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水野忠友
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 水野 忠友 | 時代 = [[江戸時代]]中期 | 生誕 = [[享保]]16年[[2月3日 (旧暦)|2月3日]]([[1731年]][[3月10日]]) | 死没 = [[享和]]2年[[9月19日 (旧暦)|9月19日]]([[1802年]][[10月15日]]) | 改名 = | 別名 = | 諡号 = | 戒名 = | 墓所 = | 官位 = | 幕府 = [[江戸幕府]] | 主君 = | 藩 = [[三河国|三河]][[大浜藩]]主→[[駿河国|駿河]][[沼津藩]]主 | 氏族 = [[水野氏]] | 父母 = 父:[[水野忠穀]] | 兄弟 = '''忠友'''、[[松平信志 (旗本)|松平信志]] | 妻 = 正室:[[牧野康周]]の娘 | 子 = 娘([[青山幸完]]正室)<br />娘([[田沼意正|水野忠徳]]正室、のち[[水野忠成]]継室)<br />養嗣子:''[[田沼意正|忠徳]]''、'''''[[水野忠成|忠成]]''''' | 特記事項 = }} '''水野 忠友'''(みずの ただとも)は、[[江戸時代]]中期の[[旗本]]、のち[[大名]]、[[老中]]。[[三河国|三河]][[大浜藩]]主、[[駿河国|駿河]][[沼津藩]]初代藩主。沼津藩水野家8代。 == 生涯 == 享保16年(1731年)2月3日、大身旗本[[水野忠穀]]の長男として生まれる。水野家は元々[[信濃国|信濃]][[松本藩|松本]]で7万石を食んでいたが、[[水野忠恒 (大名)|水野忠恒]](忠友の従兄にあたる)が刃傷事件を起こして[[改易]]され、家督は忠恒の叔父・忠穀に相続は許されたものの、大名の身分を剥奪され、信濃佐久郡7000石の旗本として辛うじて名跡を保っていた。 忠友は父死去に伴い12歳で家督を相続し、家治小姓([[元文]]4年([[1739年]]))、小姓組番頭格([[宝暦]]8年([[1758年]]))、御側衆(宝暦10年([[1760年]]))を経て、[[若年寄]]となり、[[明和]]2年([[1765年]])に加増を受け都合1万3000石になり、三河大浜に城地を与えられ、再び大名に復活する。さらに[[駿河国|駿河]]沼津に移り、最終的に3万石となる。 幕府では一貫して[[田沼意次]]の[[重商主義]]政策を支え、[[若年寄]]、[[側用人]]、勝手掛[[老中格]]を経て、正式な[[老中]]になる。天明6年([[1786年]])、意次失脚と同時に、忠徳と名乗らせ養嗣子としていた意次の息子(のちの[[田沼意正]])を廃嫡とし、代わりに分家旗本の[[水野忠成]](大和守)を養嗣子としたが、遅きに失した感は否めず、天明の打ち壊しを期に失脚して[[松平定信]]の指令で免職の憂き目にあう。 10年後の寛政9年([[1797年]])に再び老中(西丸付)に返り咲き、在職中の享和2年(1802年)9月19日に死去した。跡を養嗣子の[[水野忠成|忠成]]が継いだ。 == 経歴 == ※日付=旧暦 *[[1731年]]([[享保]]16年)2月3日、誕生。幼名は夘之助。惣兵衛。 *[[1742年]]([[寛保]]2年)11月5日、家督相続。 *[[1747年]]([[延享]]4年)12月19日、従五位下豊後守に叙任。 *[[1758年]]([[宝暦]]8年)10月15日、小姓組番頭格奥勤兼御側御用取次見習に異動。それまでは、西丸小姓頭取。 *[[1760年]](宝暦10年)4月1日、[[御側御用取次]][[側衆]]に異動。 *[[1765年]]([[明和]]2年)1月28日、1万3000石の三河大浜藩主となる。 *[[1768年]](明和5年)11月15日、[[若年寄]]に異動し、勝手掛となる。 *[[1769年]](明和6年)8月18日、出羽守に遷任。 *[[1777年]]([[安永]]6年)4月21日、[[側用人]]に異動し、従四位下に昇叙。出羽守如元。さらに'''加増'''(7000石)され、駿河国沼津に国替(2万石) *[[1780年]](安永9年)、[[沼津城]]築城 *[[1781年]]([[天明]]元年)9月18日、[[老中格]]に異動。'''加増'''(5000石)、9月27日、勝手掛となる。11月15日、侍従兼任。 *[[1785年]](天明5年)1月29日、老中に異動。奥勤も兼帯。'''加増'''(5000石) *[[1787年]](天明7年)12月4日、勝手掛を止む。 *[[1788年]](天明8年)3月28日、老中免職となり、[[伺候席|雁間詰]]となる。 *[[1797年]]([[寛政]]9年)11月29日、西丸(徳川家慶付き)老中に就く。 *[[1802年]]([[享和]]2年)9月19日に死去、[[享年]]72。 法名は脩徳院譲譽興仁懿翁大居士。 墓所は[[静岡県]][[沼津市]]出口町の千本山乘運寺と東京都文京区小石川の無量山傳通院壽經寺。 == 参考資料 == *「柳営補任」 *[[児玉幸多]]監修・[[新田完三]]編「内閣文庫蔵 諸侯年表」東京堂出版 1984年 *[[美和信夫]]「江戸幕府勝手掛老中就任者に関する考察」麗澤大学紀要31号 1981年7月 {{大浜藩主|1765年 - 1777年}} {{沼津藩主|水野氏|初代|1777年 - 1802年}} {{DEFAULTSORT:みすの たたとも}} [[Category:水野氏|たたとも]] [[Category:譜代大名]] [[Category:沼津藩主]] [[Category:三河国の藩主]] [[Category:江戸幕府旗本]] [[Category:江戸幕府側用人]] [[Category:江戸幕府御側御用取次]] [[Category:江戸幕府若年寄]] [[Category:江戸幕府老中]] [[Category:1731年生]] [[Category:1802年没]]
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