コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
水野雄仁のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
水野雄仁
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{Infobox baseball player |選手名 = 水野 雄仁 |英語表記 = |所属球団 = |背番号 = |選手写真ファイル名 = |写真サイズ = |写真のコメント = |国籍 = {{JPN}} |出身地 = [[徳島県]][[阿南市]] |生年月日 = {{生年月日と年齢|1965|9|3}} |没年月日 = |身長 = 178 |体重 = 82 |利き腕 = 右 |打席 = 右 |守備位置 = [[投手]] |プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1983}} |ドラフト順位 = ドラフト1位 |初出場 = 1984年5月22日 |最終出場 = 1996年10月22日(日本シリーズ第3戦) |年俸 = |経歴 = <nowiki></nowiki> * [[徳島県立池田高等学校]] * [[読売ジャイアンツ]] (1984 - 1996) |経歴補足題 = コーチ歴 |経歴補足 = <nowiki></nowiki> * 読売ジャイアンツ (1999 - 2001) |選出国 = |選出年 = |得票率 = |選出方法 = }} '''水野 雄仁'''(みずの かつひと、[[1965年]][[9月3日]] - )は、[[徳島県]][[阿南市]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]])、[[野球解説者]](所属事務所・[[エル・ファクトリー]])。 ==来歴・人物== [[1965年]]9月、阿南市宝田町の餡屋の息子として生まれる。[[1972年]]7月、[[阿南市立宝田小学校]]1年時に、少年野球チーム・宝田ダックスに入部。[[1976年]]、小学5年時から投手になる。[[阿南市立阿南第一中学校]]卒業。 [[徳島県立池田高等学校|池田高校]]時代は、[[1982年]]、[[1983年]]の[[全国高等学校野球選手権大会]]、1983年の[[選抜高等学校野球大会]]と3大会連続甲子園に出場。82年夏・83年春における史上4校目の「夏・春連続制覇」、1983年夏のベスト4進出の中心選手として活躍した。83年春・夏はエース・4番として出場、その風貌も相まって「阿波の金太郎」と呼ばれた。 82年の夏の選手権ではレフトとして出場、中軸を打ち、優勝に貢献した。[[荒木大輔]]を擁する[[早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部|早稲田実業学校]]との準々決勝では、終盤に満塁[[本塁打]]を放った。この試合で甲子園初登板も果している。翌83年夏は史上初の夏春夏の3連覇を目指して、全国大会に出場。準々決勝の中京戦での[[野中徹博]]との投手戦は、[[1980年代]]を代表する好ゲームとしてファンに記憶されている。準決勝では[[桑田真澄]]・[[清原和博]]の[[KKコンビ]]いる[[PL学園]]に7対0で屈した。清原からは4三振を奪うも、桑田には左翼スタンドへの特大の本塁打を喫している(このときの桑田の本塁打が水野の甲子園での初被弾である)<ref>私のベストゲーム(桑田真澄著)</ref>。 1983年の[[プロ野球ドラフト会議]]1位で読売ジャイアンツに指名され入団。当時のエース・[[江川卓 (野球)|江川卓]]と投球フォームが似ていたことからか、背番号は江川の続番である「31」となった。[[1986年]]には一軍に定着して8勝をマーク。[[王貞治]]監督時代の[[1987年]]には10勝をあげ、リーグ優勝に貢献した。 [[藤田元司]]、[[長嶋茂雄]]両監督時代は中継ぎ、抑えとして活躍。オープン間もない[[東京ドーム]]で開催された[[1988年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1988年のオールスターゲーム]]第3戦で、延長12回に代打として登場し、サヨナラ犠牲フライを放った。[[1996年]]限りで一度引退した。 [[1997年]]には[[フジテレビジョン|フジテレビ]]・[[ニッポン放送]]・[[スポーツ報知]]の解説者を務めた。同年秋、メジャーリーグでの現役復帰を目指して、ドミニカの[[ウィンターリーグ]]に参加し、日本人初の勝利投手となった。翌1998年、サンディエゴ・パドレスのスプリング・キャンプに参加したが、メジャー昇格はならず、正式に現役を引退し、帰国した。 再度の引退・帰国後は再びフジテレビ・ニッポン放送・スポーツ報知の解説者を務めた後、[[1999年]]、巨人に投手コーチとして復帰し、[[2001年]]退団。現在は[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、[[アール・エフ・ラジオ日本]]、スポーツ報知野球解説者。RFラジオ日本で月曜夜8時から放送中の『[[水野雄仁のGスタジアム]]』のMCを担当している。 2007年より[[静岡県セイブ自動車学校]]のCMに出演している(静岡及び東海地区ローカル)。父親が静岡県出身であること、さらに叔父が同校の教官(2013年現在、顧問)をしていることから起用された(CMでは「おじさん」と共演している)。2009年には第24回地方CM大賞に選ばれた。 == エピソード == {{雑多な内容の箇条書き|date=2011年7月|section=1}} *池田高校で優勝した際にはテレビで同校の特集番組が組まれた。当時の[[蔦文也]]監督の指導により、選手の上半身強化が徹底されていたこともあり水野が重い[[バーベル]]を軽々と持ち上げ、後輩に「これぐらい持てんとホームラン打てへん」と豪語したり、練習終了後は近所の[[ドライブイン]]で、牛[[ステーキ]]、[[豚カツ]]食べ放題と言い放ったりという姿が放送された。 *水野は池田野球について以下のようにインタビューで答えている。池田の練習は毎日授業を終えた15時から3時間、みっちりバッティング練習をして、残り30分だけ[[ノック (野球)|ノック]](守備練習)。[[キャッチボール]]する時間は無駄だ、とウォーミングアップもしないで、いきなりフリーバッティングが始まり、守りに付いた野手が1塁へ投げて肩を作れ、と。また「当時は[[金属バット]]が導入されて8年目ぐらいの頃で、[[ウェイトトレーニング]]を取り入れている学校はあまりなかったと思いますが、僕らは積極的に取り入れて打撃を強化していました。