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沢松奈生子
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{{テニス選手 |選手名(日本語)=沢松奈生子 |写真= |写真サイズ= |写真のコメント= |選手名(英語)=Naoko Sawamatsu |フルネーム(英語名)= |愛称= |国籍={{JPN}} |出身地=同・兵庫県西宮市 |居住地= |誕生日={{生年月日と年齢|1973|3|23}} |没年日= |身長=168cm |体重=55kg |利き手=右 |バックハンド=両手打ち |デビュー年=1988年 |引退年=1998年 |ツアー通算=4勝 |シングルス=4勝 |ダブルス=0勝 |生涯通算成績=224勝177敗 |シングルス通算=205勝143敗 |ダブルス通算=19勝34敗 |全豪オープン=ベスト8(1995) |全仏オープン=4回戦(1991) |ウィンブルドン=4回戦(1992・94) |全米オープン=3回戦(1992・95) |優勝回数= |全豪オープンダブルス=3回戦(1995) |全仏オープンダブルス=1回戦(1992) |ウィンブルドンダブルス=2回戦(1992) |全米オープンダブルス=1回戦(1992) |ダブルス優勝回数= |シングルス最高=14位 |ダブルス最高=98位 }} '''沢松 奈生子'''('''さわまつ なおこ''', [[1973年]][[3月23日]] - )は、[[兵庫県]][[西宮市]]出身の元女子プロ[[テニス]]選手。3歳年上のライバル[[クルム伊達公子|伊達公子]]と並んで、日本女子テニス界の黄金時代を築いた名選手のひとりである。[[夙川学院中学校・高等学校|夙川学院高等学校]]、[[神戸松蔭女子学院大学]]卒業。シングルス自己最高ランキングは14位。[[女子テニス協会|WTA]]ツアーでシングルス4勝を挙げた。[[1975年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]女子ダブルスで、日本人女性初のテニス4大大会優勝を果たした[[沢松和子]]は、彼女の叔母に当たる。実弟の[[沢松登]]も[[同志社国際中学校・高等学校|同志社国際高等学校]]テニス部、[[同志社大学]]体育会テニス部を経て、[[東レ]]に入社、実業団テニス部にて活躍している。 == 選手経歴 == 沢松は曽祖父からのテニス一家に生まれ育った。母親の[[沢松順子]]は、妹の和子とペアを組んで[[1970年ウィンブルドン選手権|1970年ウィンブルドン]]女子ダブルスのベスト8に入ったことがある。父親の沢松忠幸は、和子と一緒に[[1974年ウィンブルドン選手権|1974年ウィンブルドン]]の混合ダブルスを戦った経験があり、“両親ともウィンブルドン出場経験あり”の家族だった。5歳の時に忠幸が[[ドイツ]]・[[デュッセルドルフ]]に転勤を命じられたため、奈生子は10歳(日本の小学校5年生)まで5年間ドイツで過ごし、そこでテニスの腕を磨いた。 [[1988年]]、15歳6ヶ月の若さで[[全日本テニス選手権]]の女子シングルスに初出場で初優勝を果たす。これは[[1983年]]の[[雉子牟田明子]]の「15歳4ヶ月」に続く2番目の年少優勝記録であった。この年は[[1988年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]ジュニア部門のベスト16、[[1988年全米オープン (テニス)|全米オープン]]ジュニア部門のベスト8進出もある。夙川学院高校在学中、2年連続で[[全国高校総合体育大会|インターハイ]]の団体優勝を成し遂げた。[[1990年]]に「シンガポール・オープン」で[[女子テニス協会|WTA]]ツアー初優勝。神戸松蔭女子学院大学進学と同時にプロ入りをする。[[1991年]]の[[1991年全仏オープン|全仏オープン]]1回戦で、前年度([[1990年]])の[[1990年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]準優勝者[[ジーナ・ガリソン]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]])を破り、その勢いに乗って4回戦まで勝ち進んだ。