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江口隆哉
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'''江口 隆哉'''(えぐち たかや、[[1900年]][[1月21日]] - [[1977年]][[12月25日]])は、[[青森県]][[上北郡]][[野辺地町]]出身の[[ダンサー]]。本名、捨松。日本の[[モダンダンス]]の父。弟の[[江口乙矢]]もダンサーでモダンダンスの功労者。 ==来歴== 江口隆哉は妻の[[宮操子]]とともに、[[大正時代]]の当時から先進的なダンスが試みられていた[[ドイツ]]に渡り、ドイツ流のモダンダンス(ノイエ・タンツNeue Tanz)を学び、帰国。日本の[[洋舞]]の黎明期に大きな影響を与えた。当時のヨーロッパで主流だったクラシック[[バレエ]]が普及する以前、日本にモダンダンスが定着したのも江口隆哉、宮操子夫妻の功績が大きい。モダンダンスは門下生を通じて、[[体操]]や[[体育]]、[[幼児教育]]の[[遊戯]]にまでその影響力を広げていった。江口隆哉自身も、[[1948年]]から[[日本女子体育大学]]短大部(現在は日本女子体育大学運動科学部)の講師に就任、要望かなってのちに舞踊科が設立されたとき初代の学科主任に任ぜられている。これは日本の[[高等教育]]機関に[[ダンス]]専攻が設けられた最初であった。日本のダンス教育がいかに遅れていたかが分かる。江口隆哉は[[1977年]]没。門下生は今も日本の洋舞界の要所を占めている。[[2000年]]1月、「ゆうぽうと」と[[新国立劇場]]で一週間にわたって盛大に行われた「江口隆哉生誕100年祭」には、大阪で舞踊団を主宰する、弟の江口乙矢とその息子江口満典も出演した。乙矢が故郷野辺地への想いをダンスに託して最後に振付けた作品は、[[藩政]]時代[[上方]]との交易で繁栄を極めた野辺地湊のシンボルというべき『[[常夜灯]]』だった。江口満典の遺作は『星になる』だった。 その後、満典は[[2002年]]に、乙矢も[[2004年]]に相次いで亡くなった。 ==著書== *歩く 目黒書店 1941 *学校に於ける舞踊 明星社 1947 *舞踊創作法 カワイ楽譜 1961 == リンク == *[http://www12.big.or.jp/~dance/ Modern Dance & Contemporary 特集 江口隆哉生誕100年祭] *[http://www.shinkyo.com/concerts/i160-3.html 舞踊曲「創造」について] *[http://www.sankei.co.jp/edit/bunka/02november/1105eguchi.html ENAK流行+芸能 江口乙矢、ステージ生活70周年 ] *[http://www.riwfoap.com/natsunogeijyuku/report_030726.html こうべ芸塾2003年(パフォーマンスとお話、江口乙矢)] *[http://www.toonippo.co.jp/news_too/nto2004/0211/nto0211_18.html WEB東奥、舞踊家の江口乙矢氏が死去] *[http://www.toonippo.co.jp/toosho/toosho1999/#Anchor3 江口乙矢、99年東奥賞] *[http://www.kk-video.co.jp/sakuhin/modern/eguchimitunori.html 江口満典] {{DEFAULTSORT:えくち たかや}} [[Category:日本のダンサー]] [[Category:日本女子体育大学の教員]] [[Category:青森県出身の人物]] [[Category:1900年生]] [[Category:1977年没]]
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