特に冬場はよくやりました。また毎日、野球部寮の裏手にある後援会副会長が営むレストランで、当たり前のように食べたいだけ肉を食べさせてもらっていました。それで良質な筋肉が作られていったと思います。蔦さんはいろんなことにチャレンジする監督で、ちょうど地元の企業だった[[大塚製薬]]が[[ポカリスエット]]を販売し始めた頃で、僕らはモデル校みたいな感じで練習中にポカリスエットや[[試供品]]の[[カロリーメイト]]を体にいいからと飲まされていました。バットに関しては、社会人野球のチームだったと思うんですが『凄く打球音がよくて飛ぶバットだ』ということでいち早く[[ゼット (企業)|ゼット]]パワーを取り入れて、結果的に強力打線を生み出しました」<ref name="takarajima">[http://www.tkj.jp/book/?cd=20164401 別冊宝島1644 名門野球部の甲子園伝説 伝説のチーム編 2009年、宝島社、p3-7]</ref>。 *[[第64回全国高等学校野球選手権大会|第64回大会]]での全国制覇については「決勝で昔ながらの緻密な野球をする[[広島県立広島商業高等学校|広島商業]]を相手に12-2の大勝だったので、余計にみなさんは『強打・池田』の印象を強くし「新しい時代の流れを感じた」とよく言ってくれます」。[[早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部|早稲田実業]]戦については「池田の紅白戦は[[畠山準]]さんと僕が投げていたのでチームメイトも[[荒木大輔]]さんのストレートが速いと感じなかったはずです。僕は畠山さんを目標として努力していただけに、荒木さんより畠山さんの評価が低いというのが、どうしても許せなかった」。 *[[第65回全国高等学校野球選手権大会|第65回大会]]については「3回戦の広島商業戦で頭に[[デッドボール]]を食らって、その後はあまり覚えていないんです。準決勝の相手[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]は完全にノーマークで、ここは流して、いざ決勝という慢心があった。でも今考えれば、いい相手に負けましたよ。野球の神様が流れを作っているんだろうとすごく感じた。[[KKコンビ]]のPL学園が勝ち続けたことによって、より池田の輝きは増したと思いますから」「高校を卒業して四半世紀以上が経つというのに甲子園関連の取材がない年はありません。改めて池田はそれだけ強い印象を残したチームだったんだなあと思うんです」などと話している<ref name="takarajima" />。また、先にPL学園戦に負けたのは、広島商戦で受けた死球の影響がピークに達していたからではとの見方が強かったが、本人は後年「中1日の中京戦では1失点完投だったから影響はなかったと思う。PL戦に関しては、気のゆるみもあり準備ができていなかったのかもしれません。マークしていた清原は、4打数4三振に抑えていますしね。」<ref>『高校野球思い出の名勝負30+1夏』 [[ベースボールマガジン社]]刊 p9</ref>と決して死球のせいではないと振り返っている。 *現役時代の[[1985年]]に門限過ぎの飲酒を『[[FOCUS|フォーカス]]』に掲載された。故障療養中でしかも未成年の時点での不祥事ということもあり、謹慎処分を受けた。この時に[[槙原寛己]]は何度か「おーい、生きてるか?」と茶化した。また、寮の非常階段に有刺鉄線が張られたのは水野らの夜遊びの度が過ぎたのが主な原因だったのだが、その水野が自ら「巨人軍は火事があったら大変だ」と消防署に電話したために有刺鉄線は撤去されたと槙原は語っている<ref name="makihara">[http://snn.getnews.jp/archives/80155 元巨人・槙原氏が告白 “プロ生活20年間ずっと・・・・・・”(TBS「ジョブチューン~アノ職業のヒミツぶっちゃけます!」2013年5月11日放送分より)]</ref>。 *水野より1歳上で同じく高校3年で読売ジャイアンツにドラフト1位で指名されプロ入りした[[斎藤雅樹]]は[[1989年]]、1990年連続20勝記録したが、両年とも20勝目を挙げた試合は水野が[[セーブ]]を記録した。 *入団当初は[[ワールドペガサス]]の用具を使用していたが、のちに名前と同じ[[ミズノ]]に替えている。 *[[1990年]][[5月24日]]の[[ナゴヤ球場]]での対[[中日ドラゴンズ]]戦で槙原が[[バンス・ロー]]に頭部付近投球を与えた際乱闘になり、その際中日[[星野仙一]]監督が水野に罵声を浴びせられたとの理由で憤慨し、星野に大声で呼びつけられた後、顔面を殴打された。 *投手コーチ時代、年上の現役選手[[工藤公康]]からは「水野ちゃん」と呼ばれていた。同じく年上の槙原は茶化す意味でワザと「水野コーチ」と呼んでいた。 *解説等での一人称は主に「私(わたし)」を用いる。また、「投げれる」といった"ら抜け言葉"を多用する傾向にある。 == 詳細情報 == === 年度別投手成績 === {| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}} |- |style="text-align:center;"|{{by2|1984}} |rowspan="11" style="text-align:center;"|[[読売ジャイアンツ|巨人]] |7||0||0||0||0||0||0||0||--||----||55||10.2||15||2||9||0||0||9||0||0||8||8||6.75||2.25 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1986}} |26||16||2||0||1||8||6||1||--||.571||436||100.1||100||10||40||8||2||95||5||0||43||40||3.59||1.40 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1987}} |24||16||2||1||1||10||4||0||--||.714||428||107.0||98||12||20||1||1||82||4||0||40||31||2.61||1.10 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1988}} |23||18||3||1||0||6||6||1||--||.500||488||117.0||108||11||35||7||4||89||1||0||46||42||3.23||1.22 