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泉涌寺
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{{日本の寺院| 名称 = 泉涌寺| 画像 = [[ファイル:Sennyuji Kyoto02bs4350.jpg|300px]]<br />仏殿(重要文化財)| 所在地 = 京都府京都市東山区泉涌寺山内町27| 位置 = {{coord|34|58|41.59|N|135|46|52.76|E|region:JP-26_type:landmark|display=inline,title}}| 山号 = 東山(とうざん)、泉山(せんざん)| 宗派 = [[真言宗泉涌寺派]]| 寺格 = 総本山| 本尊 = [[釈迦如来]]、[[阿弥陀如来]]、[[弥勒如来]]| 創建年 = 伝・[[斉衡]]3年([[856年]])| 開基 = 伝・神修上人| 正式名 = | 別称 = '''御寺(みてら)'''| 札所等 = [[真言宗十八本山]]8番<br/>[[洛陽三十三所観音霊場]]20番(楊貴妃観音堂)<br/>[[京都十三仏霊場]]6番| 文化財 = 泉涌寺勧縁疏、附法状(国宝)<br/>大門、仏殿、木造観音菩薩坐像ほか(重要文化財)| }} '''泉涌寺''' (せんにゅうじ)は、[[京都市]][[東山区]]泉涌寺山内(やまのうち)町にある[[真言宗泉涌寺派]]総本山の寺院。山号は東山(とうざん)または泉山(せんざん)。本尊は[[釈迦如来]]、[[阿弥陀如来]]、[[弥勒如来]]の三世仏。 平安時代の草創と伝えるが、実質的な開基(創立者)は鎌倉時代の月輪大師[[俊じょう|俊芿]](がちりんだいししゅんじょう)<!--「げつりんだいし」等と読まれないために読み仮名は必要。-->である。[[東山 (京都府)|東山三十六峰]]の南端にあたる月輪山の山麓に広がる寺域内には、鎌倉時代の[[後堀河天皇]]、[[四条天皇]]、江戸時代の[[後水尾天皇]]以下幕末に至る歴代天皇の陵墓があり、皇室の[[菩提寺]]として「御寺(みてら)泉涌寺」と呼ばれている。 ==歴史== [[仁和寺]]、[[大覚寺]]などと共に皇室ゆかりの寺院として知られるが、草創の時期や事情についてはあまり明らかではない。伝承によれば、[[斉衡]]3年([[856年]])、[[藤原式家]]の流れをくむ左大臣[[藤原緒嗣]]が、自らの山荘に神修上人を開山として草創。当初は法輪寺と称し、後に仙遊寺と改めたという。なお、『[[続日本後紀]]』によれば藤原緒嗣は[[承和 (日本)|承和]]10年([[843年]])に没しているので、上述の伝承を信じるとすれば、藤原緒嗣の遺志に基づき、菩提寺として建立されたということになる。 別の伝承は開創者を[[空海]]とする。すなわち、空海が[[天長]]年間(824年-834年)、この地に草創した法輪寺が起源であり、斉衡2年([[855年]])藤原緒嗣によって再興され、仙遊寺と改めたとするものである。空海による草創年代を[[大同 (日本)|大同]]2年([[807年]])とする伝承もあり、この寺院が後の[[観音寺 (京都市東山区)|今熊野観音寺]](泉涌寺山内にあり、[[西国三十三所]]観音霊場の第15番札所)となったともいう。以上の伝承を総合すると、平安時代初期に草創された前身寺院が平安時代後期には荒廃していたのを、鎌倉時代に再興したものと思われる。 鎌倉時代の[[建保]]6年([[1218年]])、宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を俊芿に寄進、俊芿は多くの人々の寄付を得てこの地に大伽藍を造営し、霊泉が湧いたので、寺号を泉涌寺としたという(旧寺号の「仙遊寺」と音が通ずる点に注意)。宇都宮信房は[[源頼朝]]の家臣で、豊前国守護に任じられた人物であり、俊芿に帰依していた。俊芿(1166-1227)は肥後国(熊本県)出身の学僧で、[[正治]]元年([[1199年]])[[宋 (王朝)|宋]]に渡り、足かけ13年の滞在で天台と律を学び、[[建暦]]元年([[1211年]])日本へ帰国した。彼は宋から多くの文物をもたらし、泉涌寺の伽藍は全て宋風に造られた。 [[ファイル:Sennyuji Kyoto11o4592.jpg|thumb|月輪陵。歴代天皇らの25陵、5灰塚、9墓が営まれている]] 泉涌寺は[[律宗|律]]を中心として天台、東密(真言)、禅、浄土の四宗兼学(または律を含めて五宗兼学とも)の道場として栄えた。