しかし、近年の研究では[[寛永]]年間([[1624年]] - [[1643年]])に描かれた絵図に三重天守と二重小天守が描かれており、これは富田氏が再建したと思われる。そして、その天守は[[寛文]]2年([[1662年]])の火災で焼失し、幕府への遠慮から再建されなかったと考えられている。 津は江戸期を通じて[[伊勢神宮]]参拝の宿場町として栄え「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭に謡われた。 [[明治]]4年([[1871年]])[[廃藩置県]]により廃城となり、以後、建造物は破却された。その後、「お城公園」として本丸跡に[[日本庭園]]が整備され、[[昭和]]33年([[1958年]])に丑寅櫓が復元された。 現在本丸跡の日本庭園入口には[[藩校]][[有造館]]の正門の入徳門が移築現存している。 <gallery widths="160px" heights="110px"> ファイル:140405 Tsu Castle Tsu MIe pref Japan10s3.jpg|堀 ファイル:140405 Tsu Castle Tsu MIe pref Japan04s3.jpg|入徳門 ファイル:140405 Tsu Castle Tsu MIe pref Japan03s3.jpg|本丸跡の日本庭園 </gallery> == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * {{Cite book|和書|editor=西ヶ谷恭弘|title=定本 日本城郭事典|publisher=[[秋田書店]]|year=2000|pages=209-210|isbn=4-253-00375-3}} == 関連項目 == {{Commonscat|Tsu Castle}} *[[日本の城一覧]] == 外部リンク == * [http://www.info.city.tsu.mie.jp/modules/shogaigakushusupotsuka/article.php?articleid=240 津城跡] 津市ホームページ * [http://www.tsukanko.jp/article/article.php?case=disp_data&sendNo=24 津城] 津市観光協会 {{DEFAULTSORT:つしよう}} [[Category:三重県の城]] [[category:津市の歴史]] [[category:伊勢国]] [[Category:三重県指定史跡]] [[Category:細野氏|城つしよう]] [[Category:勝幡織田氏|城つしよう]] [[Category:富田氏|城つしよう]] [[Category:藤堂氏|城つしよう]] [[Category:津藩]]
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