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1989}} |15||8||0||0||0||2||5||1||--||.286||251||63.1||50||6||14||0||3||57||1||0||25||24||3.41||1.01 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1990}} |34||1||0||0||0||2||2||11||--||.500||263||68.2||46||2||14||3||2||64||0||0||16||15||1.97||0.87 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1991}} |31||0||0||0||0||5||2||3||--||.714||191||50.1||40||6||8||3||1||30||0||0||14||12||2.15||0.95 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1993}} |43||0||0||0||0||1||1||0||--||.500||239||60.2||53||1||14||0||0||36||3||0||22||19||2.82||1.10 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1994}} |27||0||0||0||0||1||2||0||--||.333||151||35.2||40||4||10||3||0||22||1||0||21||20||5.05||1.40 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1995}} |25||0||0||0||0||2||1||0||--||.667||138||32.0||24||3||18||1||2||28||3||1||14||11||3.09||1.31 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1996}} |10||0||0||0||0||2||0||0||--||1.000||57||14.1||9||1||7||1||0||7||0||0||5||5||3.14||1.12 |- !colspan="2"|通算:11年 |265||59||7||2||2||39||29||17||--||.574||2697||660.0||583||58||189||27||15||519||18||1||254||227||3.10||1.17 |} === 記録 === *初登板:1984年5月22日、対[[阪神タイガース]]10回戦([[後楽園球場]])、8回表に3番手で救援登板、1回無失点 *初奪三振:同上、8回表に[[渡辺長助]]から *初先発:1986年5月18日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]7回戦(後楽園球場)、5回1/3を2失点で敗戦投手 *初勝利・初先発勝利:1986年5月25日、対[[中日ドラゴンズ]]7回戦([[ナゴヤ球場]])、7回1失点 *初完投勝利:1986年6月21日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]13回戦([[横浜スタジアム]])、9回2失点 *初セーブ:1986年7月26日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、10回裏2死に8番手で救援登板・完了、1/3回無失点 *初完封勝利:1987年10月12日、対[[広島東洋カープ]]25回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]) * [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回 (1988年) === 背番号 === * '''31''' (1984年 - 1996年) * '''71''' (1999年 - 2001年) == 関連情報 == === 現在の出演番組 === *[[Dramatic Game 1844]] *[[水野雄仁のGスタジアム]] *[[ラジオ日本ジャイアンツナイター]] === CM出演 === *静岡県セイブ自動車学校([[静岡県]][[浜松市]])<ref>[http://www.kenseibu.co.jp/cm.html CMギャラリー〜運転免許、合宿免許のセイブ自動車学校]</ref> == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[徳島県出身の人物一覧]] * [[読売ジャイアンツの選手一覧]] == 外部リンク == *[http://www.awano-kintaro.jp/index.html 水野雄仁 オフィシャルサイト] {{読売ジャイアンツ1983年ドラフト指名選手}} {{DEFAULTSORT:みすの かつひと}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:読売ジャイアンツ及び東京巨人軍の選手]] [[Category:野球指導者]] [[Category:野球解説者]] [[Category:徳島県出身の人物]] [[Category:1965年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:ズームイン!!シリーズ関係者]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:By2
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Infobox baseball player
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:投手成績
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:読売ジャイアンツ1983年ドラフト指名選手
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:雑多な内容の箇条書き
(
ソースを閲覧
)
水野雄仁
に戻る。
検索
検索
水野雄仁のソースを表示
話題を追加