[[貞応]]3年([[1224年]])には[[後堀河天皇]]により皇室の祈願寺と定められた。後堀河天皇と次代の[[四条天皇]]の陵墓は泉涌寺内に築かれ、この頃から皇室との結び付きが強まった。江戸時代には[[後水尾天皇]]以下、幕末の[[孝明天皇]]に至る歴代天皇が山内に葬られている。泉涌寺はこれらの皇室の陵墓に対して香をたき、花を供える[[香華院]]となり、「御寺(みてら)」と尊称されている。 [[応仁の乱]]による焼失を初め、諸堂はたびたびの火災で焼失しており、現存の堂宇は近世以降の再建である。[[大日本帝国憲法]]施行以来[[日本国憲法]]施行まで、営繕・修理費は全て[[宮内省]]が支出していた。 ==伽藍== 総門を入ると、参道の左右にいくつかの[[塔頭]](山内寺院)がある。長い参道の先にある大門(重文)をくぐると、左手に楊貴妃観音堂があり、正面には伽藍の中心をなす仏殿(重文)、舎利殿が建ち、これらの背後に霊明殿、御座所など皇室ゆかりの建築があり、その背後に月輪陵がある。 *大門(重文)-[[慶長]]年間(江戸時代初頭)造営の御所の門を移築したもの。 *楊貴妃観音堂-大門を入ってすぐ左手の奥まったところに建つ。中国・南宋時代の作である観音菩薩坐像(通称楊貴妃観音)を安置する。 *心照殿-楊貴妃観音堂に接して建つ宝物館で、泉涌寺および塔頭寺院所蔵の文化財を順次公開している。 *仏殿(重文)-[[寛文]]8年(1668年)、[[徳川家綱]]の援助で再建したもの。密教寺院の中心堂宇は「本堂」「金堂」と称することが多いが、当寺では宋風の「仏殿」の呼称を用いる。内部は禅寺風の土間とし、柱、窓、組物、天井構架等の建築様式も典型的な禅宗様になる。本尊は過去・現在・来世を表す釈迦・阿弥陀・弥勒の3体の如来像を安置する。天井の竜の図と本尊背後の白衣(びゃくえ)観音図は[[狩野探幽]]の筆になる。 *舎利殿-仏殿の背後に建つ。俊芿の弟子湛海が南宋慶元府の白蓮寺から請来したという仏牙舎利(釈尊の歯)を安置する。 *霊明殿-[[天智天皇]]と[[光仁天皇]]から[[昭和天皇]](南北両朝の天皇も含む)に至る歴代天皇皇后の尊牌(位牌)を安置する。1884年の再建。 [[ファイル:Sennyuji Kyoto23n4592.jpg|thumb|御座所庭園]] *御座所-仏殿・舎利殿の背後に建つ。[[安政]]年間(江戸時代末期)に建立され、[[明治天皇]]が使用していた旧御所の御里御殿を1884年に移築したもの。女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。玉座の間は、天皇皇后が来寺した際に休息所として使用する部屋である。平成期(1989年-)に入ってからは、即位報告(1990年)、平安建都1,200年記念(1994年)、在位10年の報告(1999年)などの際に[[明仁|今上天皇]]が泉涌寺を訪れ、この部屋を使用している。 *海会堂(かいえどう)-御座所に接して建つ土蔵造の仏堂。屋根は宝形造。元は宮中にあり、「黒戸」と呼ばれていた仏堂を明治元年(1868年)の[[神仏分離令]]発布を機に泉涌寺に移築したものである。かつての天皇、皇后、親王らの念持仏(守り本尊)20数体が安置されている。 *浴室 *泉涌水屋形 *月輪陵-歴代[[天皇]]、[[皇室]]の陵墓群。[[宮内庁]]が管理している。 <gallery> ファイル:Sennyuji Kyoto13n4500.jpg|泉涌水屋形 ファイル:Sennyuji Kyoto08n4592.jpg|浴室 ファイル:Sennyuji Kyoto07n4592.jpg|大門 ファイル:Sennyuji Kyoto06n4592.jpg|総門 ファイル:Sennyuji Kyoto03n4592.jpg|舎利殿 </gallery> == 別院・塔頭 == 泉涌寺の塔頭としては西国三十三所観音霊場第15番札所の観音寺([[観音寺 (京都市東山区)|今熊野観音寺]])、重要文化財の木造阿弥陀如来及び二十五菩薩像を安置する[[即成院]](そくじょういん)、高さ約10メートル(台座・光背含む)の木造釈迦如来立像を安置する[[戒光寺]]などがある。南北朝期より続く、本尊薬師如来と走り大黒天で有名な西国薬師第四十番 別格本山[[雲龍院]]は泉涌寺の別院である。 *[[雲龍院]](泉涌寺別院) *悲田院 *[[来迎院 (京都市東山区)|来迎院]] *[[善能寺 (京都市)|善能寺]] *[[観音寺 (京都市東山区)|今熊野観音寺]] *新善光寺 *法音院 *[[戒光寺]] *[[即成院]] == 楊貴妃観音像 == 重要文化財。楊貴妃観音堂に安置される。