[[1992年]]の[[1992年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]4回戦では、当時16歳の“天才少女”として注目を集めていた[[ジェニファー・カプリアティ]]と対戦。最終セットで一時リードを奪ったが、3-6, 6-4, 4-6 の激戦で敗れた。 [[1995年]]の[[1995年全豪オープン|全豪オープン]]選手権の期間中、[[1月17日]]に[[阪神・淡路大震災]]が発生した。[[西宮市]]にある沢松の自宅は全壊の被害に遭ったが、家族は全員無事に助かった。この全豪オープンで沢松は4大大会の自己最高成績を記録し、1回戦は[[杉山愛]]に勝ち、3回戦でライバルの[[クルム伊達公子|伊達公子]]に5年ぶりの勝利を収める。伊達に 3-6, 6-3, 6-3 で逆転勝ちした後、初進出の準々決勝で第1シードの[[アランチャ・サンチェス・ビカリオ]]に 1-6, 3-6 で敗れた。[[1996年]]の[[1996年全豪オープン|全豪オープン]]では、4回戦で刺傷事件からの復帰を果たした同じ年の[[モニカ・セレシュ]]に 1-6, 3-6 で敗れている。 沢松は[[1998年]]の[[1998年全米オープン (テニス)|全米オープン]]2回戦で、当時16歳の新星[[ミリヤナ・ルチッチ]]([[クロアチア]])に完敗した時に現役引退を決断する。同年9月第4週に東京・[[有明コロシアム]]で開かれた「[[トヨタ・プリンセス・カップ]]」2回戦で[[モニカ・セレシュ]]に 3-6, 6-3, 3-6 で敗れたのが最後の試合になった。引退時の世界ランキングは43位であった。 沢松はキャリアを通して、10年間にわたり世界ランキングトップ50位以内の座を維持した。[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]でも、初出場だった[[1990年全仏オープン|1990年全仏オープン]]から、最後の[[1998年全米オープン (テニス)|1998年全米オープン]]まで「34大会」連続で本戦に直接出場を果たす。[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]では[[1990年ウィンブルドン選手権|1990年]]-[[1998年ウィンブルドン選手権|1998年]]まで9年連続出場、「16勝9敗」の好成績を残した。オリンピックにも[[バルセロナオリンピックにおけるテニス競技|1992年バルセロナ五輪]]と[[アトランタオリンピックにおけるテニス競技|1996年アトランタ五輪]]の2度出場している。 現役引退後はテニスの普及活動に取り組む傍ら、テニス中継の解説者・コラム執筆などに携わり、[[NHKラジオ第1放送]]の「[[かんさい土曜ほっとタイム]]」([[NHK大阪放送局|大阪放送局]]制作)でパーソナリティ(隔週、[[2003年]]から[[2007年]]2月17日まで)を務めた。現在は[[日本テニス協会]]普及本部環境委員と[[日本オリンピック委員会]]総務委員会事業広報専門委員を務めている。 == 出演 == === テレビ === <!-- 単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「Wikipedia:ウィキプロジェクト 芸能人」参照 --> *[[ちちんぷいぷい (テレビ番組)|ちちんぷいぷい]]([[MBSテレビ|毎日放送]]、火曜日 → 金曜日コメンテーター、2012年3月 - <ref>当時ぷいぷい火曜コメンテーターだった[[前田典子]]が東京での仕事が増えて出演できなくなった為。</ref>) - 関西ローカル == 脚注・出典 == {{脚注ヘルプ}} <div class="references-small"><references /></div> == 外部リンク == * {{WTA|id=7458|name=沢松奈生子}} * {{Fed Cup|20001292|沢松奈生子}} * {{ITF|20001292|沢松奈生子}} {{DEFAULTSORT:さわまつ なおこ}} [[Category:日本のテニス選手]] [[Category:オリンピックテニス日本代表選手]] [[Category:兵庫県出身の人物]] [[Category:神戸松蔭女子学院大学出身の人物]] [[Category:1973年生]] [[Category:存命人物]]
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