[[建長]]7年(1255年)俊芿の弟子湛海が仏舎利と共に中国・[[南宋]]から請来したものとされる。 長らく100年に一度だけ公開する秘仏であったが、請来から700年目の1955年(昭和30年)から一般公開されている。作風、材質など、明らかに日本の仏像とは異質で、寺伝どおり中国・南宋時代の作と考えられている。 なお、舎利殿に安置される木造韋駄天立像と木造伝・月蓋長者(がつがいちょうじゃ)立像も南宋時代の作であり、楊貴妃観音像と共に1997年、重要文化財に指定されている。 ==文化財== === 国宝 === *泉涌寺勧縁疏(かんえんそ)-俊芿筆。俊芿が、荒廃した前身寺院を「泉涌寺」と改名して再興するため、人々の喜捨(寄付)を募るための趣意書。泉涌寺建立の起源にかかわる歴史上重要な文書であると共に、書道作品としても優れている。 *附法状-俊芿が死の前月、弟子の心海に自らの法を嗣いだ証明として書き与えたもの。 === 重要文化財 === *仏殿 *大門 *開山堂 *開山塔(石造無縫塔) *石造無縫塔 2基 *絹本著色道宣律師・元照律師像 *絹本著色俊芿律師像 *絹本著色後陽成院像 [[狩野孝信]]筆 *木造観音菩薩坐像(楊貴妃観音)附:木造韋駄天立像、木造伝月蓋長者立像 - 解説は既出 *太刀 銘大和則長 *中御門天皇宸翰大円覚心照国師号勅書 *法華経 10巻(泉涌寺・雲龍院共有) == 札所等 == ;[[真言宗十八本山]] :7 [[智積院]] -<small></small>- '''8 泉涌寺''' -<small></small>- 9 [[教王護国寺]] ;[[洛陽三十三所観音霊場]] :19 [[今熊野観音寺]] -<small></small>- '''20 泉涌寺''' -<small></small>- 21 [[法性寺]] ;[[京都十三仏霊場]] :5 [[大善寺 (京都市)|大善寺]] -<small></small>- '''6 泉涌寺''' -<small></small>- 7 [[平等寺 (京都市下京区)|平等寺]] == 歌碑 == 境内には『[[枕草子]]』の作者である[[清少納言]]の父・[[清原元輔]]の旧居で、清少納言が晩年を過ごしたとされる月輪山荘にほど近い場所として、[[昭和]]49年([[1974年]])に[[平安博物館]]館長・[[角田文衞]]の発案で[[百人一首]]に採られた「夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ」の歌碑が建立されている。 == アクセス == *[[京都市営バス]]([[京都市営バス九条営業所#202・快速202号系統|202]]・[[京都市営バス九条営業所#207号系統|207]]・[[京都市営バス九条営業所#208号系統|208]]系統)「泉涌寺道」バス停下車、総門まで徒歩約5分、大門まで徒歩約10分。 *JR[[奈良線]]、[[京阪本線]]「[[東福寺駅]]」から総門まで徒歩約15分、大門まで約20分。 == 参考文献 == *井上靖、塚本善隆監修、田中澄江、小松道円著『古寺巡礼京都28 泉涌寺』、淡交社、1978 *[[竹村俊則]]『昭和京都名所図会 洛東上』駸々堂、1980 *『週刊朝日百科 日本の国宝』71号(豊国神社ほか)、朝日新聞社、1998 *『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社 *『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店 *『国史大辞典』、吉川弘文館 == 関連項目 == *[[日本の寺院一覧]] *[[:Category:日本の寺の画像|日本の寺の画像一覧]] ==外部リンク== *[http://www.mitera.org/ 御寺泉涌寺] *[http://www.unryuin.jp/ 別格本山雲龍院] * [http://kyoto.13butsu.org/ 京都十三佛霊場 公式ホームページ] {{Commonscat|Sennyuji}} {{DEFAULTSORT:せんにゆうし}} [[Category:京都市東山区の寺]] [[Category:真言宗泉涌寺派|*]] [[Category:日本の陵墓]] [[Category:日本の国宝 (書跡・典籍・古文書)]] [[Category:京都市の重要文化財]] [[Category:清少納言]] [[Category:江戸時代の建築]]
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